常に信の一念に立つべし

(歎異抄・第九条・その二)

  「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、
  またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、
  いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、
  「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」。

  (歎異抄・第九条)

  わたくしはいつもこう思う。われわれは常に信の一念に立つべし。
  われわれは後念に立つということはないものである。
  われわれは常に信の一念に立てというのが、第九条のご教訓の精神である。
  いのちあらんかぎりはむろん、乃至一念である。
  乃至一念であるゆえ、乃至を一念におさめる。
  乃至は一念帰命の中にある。そとにあるのではない。
  それをややもすると一念のそとにでる。
  そのあやまりをここにあらわして、一生涯は一念の中にある。
  一生涯は一念の中にあるとたちかえらしていただく。

  (歎異抄聴記258ページ)

 念仏には踊躍歓喜という体験がある。心を離れて心を見るという体験があって初めて信仰の道を歩みだすという消息がある。心を離れた場所、空に触れて初めて心を見る。此方に居ながら彼方から此方が見えるという、不思議なことが起きる。この見えるということが智慧であり、仏眼をいただくのです。心を離れるから二度と心の束縛を受けない、我執が落ちる解脱体験です。この体験は長さがないといっていい極めて短い時間ですが、真実を見るには十分な一瞬の体験です。この体験を「信の一念」といいます。この体験を繰返し言葉にする歩みが自信を深め、教人信ともなるのです。

 南無阿弥陀仏


Commented by 畑のかえる at 2018-03-10 08:31 x
おはようございます。
今日も読ませていただきました。
ありがとうございました。
なむあみだぶつ。

Commented by zenkyu3 at 2018-03-10 10:10
> 畑のかえるさん
第九条は「信の一念」を体験することの大切さを伝えています。「信の一念」はわずか針の先ほどの光でも、立ち返り立ち返りしていくほどに光が広がっていく、その原点です。新たな聞法の始まりであり、仏になる無碍の一道、浄土の門が始めて開ける体験です。それゆえ「即得往生」、即ち往生することを得るといいます。善及
by zenkyu3 | 2018-03-10 06:03 | 歎異抄聴記を読む | Comments(2)