虚偽の正体をあらわす

(歎異抄・第九条・その三)

  また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、
  いささか所労のこともあれば、
  死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。

  (歎異抄・第九条)

  生きているものには死ぬことが一番おそろしい。
  自分の生命を中心として父母あり子あり友人あり財産あり、
  あらゆるものが自分を中心としてある。
  それが死ぬときになるといっぺんに消える。
  それがまこととしていることが、いっぺんに虚偽の正体をあらわす。
  みな空の空たるものである。空なるもので妄念妄想をあてにしている。
  それが死によっていつわり、虚偽の正体をあらわす。
  それをおそれるのである。

  (歎異抄聴記277ページ)

 譬えて言えば、身体は仏心を入れた箱です。中に仏心が入っていることを知らない人は箱のことだけを気にする。仏心を自覚すれば仏になるが、仏心に気がつかなければ箱のまま死ぬ。わたしは箱ではない。わたしは無生無滅の仏心であると気づいた人は永遠の命を獲得する。

 南無阿弥陀仏


Commented by 畑のかえる at 2018-03-12 21:08 x
拝読させていただきました。
さて、『わが名を称えよ』、以下の文に目が止まりました。
〝だいたい人間の欲求のうち、知性の要求は最も優れる。しかしながら知性は外に向かうをその性格とする。内に向かうを智慧といっていいのなら、この智慧は人間がみずからを超えんとする願いのために要請せらるる純知である。内観は人間最勝義の要求であるが、これは生死界を超えんとする願いから生まれる自我の最も厳粛なる態度である・・・〟
貴ブログで読んでいるので、致遠師のいわれることがすんなり理解できました(あくまで知性の上でしかありませんが)。
本日もありがとうございました。
Commented by zenkyu3 at 2018-03-13 02:48
> 畑のかえるさん
われらは永遠から呼ばれている。なぜ、そういうことが起きるのかはわからない。わからなくていい。身も心も任せていく。呼ばれる方に歩いていく。知っていることはなにもない。善及
by zenkyu3 | 2018-03-11 06:14 | 歎異抄聴記を読む | Comments(2)