是心作仏、是心是仏

 『論の註』に曰わく、かの安楽浄土に生まれんと願ずる者は、発無上菩提心を要す、とのたまえるなり。

 また云わく、「是心作仏」は、言うこころは、心よく作仏するなり。「是心是仏」は、心の外に仏ましまさずとなり。譬えば、火、木より出でて、火、木を離るることを得ざるなり。木を離れざるをもってのゆえに、すなわちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなわち火となるがごときなり。

(教行信証・信巻「論註」引用部分)

 「この心、作仏す。この心これ仏なり」は『観経』の第八像観に典拠があります。「この心」とは「無上菩提心」、すなわち「智慧」のことで、智慧の働きを「これ仏なり」と示しています。智慧の働きを「木、火のために焼かれて、木すなわち火となるがごときなり」と喩え、煩悩の木を焼き尽くすのが智慧の火の働きであると教えています。すなわち、信の一念に智慧を得て、智慧の働きにより心と物への執着が落ちていく。この方向が仏への道で、執着が落ちて行くほどに智慧の働きがはっきりして、さまざまな功徳を受けるのです。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2018-08-16 05:11 | 教行信証のこころ | Comments(0)

五種の功徳

 「利行満足」とは、「また五種の門ありて、漸次に五種の功徳を成就したまえりと、知るべしと。何ものか五門。一には近門、二には大会衆門、三には宅門、四には屋門、五には園林遊戯地門なり」とのたまえり。この五種は、入出の次第の相を示現せしむ。

 入相の中に、初めに浄土に至るはこれ近相なり。謂わく大乗正定聚に入るは、阿耨多羅三藐三菩提に近づくなり。浄土に入り已るは、すなわち如来の大会衆の数に入るなり。衆の数に入り已りぬれば、当に修行安心の宅に至るべし。宅に入り已れば、当に修行所居の屋宇に至るべし。修行成就し已りぬれば、当に教化地に至るべし。教化地はすなわちこれ菩薩の自娯楽の地なり。このゆえに出門を園林遊戯地門と称すと。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 「利行満足」とは自利利他の菩薩行が完成していく方向を明らかにしています。「初めに浄土に至るはこれ近相なり」とは初めて智慧を得たことをいいます。悟りに近づいたから「近門」です。すなわち「如来の大会衆の数に入る」から「大会衆門」といい、ここで浄土の門をくぐり、さらに進んで母屋に入ったので「宅門」といいます。さらに修行は進んで、仏のおられる奥座敷へと進んできたので「屋門」という。奥座敷に至れば仏にお会いして修行が終わったので、浄土から出て衆生済度に出かける。これを「園林遊戯地門と称す」と。

 自利利他の菩薩行が完成して、やがて仏となる。われらは菩薩の修行など一度もしたことがないが、これらのことが不思議にも「智慧の働き」、すなわち「念仏の功徳」で成就されるのです。なお、竹内先生は「屋門」について、こうお話しされました。すなわち「奥座敷までお伺いしたところ、仏さまは衆生済度に出かけておられて、お留守であった」と。これも大切な教えですので、ここに書き記しておきます。

 南無阿弥陀仏




# by zenkyu3 | 2018-08-15 05:25 | 教行信証のこころ | Comments(0)

 問うて曰わく、何の義に依って往生と説くぞや。答えて曰わく、この間の仮名の人の中において、五念門を修せしむ。前念と後念と因と作る。穢土の仮名の人・浄土の仮名の人、決定して一を得ず、決定して異を得ず。前心・後心またかくのごとし。何をもってのゆえに。もし一ならばすなわち因果なけん。もし異ならばすなわち相続にあらず。この義、一異を観ずる門なり。『論』の中に委曲なり。

 (教行信証・行巻「論註」引用部分)

 前回の記事の最後、「天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆえに、仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生・実の生死ありと謂うがごときにはあらざるなり」の続きです。すなわち、「願生」とは智慧を得た菩薩が智慧を完成させて仏の悟りの境地に至りたいと願うことで、凡夫が死んだ後に別の安楽世界に生まれたいと願うというような話ではないと、そういう展開でした。そこで、では「往生」とはどういうことかと新たな問いが立てられます。おおよそ大意は以下の通りです。

 穢土とは煩悩が見る迷いの世界、浄土とは智慧が見る悟りの世界のことです。どちらも心が造って心が住む心の世界で、象徴的に「場所」として表現されていますが、そう方便するのは煩悩に縛られている心を「前心」、智慧を得た心を「後心」と区別して煩悩を離れ悟りを求める心を起こさせたい諸仏菩薩の願いがあるからです。よって「往生」とは、智慧を「因」として開けてくる「果」としての悟りの世界がはっきりしたこと、すなわち「因」としての智慧が完成したことを「往生」というのだということです。「この義、一異を観ずる門なり」と。

 また、「仮名の人」とはどういうことかといえば、凡夫が驚き恐れないように、仮に「人」があるかのように説いただけで、穢土にも浄土にも「人」はない。心だけがあって心の所有者としての「人」を妄想しないのが「空無我」の仏教だということです。知るべし。

 南無阿弥陀仏




# by zenkyu3 | 2018-08-14 05:40 | 教行信証のこころ | Comments(0)

 問うて曰わく、大乗経論の中に処処に「衆生、畢竟無生にして虚空のごとし」と説きたまえり。いかんぞ天親菩薩、願生と言うや。

 答えて曰わく、「衆生無生にして虚空のごとし」と説くに、二種あり。一つには、凡夫の実の衆生と謂うところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じて有らゆることなけん、亀毛のごとし、虚空のごとしと。二つには、いわく、諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生にして有らゆることなきこと、虚空のごとしと。

 天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆえに、仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生・実の生死ありと謂うがごときにはあらざるなり。

(教行信証・行巻「論註」引用部分)

 大乗の経論は「無生」と教えているのに、なぜ天神菩薩は「願生」というのか。そういう問いが立てられています。答えて言うに、そもそも「無生」には二つの意味がある。一つには「生死はない」ということであり、二つには「すべては因縁生である」ということです。よって、天神菩薩が「願生」というのは、死後に生まれる「場所」があったり、そこに生まれる「人」があったりというような話ではないと、そんな趣旨でしょうか。

 「凡夫の実の衆生と謂うところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし」とは、人がいて、その人が生まれたり死んだりすると考えるのは頭の中のことでしかなく、頭が考えたことが実際にあると頭が間違って認識しているにすぎない。頭の中のことはどこまでも頭の中のことでしかないと、頭を超えた処から頭の中を見渡すのが正しい認識で、このような認識は心が見せる世界に執着している限り到達できない菩薩の悟りです。

 また、「諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生にして有らゆることなきこと、虚空のごとし」とは、すべては因縁生であるから実体がない。生まれたように見えて生まれたものがなく、死んだように見えて死んだものがない。このように知ることを「無生法認」といいます。因縁無自性空の智慧を得ることで開けてくる悟りの境地を「初地不退」といい、すべての諸仏菩薩は一切衆生をこの境地に入れたいと願って善巧方便するのです。(続く)

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2018-08-13 05:27 | 教行信証のこころ | Comments(0)

◎浄土和讃
阿弥陀仏の御名をきき/歓喜讃仰せしむれば
安楽国をねがうひと/正定聚にこそ住すなれ
安楽国土の荘厳は/釈迦無碍のみことにて
安楽声聞菩薩衆/人天智慧ほがらかに
安楽浄土にいたるひと/五濁悪世にかえりては
安楽無量の大菩薩/一生補処にいたるなり
安楽仏土の依正は/法蔵願力のなせるなり
已今当の往生は/この土の衆生のみならず
一一のはなのなかよりは/三十六百千億の
一一のはなのなかよりは/三十六百千億の
観音勢至もろともに/慈光世界を照曜し
顔容端正たぐいなし/精微妙躯非人天
解脱の光輪きわもなし/光触かぶるものはみな
光雲無碍如虚空/一切の有碍にさわりなし
光明月日に勝過して/超日月光となづけたり
光明てらしてたえざれば/不断光仏となづけ
三塗苦難ながくとじ/但有自然快楽音
慈光はるかにかぶらしめ/ひかりのいたる
七宝講堂道場樹/方便化身の浄土なり
七宝樹林くににみつ/光曜たがいにかがやけり
七宝の宝池いさぎよく/八功徳水みちみてり
十方三世の無量慧/おなじく一如に乗じてぞ
十方衆生のためにとて/如来の法蔵あつめてぞ
十方諸有の衆生は/阿弥陀至徳の御名をきき
十方の無量菩薩衆/徳本うえんためにとて
清浄光明ならびなし/遇斯光のゆえなれば
自余の九方の仏国も/菩薩の往覲みなおなじ
自利利他円満して/帰命方便巧荘厳
神光の離相をとかざれば/無称光仏となづけ
信心歓喜慶所聞/乃曁一念至心者
神力自在なることは/測量すべきことぞなき
神力無極の阿弥陀は/無量の諸仏ほめたまう
神力本願及満足/明了堅固究竟願
清風宝樹をふくときは/いつつの音声いだし
相好ごとに百千の/ひかりを十方にはなちてぞ
たとい大千世界に/みてらん火をもすぎゆきて
智慧の光明はかりなし/有量の諸相ことごとく
道光明朗超絶せり/清浄光仏ともうすなり
若不生者のちかいゆえ/信楽まことにとき
仏慧功徳をほめしめて/十方の有縁にきかし
仏光測量なきゆえに/難思光仏となづけたり
仏光照曜最第一/光炎王仏となづけたり
宝林宝樹微妙音/自然清和の伎楽にて
弥陀成仏のこのかたは/いまに十劫をへた
弥陀初会の聖衆は/算数のおよぶことぞなき
弥陀の浄土に帰しぬれば /すなわち諸仏に
弥陀の名号となえつつ/信心まことにうるひと
妙土広大超数限/本願荘厳よりおこる
無明の闇を破するゆえ/智慧光仏となづけたり

◎高僧和讃
釈迦弥陀は慈悲の父母/種種に善巧方便し
真宗念仏ききえつつ/一念無疑なるをこそ 
本願力にあいぬれば/むなしくすぐるひとぞ
無碍光如来の名号と/かの光明智相とは

◎正像末和讃
罪福信ずる行者は/仏智の不思議をうたがいて 
聖道門のひとはみな/自力の心をむねとして
浄土真宗に帰すれども/真実の心はありがたし
浄土の大菩提心は/願作仏心をすすめしむ
仏智の不思議を疑惑して/罪福信じ善本を
弥陀智願の広海に/凡夫善悪の心水も
無慚無愧のこの身にて/まことのこころは

(2016.11.21~)





# by zenkyu3 | 2018-08-12 06:00 | 仏からの道・資料集 | Comments(0)