三世因果の理

(歎異抄・第五条・その一)

  親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
  そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
  いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。

  (歎異抄・第五条)

  「そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」。
  これは三世因果がでている。三世因果とは、仏法以外にない。
  この三世因果というのは、仏教のひとつの歴史観。
  今日、三世因果といっても、だれもほとんどうけつけないと思う。
  人間の理知を主とする学問では、絶対に了解できない。
  やはり宿業本能にかえって、三世因果という深い広大無辺の世界というものがある。
  
  「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」。これがつまり仏の大慈悲心。
  「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」という因縁をもって、
  仏とわれわれとのあいだに深いつながりを持つ。
  「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」ということを、
  三世因果の理をすなおにうけとることは、まことにすなおな宿善開発の人にして、
  はじめてできることで、なかなかすなおにうけとれない。

  (歎異抄聴記217ページ)

 「一切の有情」とは身体に蓄積された煩悩悪業のことです。命が受け継ぐ身体には無量の煩悩悪業の蓄積がある。この煩悩悪業の蓄積ゆえに、あらゆる命の個体が幾度も幾度もいろいろの生きものに姿を変えて生まれ変わってくる。この煩悩悪業が「世々生々の父母兄弟」です。永劫に尽きぬ無量の煩悩悪業の蓄積「一切の有情」がある限り仏の救いの事業に終わりはない。


 すでにわれらは仏に救われた。よって、仏となれば「一切の有情」を救うことができる。三世にわたる仏の救済事業はわれわれが救われたことですでに証明されている。現在の「一切の有情」はどこから来たか。現在の「一切の有情」は救われずに何処へ行くか。「三世因果という深い広大無辺の世界というものがある」という量深師の言葉にうなずかざるを得ない。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-23 06:04 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)