浄土のさとり

(歎異抄・第五条・その二)

  わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、
  念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。
  ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、
  六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、
  神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々

  (歎異抄・第五条)

  浄土のさとりは、無生無滅のさとり、本来のさとり、常住の世界を感得する。
  われわれは無常の世界を顛倒して常住と執するのを自力という。
  その無常感に即して無常を無常と感ずる。
  そこにその無常の彼岸に常住の世界を感ずる。それが浄土のさとりである。
  だから、自分のほうより常住の世界をさとろうと、
  がらにない傲慢な自力のはからいをすてて、
  如来の大願業力にしたがって常住のさとりを開く。
  如来の願力の中に常住の世界を感得していくのが横超の道である。

  (歎異抄聴記225ページ)

 永遠から声がする。われを呼ぶ声がする。声に呼ばれてここまで歩んで来た。声の主は誰であろうか。それを尋ねての聴聞であった。聴聞は機の深信で我執の太い綱を磨り減らす。しかし、我執の綱は切れない。我執を落とそうとする努力がすでに我執であったと気づくまでが大変である。永遠から呼ぶ声に耳を澄ませているうちに、やがて声の主と心がつながる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-24 06:07 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)