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阿弥陀様の御養育

e0361146_19503513.jpg  一四一、仰せられ候。阿弥陀様の御養育と云うは、
  親が子を抱きづめにして居るように、
  何処に居っても見て居ってやるから、
  危げなしに我をたのめ、と仰せらるる御念力に、
  つなぎ付けられたことじゃ。

  (香樹院語録)    

 この法語、聞き手がいない。香樹院師の素直な宗教感情の表白です。どこにいても、どんなときも、親に見守られているという安心が子を一人立ちさせる。仏の心といつもつながっている。いつでも仏の方から声がする。いつでも仏と対話できる。これが「憶念の心つねにして」(冠頭讃)ということです。

 仏は観念ではなく、生きて働く永遠に不変不滅の仏心ですから、いきいきと経験することが出来る。しかも、一人一人の身に埋め込まれている仏心で、二つない仏心ですから、みな同じ仏を経験する。一度経験したら二度と仏を忘れない。だから「摂取不捨」という。わたしは忘れても仏は忘れない。わたしの方からではなく、いつも仏の方から見守られている。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」



by zenkyu3 | 2017-01-29 06:34 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

浄土真宗の信心

  一四二、我が機を信ずると云うは、御法を受くる機なり。
  悪人を正機として、助け給うが弥陀の大悲なれども、
  凡夫の自性は、如何ようにも我が身あさましと思われぬ故、
  この我が身あさましと思う心まで、如来の方より成就して與え給う也。
  されば、かかる者を、弥陀の願力にて御助けに預り、
  必ず往生をとぐるぞと、まことの信心は生ずる也。
  この如く我れあさましと信ずる心と、
  弥陀如来なればこそと信ずる心との二種の深信は、
  他力より與え給う者なれば、是れを他力の信と云う。
  この他力の信は、弥陀の本願を聞き開く時に頂くなり。
  これを釈迦如来は、「其の名号を聞きて、信心歓喜せよ」と教え給う。
  浄土真宗の信心と云うは、是れより外になしと心得べき也。

  (香樹院語録)    


 自分の顔を見ることはできない。見るときは鏡を用いる。わが心はわが心を見ることはできない。見えないから迷っていられる。我が儘でいられる。苦しんでも理由がわからない。心が見えるように智慧を与えて、迷いから救い上げるのが仏の慈悲です。だから、心が見えたことが信心をいただいたことです。心が見えることを懺悔といい、見えるようにして救ってくれた仏への感謝を讃嘆といいます。懺悔は機の深信であり、讃嘆は法の深信です。

 救ってくれた仏のお心の中にいて心の浅ましさを謝る生活を信心といい、信心は必ず二種深信を内容としています。初めて救われた経験を信の一念といい、仏との値遇体験を原点にして信心が深まっていく生活を往生といいます。どのように深まっていくかといえば、心への執着が浄化されていく。浄化されていくことの心の様子を多歓喜といいます。このようなことはわたしの努力の結果ではないので他力の信といいます。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-28 06:45 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

おれはおれの後生がある

  一九三、 京都西六條の人明信寺宝洲、若年の頃師に謁し、
  私は後生に大事がかかりませぬ、と申し上ぐ。
  師はただおれはおれの後生がある。その方は其方で心配したがよい。
  一人一人の後生じゃ。他人のことは、おれの知ることでない。
  と、一言の下に郤けられけり。明信寺それより、
  いよいよ来世のことは己が一大事なりと云うことに打ち驚き、
  師に随うて遂に信を獲られき。

  (香樹院語録)


 信心をいただくことは過去世までの宿善の開発であるから、宿善のないものは現世で信心をいただくことはない。これは仏の御はからいです。だから、親鸞は「ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(教行信証・総序)と言われたし、「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」(歎異抄・第6章)とも言われた。生は無生無滅の仏心の自覚を目的としていて、三世の流転は仏心の自覚まで延々と続く。

 ありがたくも人に生まれ、人としての苦難に出会うのも仏の御はからいと喜ばせていただける。後生が一大事となるのも仏の御はからいです。だから、わたしにとっての信心は自分が喜ばせていただくことであって、人が喜ぶのは仏の御はからいで、わたしがどうするという事柄ではない。わたしが喜ぶのを見て人が喜ぶということもあるかもしれないが、それもまた仏の御はからいです。「往還の廻向は他力による」(正信偈)と教えていただいている。わたしの手柄などというものはなにもない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-27 06:26 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

仏祖の御冥覽を仰ぎ

  二〇六、飛騨国郡上組十二ヶ寺の御聞調の時、
  了因寺曰く。我慢、勝他、名利ゆえに、
  家内門徒も聞きとり法門ばかり致させをり候いしが、
  今日こそは心に徹致仕り候間、安心受得の上、
  家内門徒には報謝の実意より申し伝え、
  御趣意に背かぬようと心がけたく存じ候。
  仰せに。今迄の名利我慢は凡夫の妄念妄想故なり。
  後は仏祖の御冥覽を仰ぎ、我が心を御前にひらき出して、
  愛欲貪欲やめよとはのたまはぬ。
  この煩悩のなりで喜べよの大悲を仰ぎ、
  先づ我が身が仏法三昧になるべし。
  又名利は如来よりよいやうに、
  飢えも饑えもせぬようにし給うべし。

  (香樹院語録)     


 「我が心を御前にひらき出して」とは具体的で、わかりやすい。すなわち、心を露(あらわ)にして仏に我が心をそのままを見ていただくことですから、これは「懺悔」です。「愛欲貪欲やめよとはのたまはぬ」とは煩悩即菩提、そのままを救うのがお誓いであるから、われらは心を直す必要がない。心とはこの身をいただいたときに身についてきた「過去世の宿業の集積」であるから、この身からなにが出てくるかはわれら凡夫にはわからない。

 だから「不思議」という。出てきたものはあるから出てきたのであり、すべては宿業であるから、われらにはただ事実として受け取るだけしかできないのである。この身の事実を素直に受け入れる、事実に随順するところにかえって心の自由が開ける。事実を事実と受け入れるところに事実を超える道がある。これを「横超」といい、「凡夫の妄念妄想」を全体として見る「仏智」をいただくのである。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-26 06:38 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

信心に心掛くべし

  一七四、一生尽くれども希望は尽きず。
  此望みかなえたらば聴聞に精出さん、
  ここまでやったら後生を願わんなどと思えども、
  命があればあるほど、望みは多くならんとも薄くはならじ。
  よりて覚如上人は、今日ばかり思う心を忘るなよ、
  さなきはいとどのぞみ多きに、と詠み給えり。
  家が貧くとも餓鬼にまさるべし。
  思うこと叶わずとも地獄の苦に比ぶべからず。
  只今只今と取りつとめて不自由な中より信心に心掛くべし。

  (香樹院語録)


 この身の過去世はわからないが、現在は過去世の結果である。これだけははっきりしている。この身にないものは現れないからだ。この身の来世はわからないが、現在に積み上げた悪業の集積の結果が未来であることははっきりしている。 業は途切れることはないからだ。知らない過去世の宿業に縛られ、なぜそうするのかもわからずそうしているのがわれらの現実、この身の事実である。

 過去が闇なら現在も闇、闇を闇とも知らずに過ぎる現世なら、後生もまた闇である。未来に光がない。死ねば終わりと言って終わらないのが業である。無責任に生きた結果は自ら刈り取らなくてはならない。因果の法は厳格である。希望希望といって、生きる希望を追いかけてきたが、最後は闇に落ちて行く未来に希望はない。

 南無阿弥陀仏 

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-25 11:28 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

疑網の関所

  二二五、江州草津合羽屋に対せられての仰せに。
  往生を願うについて、二の関所がある。
  一には世を捨てて願い、二には疑網をすてて願わねばならぬ。
  この二を捨てねば極楽まいりは出来ぬ。
  初めの世をすてて願うと云うは、
  望みさえあれば随分世をすてて願うと云う人がある。
  しかし後の疑網の関所には、番人がいる故我が料簡ではゆかれぬで、
  我が力すてて唯仏智のおはからいで往生させていただくのじゃ。

  (香樹院語録)


 一の世を捨てる。これは心の堀の外のことだから比較的容易にできる。形だけなら念仏も称える。形は心に影響しないから真似ならなんでもできる。二の疑網を捨てる。これは我と頼む心の本丸だから容易にできない。心のあり方を問われる。触って欲しくない心の柔らかい部分に触れてくる。これは形ではすまされない。本気である。真剣である。命懸けである。だから、みな逃げる。念仏は称えても心の本丸には踏み込ませないぞと頑張る。

 疑いの心はいう。そもそもなぜ心が悪いか。悪いなら正せばいいではないか、と。このままの救いならこのまま救ってくれよ。それが仏のお慈悲だろう、と。これは二十願の心だ。信仰は事実である。道徳でも規範でもない。信仰に、どうしろ、はない。いまの心をありのままに映す鏡が仏のお心である。心が見えるようにしてくれるのが智慧で、見えれば迷わない。救われない心が見えることが救いである。智慧を与えて見えるようにして救うのが仏のお慈悲である。

 心が見えたら、見えたことが仏である。しかも、大切なことは、見えても見えなくても仏のお心の中であるから、見えたらいい、見えないから駄目ではなく、見えるも見えないも、それが事実だということです。汝自身を知れ。知らないから苦しみを受ける。小さな我を満足させることは容易ではない。そんな我に縛られて生きる人生も容易ではない。仏を信じることは容易であるが、我を捨てることが容易でない。我はあなたを手放さないからだ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-24 06:14 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

摂取不捨の畳の上

  二〇〇、畳の上では手ばなしになっていても、
  ねても起きても気づかいはないが、
  高い木の上え登って手をはなして見たがよい。
  落ちて死なねばならぬ。
  同じ手ばなしなれども居所がちがうからじゃ。
  摂取不捨の畳の上にすまいして居るからだは、
  行往坐臥が如来の加護ゆえ、あぶなげがない。

  (香樹院語録)   


 「摂取不捨」とはなにか。仏のお心の中にいて、仏の方からわたしが見えていることを「摂取不捨」という。見えているから迷わない。迷いようがない。なにが見えているかというと「わたしの心」が見えている。これしか仕様のないわたしの心、ありのままの心が見えている。ありのままを「事実」という。事実を見せて救うから「智慧」という。自分の心に執着があると都合の悪い事実は受け入れない。受け入れずに都合のいい「解釈」をする。事実をどのように解釈するのも勝手であるが、大切なことは、解釈は事実ではないということだ。

 自分の心を仏の眼で見せていただく。仏の方から事実を見るので「如実知見」という。自分に期待を持っている人は自分に都合の悪い事実は受け入れずに解釈して事実を曲げる。事実を受け入れたくないので、どう都合のいいように解釈しようかと悩む。我執があるから誤魔化す。信心の人は事実をそのまま受け入れて不満がない。自分に期待がないからだ。この話は譬えである。「高い木の上」とは驕慢である。我執がある。我執がなければ「摂取不捨の畳の上」にいる。これ以上落ちようがない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-23 06:39 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  一四〇、京都岡崎御坊にて御法話の後、江州西乗寺の住侶、
  重ね重ね聴聞申して帰国せんとしたるも、何となく後髪引かるる心地してければ、
  草鞋を穿ちたるままお庭え回り、お座敷の椽下に跪きて云うよう、
  恐れながらお尋ね申します、私はかように年をとりましても、
  実に実に哀れな心中でござりまするが、死ぬまでこんなものでござりますかと。
  その時師は御酒を召しながら、それじゃで他力じゃないか。 と仰せられければ、
  老僧涙を流し、小躍りしながら帰途につきぬ。

  (香樹院語録)


 「私はかように年をとりましても、実に実に哀れな心中でござりまするが、死ぬまでこんなものでござりますか」とは懺悔である。懺悔は仏の心に映った我のありのままの姿である。仏のお心の中にあればこその懺悔であり、この老僧、仏のお心の中と気づかなかった。それを知っていればこそ、香樹院師は一言、「それじゃで他力じゃないか」と。「老僧涙を流し、小躍りしながら帰途につきぬ」。信が開けた一瞬です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-22 19:47 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

得て見やれ

  二八四、江州の嘉右衛門、田植えの最中にし切りに後生を苦にし、
  田の仕事も打ちすてて伊勢国御巡回先え馳せ参じ、
  一言の御教示を蒙りたしと願いしに、
  急げばまわれと云うことがあるぞよ。との仰せなりき。
  其の後ある時、恐れながら信心の得られし味を尋ね申したれば、
  師暫くして仰せに。得て見やれ、その味は知れる程に。

  (香樹院語録)   


 ここでの香樹院師は答えが出かかっている生徒にあえてヒントを与えない先生のようです。江州の嘉右衛門のように、わたしも疑問が起きると仕事を抜け出して同じ新宿区内の先生の住居へ走って行った。先生の事情などまったく考えていなかった。びっくりした顔をしても、なんだとも、どうしたとも言わない。先生はいつだって聞いたことに丁寧に答えてくれる。

 当時のわたしはわかりたい一心でまったく余裕がなかった。竹内先生でなかったら、わたしはどうなっていたろうか。先生の事情などまったく考えていなかった。江州の嘉右衛門のように、わたしも一度だけ「そんなに急ぐことはない」と言われたことがある。「得て見やれ、その味は知れる程に」。香樹院師、もうじき信が開けると見ておられたのでしょう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-21 06:48 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

聞の一字

  二八三、浄土真宗の法門は、聞の一字をもって他力をあらわし給うなり。
  弥勒に先立ちて成仏するは、聞の一字にあり。
  『大経』に「聞其名号」とあるは、凡夫の知恵や分別にて聞きわける聞にあらず。
  我れ知りわけ聞きわけたるを聞いたるように思う故、増上慢を起すなり。
  因縁さえあれば五つ六つの子供でも、聞きわけらるるが浄土真宗の御法なり。
  信心を得たるものは却って聞きたく思えども、
  うかうかして居るものは早や心得顔になりて居る也。
  信心は体の如く、聴聞は食物の如く、称名念仏は息の如し。
  右、時々仰せられき。

  (香樹院語録)  


 「聞く」というのは仏のお心の中にある「わたし」の姿です。「わたし」が全否定されている。「わたし」が自己主張しない。しかし、「信の一念」を経験すると「得た」という驕りが生じる。「得た」という思いに執着して仏のお心の外に転落する。聞いた信心を知識にして「わたし」の持ち物にする。竹内先生は「仏を手ごめにする」と仰った。聞いた「わたし」が仏より偉い者になるのです。信の一念を経験しても信がはっきりしない間は何度も何度もこれをやる。十八願を知っても二十願の自力に再び転落する。五年、十年、何度も何度も転落する。

 転落するが、一度経験した「信の一念」に何度も何度も立ち返り、仏のお心の中の自分を見せていただく。自ずと懺悔され、さらに喜びが深まっていく。これが信相続の内容です。信がわからなくなったときは辛く、本当に恐ろしいが念仏が救ってくれる。「果遂の誓い(二十願)、良(まこと)に由(ゆえ)あるかな」(教行信証・化身土巻)。「聞く」位置に謙(へりくだ)って念仏すれば「得た」という驕りも自然に落ちて、信心がさらに深まっていく。これを「聞く」という。一度信を獲たら後は何もないということではない。信の一念に行が確立して、本当の聴聞が始まるのです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-20 06:39 | 香樹院語録を読む | Comments(0)