タグ:香樹院語録 ( 45 ) タグの人気記事

それが信相続の相じゃ

  二九二、江州の了信、師の御枕許に来りて申し上ぐるよう。
  私は御前え上りましても同行衆の中でも、口では立派に調子合わして喜んではおりますが、
  もしやもしや心底が違うては一大事じゃと云う心配が御座ります。
  これは如何致しましたらよろしう御座りませう。 仰せに。それが信相続の相じゃ。
  有難う御座ります、左様なればこれながらで往生させて貰います。
  師曰く。往生に間近くなれば、それもないようになる程に。

  (香樹院語録)   


 一度信を獲たら後はきれいさっぱりという訳ではない。江州の了信という方は「心配」を正直に告白している。弟子も尊いが「信相続の相じゃ」「往生に間近くなれば、それもないようになる程に」と即座に応答する香樹院師は仏さまのようです。人間界では師と弟子であるが、仏々相念、諸仏の世界、お浄土で見るような光景ではないでしょうか。「もしやもしや心底が違うては一大事じゃ」と、信の一念に何千回、何万回、何億回も立ち返り立ち返り信を深めて行くのが信後の生活です。

 信の一念に立ち返るたびに、ありがたさに自然に限りなく新らしい念仏が出てくるのです。信の一念に立ち返るたびに仏のお心の中の自分を見せていただく。仏のお心こそが浄土であり、仏のお心の中の自分を見せていただく生活を「心の往生」というのです。江州の了信いわく「左様なればこれながらで往生させて貰います」と。「歎異抄」にも親鸞と唯円の対話がありますが、このような対話の記録はない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-19 06:16 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

人間に生れぬる大事

e0361146_18545600.jpg  二九九、聞いて楽しむ身の上が、云うを手柄にするぞおかしき。
  云わぬを手柄と思うなよ。聞き得たままを繕ろわず云うて、なおしてもらえかし。
  聞いて覚えて、云うことに骨折る人ぞあわれなれ。聞きうることぞ大事也。
  聞き得た上の楽しみは、拙き言葉ありながら胸のありだけ語りあい、
  御慈悲喜ぶたのしさは、覚えた人は味しらず。
  忘れとうても忘られぬは如来をたのむ心也。

  三〇〇、安政五年正月二十三日、師京都に於て寂したまう。寿八十有七。
  御遺言に曰く。人間に生れぬる大事は、ただ後生の一つ也。誰れかこれを知らざらむ。
  然れども、よく知る人甚だまれなり。仏祖これがために大悲の胸を傷めさせたもう。
  ただ願くは念仏の行者、一味の志をもって、自信教人信のつとめをなして給わらば、
  予がなきあとの喜び、何事かこれに如かん。
  得やすくして得難きは他力の大信、守り難くして守りやすきは信の上のつとめ也。

  (香樹院語録)


 仏とは永遠に変わらない生きた働きであるから、われら一人一人の上に働きとして現れて、仏として経験されるものです。冷暖自知ともいいますが、仏は経験した者にしかわからない。しかし、仏を経験するのに知識はいらないし、経験したことを話すのにも知識はいらない。事実は事実だからです。しかし、仏の経験は「自信教人信」で伝わってきた仏教の伝統であるから、先達が積み上げてきた経験と教義を学んで、有縁の人が仏を経験できるように手助けすることが仏道です。

 人にもわかるように説明する工夫は自らの信心をはっきりさせ、仏との対話をさらに深めることにも役立ちます。だから、信を語ることは自慢でも利得でもなく、仏の慈悲がこの世に現れるためのお手伝いであり、わたしにとっては仏になるための予行練習になっているのです。しかし、中には信仰を生きるための心構えのように思っている人もいて独りよがりの信心から抜けられないでいる。あるいは、世間の辛さから逃げる場所として信仰が必要な人や、人生になんの疑問もなく教養のように仏教を学んでいる人もいる。

 無明という病を治す薬はあっても薬は飲まなくては効き目がない。薬の効能書きを読むばかりでなかなか服用しないのは、本当は苦しくないのでしょう。自覚症状がないのはかえって病が重篤だということもあります。信の一念とは「心が見えた」ということです。見えることが救いとなるのは心を離れて心の影響を受けなくなるからです。心が見えることを「智慧」といい、見えるようにして救うのが仏のお慈悲です。これを「廻向」といいます。薬を飲んで病が治った人は助けられたご恩があるわけですから、薬の効能と健康の有り難さを周りにも伝えはじめるのです。そのようにお育ていただいています。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-18 07:30 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

疑いが晴れる

  二七四、懸鼓庵問うて曰く。一念帰命のところ如何に候や。
  師曰く。一念帰命とは疑い晴るるばかりなり。
  問う。なにに疑いはるるにて候や。師曰く。本願の不思議に疑いはるる也。
  また問う。其の不思議とは如何。
  仰せに。助かるまじきものを不思議の本願で助けたまうことを、不思議とは申すなり。
  懸鼓庵問うて曰く。それを目的にして信ずるか。師の曰く。そうじゃ。

  (香樹院語録)


 疑いのないのが仏の心だから「疑いが晴れる」とは仏の心になった。心が明るく素直になった。人の心ではなくなった。人の心よりもっと深い所に眠っていた高次の心、仏心が目覚めた。意識の届かない不思議の領域から仏の声が届いた。色も形もない仏心が自覚された。われらの小さな意識の領域に仏心が入って来た。これは明らかな救いの証拠である。わたしの心より高次の心、一切衆生の身体に埋め込まれていた無生無滅の仏心が今に目覚めた。このことを「疑いが晴れる」という。

 仏の心がわたしの主体となってくださって、古いわたしの心はただの外面になった。主体が入れかわった。このようなことは努力してできることではない。だから「お助け」という。われらが生活する小さな意識の世界の外からやってくるので「不思議」という。一人一人の心の底に眠っていた仏心からの呼び声をわたしたちはいつも聞いていた。ただ気にも止めていなかっただけだ。だから、いまも届いている仏心の呼び声を聞くだけで、われらは仏に等しい者になる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-17 13:26 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

弥陀に待たれたる身なり

  三、ある人、私はいかほど聴聞致しましても、
  どうも、つかまえ所が御座りませぬ、と申し上げたれば、
  仰せに。 そうであろう。
  おれは、つかまえられぬように、云うて居るのじゃ。  
   

  二一六、未だ疑いはれねども、
  聴聞して疑いはれたいと思うものは、
  弥陀に待たれたる身なり。
  余所から帰る子をまつは親なり。子は待たるるなり。
  他人はまたぬが親は早う帰ればよいと待つ。
  帰る時は村端え出てまつ。
  弥陀は極楽の東門から出て来て、今や今やと待ち給う也。

  (香樹院語録)


 われらはいつも自分の心と対話しながら生活している。自分の心の欲求を満たすための人生だからです。さて、聴聞とはなにか。「私はいかほど聴聞致しましても、どうも、つかまえ所が御座りませぬ」。この人、なにを知りたいのか。なにを目的とした聴聞だろうか。聴聞とは、自分の心ではない、仏のお心を知りたい。自分の心ではなく、仏のお心と対話できるようになりたいが「聴聞」です。

 一度も経験したことがない仏のお心は、仏のお心を経験した人から直に教えていただく。知らないのだから心を素直にして聞けばいいが、なかなか素直になれない。素直になれないことがすぐにわかる。心を空にできない。聞くだけになれずすぐ自分の意見を持ち出す。すぐ頭でわかろうとする。つかまえたら観念、持ったら知識、仏の上に居て、生きて働く仏を遠ざける。観念、知識と対話することはできない。だから、香樹院師は「おれは、つかまえられぬように、云うて居るのじゃ」という。

 仏のお心と対話する心の回線を開通するには、心のアンテナを高くして、仏から届く声、一度も聞いたことがない仏の声を聞かなくてはならない。耳を澄まして、周囲の雑音を排して、ただひたすら聞く耳だけになって、孤独に耐えて、深い静寂の中で仏の声を聞く。たとえ微かでも聞こえたら仏のお心とつながる。聞こえたらもっと聞きたくなる。聞くのが楽しくなる。

 仏のお心と対話ができるようになるまで、さらに聴聞が続く。仏の声がもっと聞きたい。時々聞こえていた声がいつも聞こえているようになる。これを「憶念の心つねにして」(冠頭讃)という。対話の相手が自分の心から仏のお心に変わる。仏のお心がわたしの主体になってくださる。生まれて来て、これ以上の喜び、これに優る尊さはない。思えば、われらは誰に強制されたわけでもないのに法を聞こうとする。あなたも「弥陀に待たれる身」なのです。

 南無阿弥陀仏


 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-16 09:38 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

「このまま」の救い

  香樹院師、美濃田代町のおせきが、
  水手桶下げて、御庭前へ参りたるを見られ、
  にわかに「おせき、極楽参りはどうじゃ」と仰せらる。
  おせきは、その手水桶さげたまま、
  「はい、これなりで御座ります」と直に申し上げたれば、
  「おせきはよく聴聞したなア」と仰せられたという。

  香樹院師は決して人に許さぬ人であった。
  ところがここでは、「おせきはよく聴聞したなア」と仰せられている。
  しかもこの「これなりで御座ります」が自己の肯定であったならば、
  師は決してこれを許して居られないであろう。
  「これなりで御座ります」が自己の肯定の如くであって、
  実は全的否定である。
  「そのまま」の仰せの聞こえずめの中にあっての「これなり」であるから、
  その態度は常に否定である。
  「これよりほかに仕方のない」自分を常に見せて頂いて居るのである。
  これよりほかに仕方のない自分が常に見えるゆえに、
  「そのまま」の仰せが常に聞こえるのである。

  (松原致遠著「わが名をを称えよ」より)


 自分の顔は自分には見えないように、自分の心は自分には見えない。見えないものを見えるようにしてくださるのは如来廻向の仏智です。仏の方からわたしが見える。「これよりほかに仕方のない」自分を見せていただく。心を離れて心が見える不思議、仏法はこれに尽きる。自分の心を見たこともないのに「このまま」の救いなどという人がいるが、「このまま」が自分なら「このまま」と許すのも自分である。それでは救いにはならない。そもそも許す自分が救われない当の本人である。

 仏の慈悲は全否定してから救う「そのまま」の全肯定である。わたしを超えてわたしに臨むお心の中にわたしはわたしを、「これよりほかに仕方のない」わたしを発見する。見せていただくのは「仏の眼」で見せていただくのである。この一点がぎりぎりのところだ。生きていても安心がない。なぜ、心はいつも寂しいのか。わたしが誰だかわからない。どこから来たのかも、どこへ行くのかもわからない。親にはぐれて迷子になった子どもは親に見つけてもらうしかない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-06 08:53 | 香樹院語録を読む | Comments(0)