第一章(4)

 弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。

(歎異抄・第一章)

 第一節では、弥陀の本願とは智慧を与えて救う働きであると教えていただきました。智慧とは光であり、光は照らすものを選ばないから「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず」という。また、光は見えるようにする。見えなかったものが見えるのは光に照らされたからです。光の中でなにが見えたか。自分の心が見えた。自分の心の実際を見せていただいた。だから「罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします」という。われらは自分が誰だかわからずに苦しんできた。これを生死流転という。自分がわかれば迷うことはない。よって、自分の心が見えたことが救われたことです。智慧を与えて救うので如来回向という。これが十八願のおこころです。だから「ただ信心を要とすとしるべし」という。

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2018-09-22 05:48 | 歎異抄を読む | Comments(0)

第一章(3)

 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

(歎異抄・第一章)

 十八願文のおこころを引いた上で、付け加えるように、十八の本願成就して信心をいただいたことの意味を「すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」と示したことはとても重要です。ちなみに「摂取不捨」とは『観経』に「一一の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」とあることに依拠し、親鸞は現生十種の益の六番目に心光常護の益を挙げている。仏教において光明とは智慧(悟り)のことですから、第十八願の本願成就とは信の一念に智慧が生じた。そのことを「摂取不捨の利益にあずけしめたまう」と言うのです。やがて智慧が働きを現し、さまざまな「利益」を受ける身となるでしょう。仏へと育てていただくのです。因位の智慧を得て果位の仏となることがはっきりしたので信心の人に開けてくる境地を「現生不退」といいます。一番最初に一番大切な結論を示すのは仏教にふさわしく、見事な書き出しです。

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2018-09-21 05:24 | 歎異抄を読む | Comments(0)

第一章(2)

 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

(歎異抄・第一章)

 さて、第一章の第一節です。本節は第十八願の願文を写したかのように内容が一致している。十八願文を見ると「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ」とある。すぐにわかるように、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」は「心を至し」と同じ意味だし、「往生をばとぐるなりと信じて」は「信楽して」と、「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」は「我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん」とまったく一致しています。この書の作者は第十八願の本願成就のこころを親鸞の言葉でもって冒頭に明らかにしたのです。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2018-09-20 05:22 | 歎異抄を読む | Comments(0)

第一章(1)

 (1)弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。(2)弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。(3)しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々

(歎異抄・第一章)

 第一章から第十章までは親鸞の言葉が並んでいるが、この語録の通りに親鸞が話したとは思わない。作者が常日頃、親鸞から聞いていたことを書き留めていた古いノートを整理し、意図に沿って編集、配列したと見るのがよい。この書には親鸞の主著である『教行信証』からの引用がなく、むしろ『観経』に依拠するなど、全体的に親鸞の教えより古臭い印象がある。ただ、親鸞の肉声を伝えるのはこの書だけで、真宗を学ぶわれらには親しみが深い。

 さて、第一章を俯瞰すると内容的に三節に分けられる。第一節は十八願文の趣旨を引き、智慧を与えて救うのが弥陀の本願であることを明らかにした。では、弥陀の本願の目当ては誰なのか。それは悪を造るしかできない罪悪深重煩悩熾盛の衆生、すなわち、われらであると明らかにしているのが第二節です。そして、最後に第三節において現生不退の生活の内面を教えてくださったのです。第一章は全体として真宗の眼目を明らかにしようとの意図があるが、これだけ簡潔にまとめる作者の筆力に驚かされる。しかも、それを親鸞に語らせている。

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2018-09-19 05:01 | 歎異抄を読む | Comments(0)

漢文序

*新シリーズ「歎異抄を読む」の初回です。

 ひそかに愚案を回らして、ほぼ古今をかんがうるに、先師口伝の真信に異ることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、幸いに有縁の知識に依らずは、いかでか易行の一門に入ることを得んや。まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱すことなかれ。故親鸞聖人の御物語の趣き、耳の底にとどまるところ、いささか之をしるす。ひとえに同心行者の不審を散ぜんがためなり。

(歎異抄・漢文序)

 この書の序文で漢文で書かれている。作者は親鸞の死後、数十年が経ち、親鸞の流れを汲む一門の中ですら念仏の教えが正しく伝えられていないことに危機感を持っている。真実の信心は人から人へと伝わるのであり、信心の人が出なければ教えも乱れ、やがて教えも途絶してしまう。作者もまた善知識として周りから尊敬を受ける身なのでしょうが、真実の信心を弟子たちに伝えるご化導の一環としてこの書を作った。名聞、利養、勝他のためではない。思うに、仏教は宗旨を問わず仏心を伝えてきた伝統なのでしょう。目に見えない仏心は人から人へと伝わるのだから、仏心を得ようと思えば、まずは善知識を求めなくてはならない。仏を見れば仏になるからです。この書を含め、本を読んで仏になれるなどと思ってはならない。

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2018-09-18 05:31 | 歎異抄を読む | Comments(0)