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kirinn 2019-07-07

コメント欄から

 気づけば、いつの間にか休眠状態に入っていました。『歎異抄』の領解を書き終えてからというもの、とくに書きたいと思うことがありません。補足的になにかを書くことがあるかもしれませんが、新しい領解はもうありません。このまま終わるかもしれませんが、このブログは残しておきます。あと何年命が残っているかは知りませんが、もう「問い」はないのです。さて、しばらく更新がなかったからでしょう、古くからの読者であるkirinnさんが投稿してくださいました。善及

k-yoko2525
2019-07-07

 +こんにちは、善及さま+ なかなか善及さまのお部屋にゆっくりとお伺いすることが出来ないkirinnです。お元気でいらっしゃいますか? kirinnは煩悩くんと、どうしても仲良しでして…離れられません。いけませんね。^^; 時々、お伺いした時に…触る善及さまの優しい、清々しい、そして厳しいお言葉がとても心地よいです。ありがとうございます。kirinn

称名破満釈
2019-06-27
# by zenkyu3 | 2019-07-16 22:01 | コメント欄から | Comments(14)

称名破満釈

 しかれば名を称するに、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまう。称名はすなわちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなわちこれ念仏なり。念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなわちこれ正念なりと、知るべしと。

(教行信証・行巻 -16)

 『十七願』に云わく、「たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ」と。智慧をいただいた上の念仏であるから「諸仏称名の願」という。智慧の念仏を称える人は「諸仏」であると教えていただいている。智慧とは自分の心が見える。仏の方から自分の心が見えるので「正念」といいます。さて、人として生まれ、人として抱く最も切実な「願い」とは一体なんだろうか。金持ちになることでしょうか。有名になることでしょうか。あるいは、家族に恵まれ、長生きすることでしょうか。みな煩悩でしょう。信心さえわかったらいつ死んでもいい。そのような「志願」を持った人だけが念仏するのでしょう。志願がなければ「志願を満てたまう」ということもない。

 南無阿弥陀仏      
# by zenkyu3 | 2019-06-27 23:48 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(1)

欲生我国

 次に「欲生」と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず。かるがゆえに「不回向」と名づくるなり。

(教行信証・信巻 -15)

 『十八願』に云わく、「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ」と。久しく闇の中をさ迷っていた心の旅人が彼方に一点の光を発見した。その喜びはいかほどか想像に難くない。光を見い出した喜びが「至心信楽」なら、たとえ針の先ほどの光でも光は光、旅人は光のある方向に向かって勇んで歩き出す。それが「欲生我国」です。光を見たら誰しも必ず光に向かって歩き出すから「真実の信楽をもって欲生の体とするなり」といいます。また、信心獲得は仏のお心がわたしの心に現れてくださったことなので、わたしの努力はなにもない。むしろ、努力が信心をわからなくしていた。それゆえ「大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず」と教えてくださっています。

 南無阿弥陀仏     
# by zenkyu3 | 2019-06-18 19:13 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(0)

横超他力

 「横超」とは、本願を憶念して自力の心を離るる、これを「横超他力」と名づくるなり。これすなわち専の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗なり、これすなわち真宗なり。

(教行信証・仮身土巻 -14)
 
 『歎異抄』(第十三章)に云わく、「煩悩を断じなば、すなわち仏になり、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん」と。煩悩を滅して悟りを開くなどということは頭の中だけの観念論であって現実の話ではない。そもそも煩悩とはこの心身を造っている本能であるから、煩悩を滅するということは死ぬことに他ならない。煩悩の身をもって煩悩を断ずるなど不可能なことです。よって、仏法においては煩悩を滅するのではなく、煩悩を「超越する」(離れる)道を開いてくださっている。それが「横超他力」です。信仰生活において、仏のお心の中に自分の姿を発見する経験がある。それを「本願を憶念して」と教えていただいているのです。自分の心と仏のお心と、この二つの心の違いがはっきりすれば「自力の心を離れる」ことが出来る。わたしの場合は「仏はこのわたしをどう見ておられるだろうか」と、この一点だけに集中して念仏していた。「本願を憶念して自力の心を離るる」ということです。

 南無阿弥陀仏     
# by zenkyu3 | 2019-06-17 16:05 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(0)

六字釈

 しかれば、「南無」の言は帰命なり。「帰」の言は、至なり、また帰説[よりたのむなり]なり。説の字、悦の音、また帰説[よりかかるなり]なり、説の字は、税の音、悦税二つの音は告ぐるなり、述なり、人の意を宣述るなり。「命」の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。ここをもって、「帰命」は本願招喚の勅命なり。

(教行信証・行巻 -13)

 わたしを呼ぶ声がする。子どもの頃、孤独の中で聞こえた声がある。聞こえたことを疑ったことはない。わたしに聞こえたということにどんな理由があるかはわからないが、目に見えるものがすべてではないということはわかった。いつ死んでも誰も怪しまない歳になったが、子どもの頃に聞いた声の主と共に生きてきた。ときに忘れたこともあったが、目に見えないお心がいつもわたしにかけられていた。法を聞くようになってからはその声を「本願招喚の勅命」と教えていただいている。

 南無阿弥陀仏     

# by zenkyu3 | 2019-06-16 22:56 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(0)