願生と得生

 願ずる時、その時、往生を得るのである。往生を得たからといって命あらん限り願生は続いている。だから即得往生がまた願に還って来る。即得往生と願が命あらん限り平行している。願生と得生が相互に因となり果となり、命あらん限り願生と得生が連続して、得生がまた新たに願生を生み出して来る。それが自信教人信、 仏恩報謝ということになる。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」48ページ) 

 『本願成就文』に云わく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す」と。信の一念に仏を見る。見たことは見たがはっきりしない。はっきりしないが仏を見たことに疑いはない。だから、信心歓喜をもう一度はっきりさせたくて「乃至一念」の念仏に立ち返る。仏をもう一度見たい。だから不断に念仏する。即得往生の経験があるから願生することが出来る。願生してさらに仏のお心がはっきりして、やがて願力が自在に働き出す。願力が働き出すと疑いがなくなる。願力に一切をお任せして、自分がなにかするということもなくなる。得生したから願生できる。願生するからさらに得生する。得生して喜び、懺悔してさらに願生する。このようにして命ある限り念仏がどこまでも深まっていく。

 南無阿弥陀仏  
# by zenkyu3 | 2019-01-20 05:13 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)

疑惑と不審

 疑惑と不審-金子大栄先生は信前の疑を疑惑、信後の疑を不審と講釈しておられたが、無疑の疑は法を疑う、無慮の慮は法は疑わぬが機を疑う。疑も慮も性質は同じものだが、法を疑うと機を疑うと。機を取り逃がしては大変なことだと思う。そういうことが「親鸞もこの不審ありつるに」という意味であろう。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」145ページ) 

 『観経疏』に云わく、「二者深信。深心と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得と信ず」と。機の深信は自分がわかる。法の深信は仏がわかる。機と法は合せ鏡だから、機がはっきりしないのは法がはっきりしない。仏がはっきりしないから自分がはっきりしない。「親鸞もこの不審ありつるに」とは、唯円が「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」(歎異抄・第九章)と尋ねたことへの親鸞の答えぶりです。「疑いなく慮りなくかの願力に乗じて」とならないのは、信の一念に経験した仏がまだはっきりしない。はっきりしないのは「願力」がまだ自在に働き出していないからです。信の一念に立ち返り、まだまだ自力無効を如実修行していかなくてはならない。

 南無阿弥陀仏    
# by zenkyu3 | 2019-01-19 05:05 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)

先師の言葉 五(4)

 「煩悩を起こせば生死を招き、菩提を修すれば涅槃を証る。前は迷いの因果にして、後は悟りの因果なり。これはこれ、十方・三世を通貫せる因果の大道理なるものなり」と、いかほど心得ても、いかほど知り抜いても、いかに口舌を巧みにしても、いかに筆硯を弄しても、真実、仏法の尊さが知れず、無常世界の恐ろしさが分からず。心底より一大事に驚き立てて、一切を捨てて出離の要道に踏み込まぬ者が言うたのでは、これを戯論と申して、一種の詐欺なり。他をたぶらかし、みずからをたぶらかして、涼しき顔して「これが仏法じゃ」と思えり。事ここに至っては邪法を通り越して無法者と言うほかあるべからず。この種の無法者を聖教には「悪知識」と言えり。「当今は末法。現にこれ五濁悪世なり」。日本国中・世界中に右体の悪知識が飛躍、跳梁して、海に陸に充満し、各自に悪見、邪見を振り立てつつ、「隙もあらば悪道・邪見に誘引せんものを」と身構えおる世の中なり。

(野田明薫『先師の言葉』83-4)

 竹内先生はよく「仏道を世渡りの杖にしている」「念仏を腰掛けにしている」「白木の念仏に立て」とお弟子さんを叱りました。杖であれ腰掛けであれ「よくぞ、ここまで来た」と仏様なら喜ばれるかもしれませんが、明薫師は信を取らなければ生まれてきた意味がないと言い放つ気迫のかかった善知識だった。「邪師・邪教・邪思惟を離れる事」と題するこの文章が誰のために書かれたものなのかはわかりませんが、明薫師の厳しいご化導に耐え得たお方がおられたのでしょう。

 南無阿弥陀仏 

# by zenkyu3 | 2019-01-18 05:41 | 先師の言葉から | Comments(0)

先師の言葉 五(3)

 世間一般の思想は、詮ずるところ、これ六道生死中の倒見・妄計にして生死事大の前には毛の先で突いたほども役には立たず。今にして初めて、世界一切の思想の虚なりしこと、仮なりしことに驚愕して、かかる虚仮を「真実なり」と握りしめたりしことの愚劣さを悲しむべし。『韓非子』にも「是を是とし、非を非とす。これを賢という。是を非とし、非を是とす。これを愚という」と言えり。我等、無始以来乃至今日まで、如来の正法を邪なりとし、世間の邪法を正なりとして、邪法・邪見を本として正法・正見に反対し来たりしが故に、一朝一夕に邪法・邪見を脱することははなはだ難事なり。かかる難事は尋常びとのなし得るところにあらず。非常の器が非常の事縁に逢着して初めて足を踏み入るる境地とす。ここらが張子の象どもの想像すら及ばざる別天地にして、大死一番したる者にあらざれば入ることを許されざる殿堂なり。

(野田明薫『先師の言葉』83-3)

 「大死」とは心が死ぬ。体の死は仏道ではあまり意味がない。命を捨てるくらいの覚悟ならできるかも知れないが、心を捨てる覚悟ができない。それほど心への執着は深い。だから、心が死ぬことを「大死」という。仏道はすべからく「大死一番」する。大死すれば自ずと「絶後蘇息」する。親鸞は「前念命終、後念即生」と教えた。人の心を捨てると仏の心になる。この経験なくして仏道に入ることはできない。

 南無阿弥陀仏 
# by zenkyu3 | 2019-01-17 05:51 | 先師の言葉から | Comments(0)

先師の言葉 五(2)

 「吾れ、五十にして、四十九年の非を知る」と言えり。「生死事大、無常迅速」。「あわれ、今日まで吾れ過てり」と一念気が付けばしめたものなれども、百万人中ただの一人にてもそこに気が付かば上々首尾なり。悟りを開くは最々後の到達地としても、第一歩に「迷いを翻す」ものがはなはだ稀なることなり。善導大師は「努力して翻迷して、本家に還れ」とのたまえり。無始以来生死海に沈没て、いまだかつて翻迷せず、乃至今日に及べるわが身なり。一大事の翻迷、今日にあり。眠れる獅子ならば、奮迅の勢いを以って起つべし。しかれども、当今・末法においては張子の象のみ多くして、あたら口に風邪なり。太子の言葉にも「世間は虚仮なり」と言えり。「よろずのこと、皆な以ってそらごと、たわごと、まことあること無き」世の中ぞかし。昨日は今日と変わる世の風潮を顧慮して、何にかせん。

(野田明薫『先師の言葉』83-2)

 『歎異抄』(後序)に云わく、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と。これは親鸞の言葉です。聖徳太子の「世間虚仮、唯仏是真」の言葉をそのまま反映している。これはよくよく心に刻むべき言葉です。人生五十年がたとえ百年になろうとも、「まことあることなき」を確かめたこともなければ、「念仏のみぞまこと」と喜んだこともない。「昨日が今日になった」だけで終わる人生なら、それこそ「そらごとたわごと」の人生です。命は法を聞くために与えられた。必ず法を聞き遂げ「百万人中のただ一人」になれと明薫師は励ましている。

 南無阿弥陀仏
# by zenkyu3 | 2019-01-16 05:58 | 先師の言葉から | Comments(0)