歎異抄・第十三章(5)

 願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくわれがたしとおもうべき」とそうろうぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてそうらえ。

(歎異抄・第十三章)

 信仰とは仏とわたしの一対一の対話であり、仏のお心の中という精神生活が開けてくることを信仰といいます。よって、念仏の行者にとり人生とは仏のお心の中で仏になるための修行をすることをいいます。ですから、それがどんな世であれ、この世での姿がどんなであれ、法さえ聞ければそれでよいのです。思うに、第十三章の歴史的背景である「造悪無碍」の邪義が起こってくるのは、信仰が世間への主張になっていて、自分の心の問題になりきっていないことがあります。内に向かうべき信仰が外に向かって社会活動や金儲け、ときに政治や党派闘争になってしまうのです。鎌倉時代の念仏勃興期にあって庶民が歴史上初めて「個の救済」としての信仰を持った喜びは大きかったでしょうが、自らの心の内を覗き見る恐ろしさに耐え得る人はそれほど多くはなかったに違いない。それは現代も同じです。その恐ろしさに怯むから「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくわれがたしとおもうべき」と善知識が励ますのです。「悪をもおそるべからず」の「悪」は内なる煩悩、自分の心のことであって、外なる道徳的、世間的な悪とは関係がない。煩悩は宿業が起こすのだから自分の力ではどうしようもない。だから、放っておいて相手にしない。相手にしなければ煩悩も静かになると教えてくれているのです。

 南無阿弥陀仏

*9月18日~43回

# by zenkyu3 | 2018-11-15 05:24 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第十三章(4)

 そのかみ邪見におちたるひとあって、悪をつくりたるものを、たすけんという願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいいて、ようように、あしざまなることのきこえそうらいしとき、御消息に、「くすりあればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされてそうろうは、かの邪執をやめんがためなり。まったく、悪は往生のさわりたるべしとにはあらず。

(歎異抄・第十三章)

 『御消息』に云わく、「煩悩具足の身なれば、こころにもまかせ、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいうまじきことをもゆるし、こころにもおもうまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにあるべしともうしおうてそうろうらんこそ、かえすがえす不便におぼえそうらえ。えいもさめぬさきに、なおさけをすすめ、毒もきえやらぬものに、いよいよ毒をすすめんがごとし。くすりあり毒をこのめ、とそうろうらんことは、あるべくもそうらわずとぞおぼえそうろう」と。(『親鸞聖人御消息集・広本』第一通より一部抜粋)

 文末に「この文をもちて、鹿島・行方・南庄、いずかたにもこれにこころざしおわしまさんひとには、おなじ御こころによみきかせたまうべくそうろう。あなかしこ、あなかしこ。建長四年壬子八月十九日 親鸞」とあります。『御消息』は建長三(1251)年から文応元(1260)年、親鸞七十九歳から八十八歳までの九年間に書かれたものですから、この御消息は初期のものです。文中に「くすりあり毒をこのめ」とあるから、唯円はこの手紙を読んでいたのでしょう。また、『年表』によれば、建長四年の項には「親鸞、書状により関東の造悪無碍の風儀を制止」とあります。この御消息もその書状に含まれるのでしょう。法然も親鸞も生涯、「造悪無碍」の邪義に悩まされてきた。第十三章の歴史的背景です。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2018-11-14 05:23 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第十三章(3)

 また、あるとき「唯円房はわがいうことをば信ずるか」と、おおせのそうらいしあいだ、「さんぞうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがうまじきか」と、かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状もうしてそうらいしかば、「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞がいうことをがうまじきとはいうぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。

(歎異抄・第十三章)

 自力は自由意思を証明しなくてはならない。しかし、それは不可能であることの親鸞のご化導がこの長文の挿話です。「なにごともこころにまかせたることならば」が自由意思です。「一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり」が自力無効です。

 さて、この書には「唯円坊」の名が二度出てくる。最初は第九章の「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」で、二度目はこの章の「唯円房はわがいうことをば信ずるか」です。二度とも親鸞の呼びかけで、親に呼ばれて喜ぶ子どものような唯円の姿がそこにはあります。親鸞亡き後も、いまも親鸞から呼ばれているのでしょう。唯円はこの書に自分の名を残さなかったが、これでこの書の作者がわかる。親鸞との初めて出会いが第二章、親鸞に信心を認めていただいたのが第九章です。そして、第十三章のこの挿話からは親鸞と唯円の温かな師弟関係が伝わってくる。これだけの長文を挿話として残したことには意味がある。親鸞を思い出し、懐かしさに涙する唯円が目に浮かぶようです。この書の白眉です。

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2018-11-13 05:57 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第十三章(2)

 よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。

(歎異抄・第十三章)

 量深師に教えを仰ぐ。「わたしは、宿業について久しく問題にしていたのであるが、数年前ふとしたところで、宿業は本能なりと感得した。宿業は人間の理知によって知られるものではない。生まれながらにして与えられている本能である。人間は、理知で宿業を知ろうとしても知られない。人間ぜんたい、自己全体が宿業である。宿業の主観である。だからして宿業の中に自己がある。それで人間は宿業を知らしてもらった時は、すでに仏の本願中にある。大慈悲心のうちにある。宿業は如来の大悲のお光にてらされて、宿業を知らしていただく。ゆえに宿業を知らしていただくことは、宿善の開発である。」(曽我量深著「歎異抄聞記」より)

 第十三章は「宿業」をテーマにしている。宿業がわかることが信心をいただいたことであると量深師は教えている。なぜ、宿業を知ることが宿善開発なのかといえば、自由意思の完全否定が「宿業は本能なり」だからです。本能から離れた自由意思などない。社会を形成する構成員としての「人」を成り立たせるための法的な仮構が「自由意思」であり、実際には自由意思を持った人間などいないというのが「宗教」です。もし、本能から独立した自由意思などというものがあるのなら、それを証明しなくては本当の「人」にはなれない。だから、実際に自力聖道門はそれを証明しようとする。しかし、自由意思は証明できない。自由意思は証明できないとわかることを「自力無効」といいます。

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2018-11-12 05:39 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第十三章(1)

 弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ。この条、本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざるなり。

(歎異抄・第十三章)

 第十三章は「道徳化」の実際例です。「悪をおそれざる」とは第一章に「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」とある親鸞の言葉です。「悪」とは煩悩のこと、「おそれざる」とは人は支配者を畏れる。煩悩に支配されているから凡夫は煩悩を畏れる。煩悩に支配されていながら、煩悩は自分でコントロールできるはずだと大きな勘違いをしている。それが道徳の根本にある自力の心です。心を深く観察すればわかるが、煩悩は業道自然で勝手に起きてくる。もし、わたしが起こしているなら起こさないことも可能なはずだが、「ひとえに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか」、起こさないどころか起きてしまった煩悩すら内に隠しておけない。正しく心を観察すれば、煩悩の支配者にはなれないことがわかる。なぜなら、すべては因縁生起の現象で、煩悩もまた因縁によって起こったり消えたりしているだけで、わたしがどうこうできるものではないからです。過去から積み上げてきた無量無辺の悪業の蓄積を縁として起きてくる煩悩なので、それをとくに「宿業」という。善業であれ悪業であれ、すべては宿業の催すところで、煩悩をコントロールすることはできないと知ることを「宿業観」といいます。煩悩はわたしの一部だと思っているかもしれないが、そうではなくて、わたしが煩悩の一部なのです。

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2018-11-11 05:42 | 歎異抄を読む | Comments(0)