学問をむねとする

 学問をむねとするは、聖道門なり、難行となづく。あやまって、学問して、名聞利養のおもいに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんという証文もそうろうぞかし。

(歎異抄・第十二章 -19)

 仏教は哲学ではない。学問は人の心を救わない。救われるとはなにか。自分の心に縛られて自分が誰かもわからなくなった。だから、救われるとは自分の心から自由になる。自由とは離れる。自分の心を否定するのではない。肯定するのでもない。否定も肯定も執着であるからただ離れる。離れるから自分の心が見える。自分の心が見えて救われる。この体験が仏教であり体験するのに学問はいらない。

 南無阿弥陀仏
# by zenkyu3 | 2019-03-27 05:05 | 歎異抄を読む | Comments(0)

摂取不捨の利益

 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

(歎異抄・第一章 -18)

 『観経』(第九真身観)に云わく、「一一の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。その光明・相好および化仏、具に説くべからず。但、当に憶想して、心眼をして見せしむべし。この事を見れば、すなわち十方一切の諸仏を見たてまつる。諸仏を見たてまつるをもってのゆえに念仏三昧と名づく」と。仏がわたしをみそなわす。その瞬間、わたしは仏の眼になる。仏の方からわたしが見える。仏のお心の中にわたしを発見する。これが「摂取不捨」という信体験です。地球全体が大気に包まれているようにわたしは仏のお心という大気の中に生活している。そのご利益は「往生の生活」であり、智慧のお育てを受けて仏への道を歩ませていただいている。

 南無阿弥陀仏
# by zenkyu3 | 2019-03-26 05:31 | 歎異抄を読む | Comments(0)

 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

(歎異抄・第一章 -17)

 闇の中に光を見る。針の先ほどの光でも光は光、光があるということを知った。そうすれば光に向かって歩いていける。闇とは煩悩であり、光とは智慧です。智慧とは仏であり、成仏とは智慧の完成です。十八願に云わく、「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ」と。すなわち、「往生をばとぐるなりと信じて」とは欲生我国であり、「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」とは乃至十念です。信の一念に智慧が生じて成仏が定まった。これを「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」という。第一章は十八願そのままの展開です。

 南無阿弥陀仏
# by zenkyu3 | 2019-03-25 05:35 | 歎異抄を読む | Comments(0)

 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

(歎異抄・第一章 -16)

 第一章は信仰の入口です。「救われない」という深い自覚があればこそ「たすけられまいらせて」という信仰上の救済がある。自分ではどうすることもできないから「助けてください」とすがる。しかし「助けてください」とは死んでも言えないものです。死んでも言えないことが言えたから「たすけまいらせて」ということが起きたのでしょう。

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2019-03-24 05:07 | 歎異抄を読む | Comments(0)

古親鸞のおおせごと

 これさらにわたくしのことばにあらずといえども、経釈のゆくじもしらず、法文の浅深をこころえわけたることもそうらわねば、さだめておかしきことにてこそそうらわめども、古親鸞のおおせごとそうらいしおもむき、百分が一、かたはしばかりをも、おもいいでまいらせて、かきつけそうろうなり。

(歎異抄・後序 -15)

 唯円は親鸞の言葉を口述筆記したわけではない。自らの信心の深まりにしたがって故親鸞の言葉を何度も何度も思い出し、生涯にわたって何度も何度も聞き直していたに違いない。そして、今も信心の要となっている言葉を「耳の底にとどまるところ、いささか之をしるす」(前序)といってまとめたのが『歎異抄』だったのでしょう。だから、なにも今さら過去の記憶を手繰り寄せて回顧録を書いたというわけではない。師匠の言葉とはそういうものです。

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2019-03-23 05:34 | 歎異抄を読む | Comments(0)