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心安楽

  四、寿命は聞法のためなり。
  五歳で死するもあり、十五二十で死するもあり。
  それにたくらぶれば、後生は一大事と心づく迄の命を得て、
  仏法聴聞致すことになったは、大なる喜びなり。
  もはや寿命の役目は相済んだと思えば心安楽。

  (香樹院語録)


 法を聞くだけの人生だった。竹内先生にお会いして「念仏者が生まれた」と喜んでいただいたことが思い出といえば思い出である。先生にお会いしてから信体験があった。この逆だったら師をいただく喜びがなかった。なにかを得たと思って喜んでいた時期もあったが、そんなことももうどうでもよくなった。どのようにしたって仏のお心からこぼれ落ちることはないのであるから、心安楽。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-03-29 23:00 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

何事は覚えずとも

  三一、何事は覚えずとも、かかるものを御助けの御慈悲、
  命終らば仏になることの嬉しやと云う味わい丈は、是非に覚えねばならぬ。

  (香樹院語録)

 「後生」とは死後の命ではない。死後という時間も場所もない。不思議なことに「今生」(わたし=闇)が見えたから「後生」(仏=光)である。今生を超えて今生を照らす悟りの光を「後生」という。今生ではないから後生という。わたしがあってわたしの死後があるという外道の話ではない。今に無我(仏)にならないから「命終らば」である。「かかるもの」と見えるのが「御助け」である。たまたまの命が永遠の命に出遇ったのである。「命終らば仏になる」現在を「嬉しや」と生かしていただくだけである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-27 07:17 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

根本の疑い

e0361146_23310248.jpg  九、疑いと云うものに、枝末と根本との二つあり。
  枝末の疑いと云うものは、親子夫婦兄弟などの中に、
  毎日毎日起りて、本に思わぬ事じゃ。
  根本の疑いというは、さっぱりとあかるうなりて、
  胸の中に、どうも虚言じゃと思われぬ様になられぬことじゃ。
  たとえば、其方の子は狐じゃほどに、油断をするなと人が云うたとき、
  どう思うても我が産み落して育てた子なれば、狐じゃとは思われぬ。
  これ人の言葉に転ぜられぬ也。

  (香樹院語録)


 たとえば、赤ちゃんは自分の境遇になんの疑いもない。境遇をありのままに受け入れてなんの疑いもない。そんな心の状態を「無我」という。境遇をありのままに受け入れる心は明るい。境遇にはもともとよいも悪いもない。あなたが好き嫌いを言うものだから境遇に善し悪しができてしまう。こんな境遇でいいのだろうかと境遇を疑う。疑う心は暗い。疑う心は境遇を受け入れない。境遇に問題があると思い込み、自分の心に問題があるとは思わない。これが人生を苦しくする。

 境遇は縁によって与えられてくるものでわれらは境遇を選ぶことはできない。境遇を変えることもできない。与えられた境遇に満足して喜んで生きられれば、これを「疑い」がないという。「どうして?」の疑いの根っこは執着である。執着するから暗い。仏のお心は執着がない。信心とは疑いのない明るい心、仏のお心をいただく。仏のお心をいただいた証拠には、心が明るくなる。与えられた境遇に満足する。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-26 22:19 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

信心を捏造する

  二七、或る時一蓮院師を招きて、酒杯を傾けながら、仰せに。
  凡そ誰れでも我が心中をこしらえる事にかかりて居る故、
  其の心中は我がこしらえもの也。
  教える人も唯理屈ばかり教えて、心中を造ることに骨を折る也。
  信心と云うことは、聞其名号信心歓喜の八字を我が腹とするばかりじゃが、
  そう思う人の少ないのは、甚だ残念なり。
  一蓮院師曰く。ただ仏の力お一つで、助けて下さると信ずる外には、
  聞其名号のいわれはない、と聞いて居ります。
  師曰く。それでよし、それでよし。

  (香樹院語録)

  しかるに『経』に「聞」と言うは、
  衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。
  これを「聞」と曰うなり。
  「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。
  「歓喜」と言うは、身心の悦予の貌を形すなり。

  (教行信証・信巻 )

 凡そ誰れでも我が心中をこしらえる事にかかりて居る。教える人も唯理屈ばかり教えて、心中を造ることに骨を折る也。真(まこと)の心が獲られないのだから誰も違うとは言えない。仏法聴聞といいながら、教える側も聞く側も信心を捏造することばかりにかかわり果てている。信心は「本願力回向」だから向こう側から来る。

 いただくばかりだから、信心をいただく器を空にして待たなくてはならないのに、理屈で心がいっぱいになっている。空にならないから信心がいただけない。聞き方が根本的に間違っている。心の器を空にするのが仏法聴聞です。信仰は理屈ではなく事実に立つ。嘘は嘘。嘘から「歓喜」は生じない。理屈は嘘だから理屈の勉強はやめて、ただひたすら自分の心を見る。心の現実を知るのに勉強はいらない。日常生活すべてがあなたの心の現実を教えている。

 「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。仏さまはとうにあなたの心の現実を知っている。あなたが仏さまが知っているようにあなたの心の現実を知れば、あなたにかけられた仏さまのお心が知れるというものだ。これが疑心なし。事実を事実と受け入れる謙虚さが信仰の基礎になる。信仰は事実に立たなくては疑心が晴れるとはならない。捏造された理屈の信心では疑心も晴れず「歓喜」も生じない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-20 06:10 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

骨折って聞くべし

  二二、得た得たと思うは得ぬのなり。
  得ぬ得ぬと思うはなお得ぬのなり。
  そんなことではない、と仰せられたり。

  一〇、頼めとあるも、すがれとあるも、
  称えよ称えよとあるも、皆助くる助くるの仰せなり。
  天が地となり、地が天となる例があるとも、
  間違わさぬ、疑うなよ疑うなよと、
  阿弥陀様の直の仰せと聞こえるまで、骨折って聞くべし。

  (香樹院語録)

 「得た」と思って満足するは「自分の心」でしょう。「得た」というのは「悟った」というのでしょう。「信心を得た」というのでしょう。結局は「自分の心」を出ていないと、香樹院師は言っているのです。仏法は「出離生死」といって「自分の心」を出ること、この一点しかない。出たか出ないか、これ以外にない。わかりやすい話だが、こんな難しいこともない。「骨折って聞くべし」。真面目に聴聞している人はこれに一生を懸けている。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-15 19:00 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

仏の心で仏になる

e0361146_08452904.jpg  一一六、或人の尋ねに、
  どうも此度は仕おおせらるるように思われませぬ、
  と申し上げたれば。
  仕おおせられまいとおもうは凡夫の心。
  仕おおせさせるとあるが如来さまの御こころ。
  その御心をもらうのじゃ。
  仏の心で仏になるに、何の間違いがあろうぞ。
  それでよく聞けよく聞けと云うのじゃ、と仰せられたり。

  (香樹院語録) 

 信心の「信」は「真」に通じて真(まこと)の心、真(まこと)の心とは仏のお心、仏のお心がわたしの内面に回入して、わたしの主体となってくださった、このことを信心(仏のお心)をいただくといいます。「凡夫の心」が「如来さまの御こころ」に転じたのです。「仕おおせさせるとあるが如来さまの御こころ。その御心をもらうのじゃ」とはそのことです。一切衆生悉有仏性、わたしの心の奥底に眠っていた不生不滅の仏心がわたしに届き、わたしの内面世界を明るく開いて下さったから、「仏の心で仏になるに、何の間違いがあろうぞ」。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-12 08:37 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

助けたまえ

e0361146_15504971.jpg  二二三、或る時の仰せに。
  たのむ故おたすけじゃとは思うなよ。
  助けたまえと、弥陀をたのむのじゃ。

  (香樹院語録)     


 「おたすけ」を期待して「たのむ」となれば、それは計算である。人知は計算する。計算する心から「たのむ」心は出てこない。「たのむ」心は仏からの回向である。なにから「助けたまえ」か。計算高い人間の心から「助けたまえ」である。計算しても計算しても立ち行かない境遇にしてくれたのは仏のお慈悲である。南無阿弥陀仏を称えようとする心も如来回向である。人知は闇、光は人知の外、不可思議から来る。すべては仏の御はからいである。ただいただくばかりである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-06 15:43 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

信心を得るが肝要なり

  二一八、江州の嘉右衛門、いたく未来のことを苦しみ、
  暑中に越後まで参り汗を拭い拭い師に謁したるに、
  師の曰く、体の踏み出しは出来たが、まだまだ心のふみ出しが出来ぬ。
  マア勝手の方え行って、腹の支度でもした がよい、と。
  嘉右衛門身のおき処なく、未だ後生を思うことの薄きに驚き愧じ入ること甚しかりしと、
  自ら語られき。

  二一九、仏法を聞きわける人はあれども聞きうる人甚だ稀なりとありて、
  聞き分けるが所詮でない。聞いて信心を得るが肝要なり。
  然るに、人は聞き分けるまで骨折れども、わかれば途中にて止めるもの多し。
  かようにては信心は得られず。
  ただ分かりたさを目的にして、その上に聞き得ることを止める人は邪見なり。
  故に、弥陀の名を聞きうるまで聞かねばならぬと合点すべし。

  (香樹院語録) 
 

 法を心の外に置いて知識を学ぶように聞法する人がいる。このような人は根本的に信仰がわからない。このような聞き方をすれば五十年聞いても信心はわからない。心に踏み込んで心に隠している病根を暴き出すようにしなければ心の治療にはならない。それゆえ仏法の知識はむしろ邪魔で、心を照らすように聴聞しなくてはならない。機の深信、内観の念仏が聞法の基本と知るべきです。

 心の深海に降りて行けば見たこともない醜い心を見ることになる。そうすれば少しは信仰に近くなる。そうなると自分の心との凄絶な闘いになる。自我が崩壊する過程に入ったので自我は生き残りをかけてあなたを騙しにかかる。「その道は間違っている。自分を見失うぞ」と。あなたの心の声は郡賊悪獣の声、悪魔の声ですから、うろうろと相手にしてはいけない。

 善知識の言葉を灯りとも頼み、仏の声に耳傾けて、仏の救いだけを信じなくてはならない。「聞いて信心を得るが肝要なり」。聞法歴は長く、それらしいことを得々としゃべる年配者を見ると、聞き方を間違えたまま一生を終えようとしていると思う。信仰は学問ではないのだから、知識の缶詰をたくさん持っていても開けて食べなくては腹はふくれない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-05 19:28 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

これなりで御座ります

  九四、美濃田代町のおせき、水手桶さげて、御庭前へ参りたるとき、
  師俄かに、おせき、極楽参りはどうじゃ。 と仰せらる。
  おせきは、はい、これなりで御座りますと、直ちに申し上げたれば、
  仰せに。おせきはよく聴聞したなあ。

  (香樹院語録)

 美濃田代町のおせきの「はい、これなりで御座ります」は懺悔である。わたしの全否定である。懺悔は機の深信であるから他力の信である。救われない自分を見せていただく。見えたことが如来回向である。信心の智慧ををいただいた身であるから香樹院師は「おせきはよく聴聞したなあ」と印可を与える。救われない者を救うというのは、救われない自分であることを見えるようにして仏は救う。

 それが仏のお慈悲です。一度自分が見えれば二度と迷わない。見えないから自分に迷う。見えたから「はい、これなりで御座ります」とおせきは懺悔する。「如来の作願をたづぬれば、苦悩の有情をすてずして、回向を首としたまひて、大悲心をば成就せり」(正像末和讃)。自分が見えるという智慧を回向して救うのが仏のお慈悲です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-31 06:27 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

  二八九、如何なる大悲の恵みで、
  私のようなものが聞く気になり願う心になったやらと思えば、
  よく思えば願いそうな聞きそうな心でもなきものが、
  かく聞く気になり願う心になったのは、全く如来の大悲の御力なり。
  日輪に如何なる御徳があるかは知らねども、安穏にして暮すはみな日の力なり。
  一切草木の葉一枚まで、みな日の力によらぬものなし。
  光明名号の御慈悲で御助けと信ぜられたは、
  我が胸より出でしにあらず、全く光明名号の力なり。

  (香樹院語録)  

 歎異抄の後序にある親鸞聖人のご述懐、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と同じ味わいです。この法語には「仏を思う心は、我を思う仏の心の届かせられたる也 」という題がついています。書き出して何度も何度も味わいたい。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」



by zenkyu3 | 2017-01-30 06:36 | 香樹院語録を読む | Comments(0)