2026年 03月 05日
本当に死ぬということ
信心とは何か 31
▶曽我量深随聞日録より
親鸞聖人は「前念命終」というのは「信受本願」である、「即得往生」は「後念即生」である、と(愚禿鈔)。これはつまり、ただ身体が死んだのが命終わったのではなくて、本当に死ぬということは私の心にある。だからして「前念命終、後念即生」ということは、われらの精神が死んで、そうしてまた、死ぬと共に浄土に生まれ浄土に生きる。そういうことを「前念命終、後念即生」というのである。(津曲淳三著『親鸞の大地―曽我量深随聞日録』289ページ)
「わたしの心がわたしである」という間違った認識を仏教では「無明」という。無明あるがゆえにわたしたちは「わたしの心」に深く執着する。執着して、わたしの心と一体化して、わたしの心が造るあらゆる苦悩を舐め尽くす。何度も何度も同じ苦悩を舐め、何度わたしの心に騙されても、慣れ親しんだ心は離れ難い。そんな愚かさに気づかせようと諸仏、善知識はさまざまに方便する。仏教はどんな教えであれ、苦悩をつくる「心を離れる」ことを教える。しかし、わたしたちは心を自分だと深く信じ込んでいるので、心を離れることを死ぬことのように恐れる。この恐怖に誰も勝てない。この恐怖をなんとか越えさせ、わたしの心の呪縛から解き放そうというのが諸仏、善知識のご苦労です。善及
▶曽我量深随聞日録より
親鸞聖人は「前念命終」というのは「信受本願」である、「即得往生」は「後念即生」である、と(愚禿鈔)。これはつまり、ただ身体が死んだのが命終わったのではなくて、本当に死ぬということは私の心にある。だからして「前念命終、後念即生」ということは、われらの精神が死んで、そうしてまた、死ぬと共に浄土に生まれ浄土に生きる。そういうことを「前念命終、後念即生」というのである。(津曲淳三著『親鸞の大地―曽我量深随聞日録』289ページ)
「わたしの心がわたしである」という間違った認識を仏教では「無明」という。無明あるがゆえにわたしたちは「わたしの心」に深く執着する。執着して、わたしの心と一体化して、わたしの心が造るあらゆる苦悩を舐め尽くす。何度も何度も同じ苦悩を舐め、何度わたしの心に騙されても、慣れ親しんだ心は離れ難い。そんな愚かさに気づかせようと諸仏、善知識はさまざまに方便する。仏教はどんな教えであれ、苦悩をつくる「心を離れる」ことを教える。しかし、わたしたちは心を自分だと深く信じ込んでいるので、心を離れることを死ぬことのように恐れる。この恐怖に誰も勝てない。この恐怖をなんとか越えさせ、わたしの心の呪縛から解き放そうというのが諸仏、善知識のご苦労です。善及
南無阿弥陀仏
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by zenkyu3
| 2026-03-05 05:00
| 信心とは何か
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2026年 03月 04日
後生たすけたまえ
信心とは何か 30
▶蓮如上人御一代記聞書より
188 一 聖人の御一流は、たのむ一念の所、肝要なり。故に、たのむと云うことをば、代々、あそばしおかれそうらえども、委しく、何とたのめと云うことを、しらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、『御文』を御作り候いて、「雑行をすてて、後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせられ候う。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。(真宗聖典888ページ)
「後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめ」と蓮如上人は教えられた。蓮如上人ご自身が信楽の一念を前にして、その声を聞いたのでしょう。しかし、よくよく考えれば「たすけたまえ」とは尋常の言葉ではない。あるいは水に落ちて、いまにも溺れそうな者の必死の訴えである。あるいは万策尽きてすべてを投げ出すときに出る悲痛な叫びである。あるいは徹底的に打ちのめされ、惨めに負けを受け入れた者の諦めの言葉である。尋常の時に出るような言葉ではない。信楽の一念を前にした蓮如上人が、わたしの心を捨てようとして捨てられない。わたしの心を捨てる恐怖に怯え、ためらい、すくんでしまった時、蓮如上人に聞こえて来た声が「後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめ」であったのでしょう。「しかれば、御再興の上人にてましますものなり」。蓮如上人に信楽の一念がなければ、真宗の再興はなかった。善及
南無阿弥陀仏
▶蓮如上人御一代記聞書より
188 一 聖人の御一流は、たのむ一念の所、肝要なり。故に、たのむと云うことをば、代々、あそばしおかれそうらえども、委しく、何とたのめと云うことを、しらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、『御文』を御作り候いて、「雑行をすてて、後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせられ候う。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。(真宗聖典888ページ)
「後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめ」と蓮如上人は教えられた。蓮如上人ご自身が信楽の一念を前にして、その声を聞いたのでしょう。しかし、よくよく考えれば「たすけたまえ」とは尋常の言葉ではない。あるいは水に落ちて、いまにも溺れそうな者の必死の訴えである。あるいは万策尽きてすべてを投げ出すときに出る悲痛な叫びである。あるいは徹底的に打ちのめされ、惨めに負けを受け入れた者の諦めの言葉である。尋常の時に出るような言葉ではない。信楽の一念を前にした蓮如上人が、わたしの心を捨てようとして捨てられない。わたしの心を捨てる恐怖に怯え、ためらい、すくんでしまった時、蓮如上人に聞こえて来た声が「後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめ」であったのでしょう。「しかれば、御再興の上人にてましますものなり」。蓮如上人に信楽の一念がなければ、真宗の再興はなかった。善及
南無阿弥陀仏
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| 2026-03-04 05:00
| 信心とは何か
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2026年 03月 03日
やうやう此頃お知らせを蒙りました
信心とは何か 29
▶香樹院語録(二三〇)より
伊勢四日市江戸屋にて御泊りの節、藤山藤七という同行參上して。私におきましては、一念の信一念の信と仰せらるれば、我等凡夫の一念のやうに心得誤りてをりました處、段々御聞かせをいたヾけば、如来樣の一念であつたと云ふことが、やうやう此頃お知らせを蒙りまして御座ります、と申し上げヽる。師の曰く。そこへ氣がついたか。
『香樹院語録』には徳龍師から印可を与えられた信心の人が多く登場するが、藤山藤七という同行もその一人です。藤七いわく「やうやう此頃お知らせを蒙りまして御座ります」と。お知らせとは「信楽の一念」のことでしょう。この同行にも信楽の一念が起こった。如来廻向ということがわかった。この藤七、経験した信楽の一念が正しいものかどうかを聞きたくて、会ったこともない本山の講師様を宿泊先へ尋ねて来た。禅宗に「一宿覚」ということがあるけれど、徳龍師は初見にもかかわらず「そこへ気がついたか」と即座に印可を与えた。親鸞聖人の御一流、信楽の一念を相続する無名の人が市井に隠れていることを思うと、真宗はなかなかすごい。現代もそうあって欲しい。善及
南無阿弥陀仏
▶香樹院語録(二三〇)より
伊勢四日市江戸屋にて御泊りの節、藤山藤七という同行參上して。私におきましては、一念の信一念の信と仰せらるれば、我等凡夫の一念のやうに心得誤りてをりました處、段々御聞かせをいたヾけば、如来樣の一念であつたと云ふことが、やうやう此頃お知らせを蒙りまして御座ります、と申し上げヽる。師の曰く。そこへ氣がついたか。
『香樹院語録』には徳龍師から印可を与えられた信心の人が多く登場するが、藤山藤七という同行もその一人です。藤七いわく「やうやう此頃お知らせを蒙りまして御座ります」と。お知らせとは「信楽の一念」のことでしょう。この同行にも信楽の一念が起こった。如来廻向ということがわかった。この藤七、経験した信楽の一念が正しいものかどうかを聞きたくて、会ったこともない本山の講師様を宿泊先へ尋ねて来た。禅宗に「一宿覚」ということがあるけれど、徳龍師は初見にもかかわらず「そこへ気がついたか」と即座に印可を与えた。親鸞聖人の御一流、信楽の一念を相続する無名の人が市井に隠れていることを思うと、真宗はなかなかすごい。現代もそうあって欲しい。善及
南無阿弥陀仏
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by zenkyu3
| 2026-03-03 05:00
| 信心とは何か
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2026年 03月 02日
聞いても聞いても聞こえません
信心とは何か 28
▶香樹院語録(五)より
尾張神尾のおこう、私は聞いても聞いても聞こえませぬから、まづ暫く歸つて參ります、と申し上げたれば、行くなら行け、佛法が旱魃するぞ、と仰せあり。女、空恐ろしくなりて自然と歸る心も止まりぬ。其の後、仝女に對せられて、後生大事となり、骨折つて聞くなら、信ぜずに死んでも、如來さまは、一度は生死を離れさせて下さるゝ程に、との仰せなりき。
無量寿経・本願成就文にこうある。「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す」と。尾張神尾のおこうなる女、徳龍師に対して「聞いても聞いても聞こえません」と愚痴を吐いた。信楽の獲得を目的とする聴聞に於いて「聞こえません」というは、(仏の方より)「心を至し廻向したまえり」。しかし、(こちらでは)如来廻向の信心がいただけない。つまり、真実信心がわからないということです。しかも、真実信心をいただくということは発菩提心でもあるから、得涅槃がどういうことかがわからなければ、願作仏心、無上涅槃の悟りを目指す心も起きない。即得往生住不退転、つまり、浄土での如実修行が始まらないということです。善及
南無阿弥陀仏
▶香樹院語録(五)より
尾張神尾のおこう、私は聞いても聞いても聞こえませぬから、まづ暫く歸つて參ります、と申し上げたれば、行くなら行け、佛法が旱魃するぞ、と仰せあり。女、空恐ろしくなりて自然と歸る心も止まりぬ。其の後、仝女に對せられて、後生大事となり、骨折つて聞くなら、信ぜずに死んでも、如來さまは、一度は生死を離れさせて下さるゝ程に、との仰せなりき。
無量寿経・本願成就文にこうある。「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す」と。尾張神尾のおこうなる女、徳龍師に対して「聞いても聞いても聞こえません」と愚痴を吐いた。信楽の獲得を目的とする聴聞に於いて「聞こえません」というは、(仏の方より)「心を至し廻向したまえり」。しかし、(こちらでは)如来廻向の信心がいただけない。つまり、真実信心がわからないということです。しかも、真実信心をいただくということは発菩提心でもあるから、得涅槃がどういうことかがわからなければ、願作仏心、無上涅槃の悟りを目指す心も起きない。即得往生住不退転、つまり、浄土での如実修行が始まらないということです。善及
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| 2026-03-02 05:00
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