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一蓮院秀存師

香樹院語録 七八

 ある時の仰せに、出離のことを相談する相手は、一蓮院の外なし、と。

 徳龍師は、第二十七章で秀存師の信心を認め、第四十五章では秀存師の信におごる気持ちをたしなめていた、ここでは、秀存師が人を指導することを許している。また、次の章では七地沈空の難に落ちた秀存師を徳龍師が救ったことが記録されている。この語録では秀存師の信心が深まっていく様子をまるで定点観測でもするかのように記録が残っている。本語録の序文に、柏原祐義、禿義峰の二氏、日課の余暇を以って、禿氏の大人顕誠老宿所蔵の講師法話等に依りて三百個条を纂集し、とあるが、この語録を歩き集めた禿氏の父君、顕誠老宿とはどんな方だったろうか。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2024-03-19 05:17 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

香樹院語録 七七

 法を聞きて法に入り、法に入りて法を得る。法に入る人は多けれども、法を聞き得る人、甚だまれなり。

 題には、信心欠けたる人を遠く仰ぐ人、信心の人を近く受くる人、と示している。遠く天を仰ぎ、死後の浄土を願う人に仏の声は聞こえず、自分の心の闇に分け入り、闇の底に光を求める人は仏の声を聞く。難しい経文を憶える学問ほど易しいことはなく、知っていると思っている自分の心に向き合うことほど難しいことはない。仏法の鏡に己の心を照らし見よ。そのための仏法です。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2024-03-18 05:14 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

香樹院語録 七六

 予(禅僧弘海)問うて云はく、法話を聞くことと、自ら聖教を読んでわが耳に聞くと云うこととは、有難く承わりぬ。ただ、念仏するを聞くと申すは、われ称えてわが声を聞く事に候や。師、大喝して曰く、汝、何事をか云う。わが称える念仏と云うもの何処にありや。称えさせる人なくして、罪悪のわが身、なんぞ称うることを得ん。称えさせる人ありて称えさせ給う念仏なれば、そもそもこの念仏は、何のために成就して、何のためにか称えさせ給うやと、心を砕きて思えば、即ちこれ常に称えるのが、常に聞くのなり、と。 予、この一語心肝に徹し、はっと受けたり。心に思うよう。「我至成仏道、名声超十方、究竟靡所聞、誓不成正覚」。また第十七の願に、わが名を諸仏にほめられんとの誓いは、名号を信ぜさせんとの御意なり。かつまた、常に聞くと申すことは、ただ法話のみを聞くことと思いしは誤りなりき。あわれ、志の薄かりしことよと恥じ入り、今まで禅門に於いて、知識より、汝、今をも知れぬ命なれば、昼夜十二時思惟して、この公案を拈底せよ、暫らくも忘るることをなかれ、と云われしことを思い浮べ、「聞思して遅慮するなかれ」との祖訓を、『見聞集』に尽くし給いしことを感悟し、それより常に法話なき時は聖教を拝聴し、朝夕は『三経』『正信偈』『和讃』『御文』を拝読し、また、つねに念仏を拝聴し奉るに、われ今称うる念仏には、ご主人ありて称えさせ給うなり。しかれば、ただ称えさせるを詮としたまはず。称えさせ給うは、助け給はんために、一声をも称えさせて下さるることよと思えば、それより称えることについて、尊く称えさせて下さるる身となりしなり。このこと今に耳にありて、忘るる能わずと申されけり。

 弘海いわく、われ今称うる念仏には、ご主人ありて称えさせ給うなり、と。ここに弘海は信を獲たことを自ら表明している。続けて、称えさせ給うは、助け給はんために、一声をも称えさせて下さるることよと思えば、それより称えることについて、尊く称えさせて下さるる身となりしなり、と。一声すなわちこれ一念なり。教行信証・信巻にこうある、それ真実信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念は、これ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり、と。徳龍師に導かれ、弘海の上に本願が成就した。徳龍師の下に、次々と信心の人が生まれる。普通のことではない。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2024-03-17 05:27 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

読者からの手紙

夢のあと 15

 今回のおたよりを拝見し、仏大悲の奥に自らを発見し、その自分を信ずることが出来るといわれます事、まことに尊いお言葉と感じました。念仏声中に於いて、本当に迷えるし、本当に助かるのでしょうね。(ある読者より)

 竹内先生の下で聴聞していた頃、毎月の例会のお知らせの葉書に〈樹心会々員からのお便り〉として短い文章を書いていたことがあります。竹内先生のお勧めで始めたもので、平成三(1991)年十月から平成七(1995)年五月まで三年半続きました。このお手紙は平成四(1992)年九月二十八日付けの葉書を読んでくださったある読者からいただいたものです。葉書にわたしは、このように書いていました。親とも思う仏のこころの奥に自分自身の姿を発見するとき、はじめてわたし達は、自分を知り、心から自分自身を信じることができるのだと思います、と。仏の方からわたしが見えるという信楽体験を拙い表現ながら伝えようとしています。そこのところをこの読者は認めてくださったのです。この読者はご自身のことをこのように書いています。私も長年、樹心会でお育てをいただいた者です。殊に竹内先生の御化導の下、会座に育てられ、お念仏に遇わせていただいたのですが、会を退いてからはトンと無沙汰のみです。寺に生まれ、少年時代に得度し、長じて生活の為に寺に在ったものです。その延長線上で聞法しても聞こえては来ず、ウロウロ迷い続けました。樹心会という会座に参加して始めて自分に困りましたし、途方にくれました。法の場に身を置かなかったら、恐らくみっともない程自分に困るということはなかったでしょう、と。この方は都内のある真宗寺院のご住職だった方です。苦労して信心を取られたことでしょう。誠実なお人柄が伝わって来ます。まことに有難いことに、竹内先生をはじめ、多くの方々に励まされ、こうして育てていただきました。なお、お手紙の全文は当ブログの資料集に保存してあります。善及

 南無阿弥陀仏
# by zenkyu3 | 2024-03-16 05:20 | 夢のあと | Comments(0)