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弥陀をたのむとは

  一五六、たのむものを助くるとの仰せを聞いて、
  左様ならば私はたのみますさかい、
  御助け下されませの心ではない。
  たのむと云うは、不思議の仏智を信ずること故に、
  かかるものを御たすけぞと深く信ずることじゃ。
  各々は、これが深くたのむのじゃの、
  是れが緊とすがるのじゃのと、
  訳きくことばかりが細かな道理と思えども、
  それよりも内心の味いを透した心味を云うのが、
  一番に細かな道理じゃ程に。

  (香樹院語録)  
 

 見たことも聞いたことも触れたこともないのに「信ずる」「たのむ」などということはない。われらのように疑い深い者が知らないものを信ずるなんてことは絶対にない。「たのむ」のはすでに救われたからたのむのだし「信ずる」のは信じられていたと知ったから信じるのです。この反対ではない。信じたらわかるのではなく、わかったから信じる。

 なにがわかったか。どうわかったか。「救われない」とわかった。「救われない」と仏さまが教えてくださったからわかった。だから、救われないとわかったことが救われたこと。救われないと教えて救うのが仏さまのお慈悲というものです。自分でわかろうとしてわからないのが自力、心を素直に教えていただくのが他力。だから「聞く」という。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-27 12:25 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

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  四五、秀存師ある時、「真心徹致するひとは、
  金剛心なりければ、三品の懺悔するひとと、
  ひとしと宗師はのたまえり」とある和讃の御意を尋ね給いければ、
  師はやや暫らく黙し給いて後、
  智慧第一の舍利仏でさえ、四十年の間聞いても分らぬ仏法を、
  少しばかり聞いて解了しようとは、無理なことじゃ。
  とのたまいければ、秀存師はただ、ヘイと云いて退出ありしを、
  傍見しまいらせしと、栗尾太助の話。

  (香樹院語録) 

 分別とは頭でつかむ。頭でつかんだ事実は観念であって事実ではない。仏法は分別以前の事実に立つ。この一点が仏法です。自分に都合のよい事実の解釈は頭の数だけあるが解釈以前の事実は一つしかない。考えても考えても考えている限りは事実には到達しない。いま起きていることを解釈するからです。考えを止めた一瞬がそのまま事実です。この無分別の一瞬を経験すれば求めるものなどなにもなかったと知る。これを経験させるために仏法はあるのです。われらはなに不足のない事実を生きているが心はいつも事実から遠く離れた処にあって苦しんでいる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-23 21:56 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

今宵死ねば今宵が極楽

  三〇、左太沖の詩に、「何必糸兼竹、山水有清音」
  (何ぞ必ずしも糸竹を兼ねん。山水に清音あり)と作りしは、
  世間の人は、糸竹音曲ばかりを楽のように思うが、
  山の奥に世を遁れた身は、世間の楽の音はなけれども松吹く風の音、
  谷の流れの音など、よくよく思えば世の塵に離れたる所は、
  糸竹に優った妙な楽であると、人の知らぬ楽みを詠んだ詩なり。

  今、念仏行者は世の人から見れば、窮屈のことと見ゆれども、
  この御信心を得た楽みは、後生知らずのものや、疑いの晴れぬものの知らぬ楽みで、
  思えば思えば露の命、明日も知れぬ、遠い極楽と思うたは我が誤り、
  今宵死ねば今宵が極楽と思えば、人の知られぬ楽しみのあるのが、念仏行者じゃ。

  (香樹院語録)

 「信心を得た楽しみ」「人知られぬ楽しみ」とはどのようなことか。「世の塵に離れたる所は」と暗示するように、「今宵死ねば今宵が極楽」、いつ、どんな死を死んでもいまが極楽、すなわち、いま、すでに心が(娑婆を離れた)極楽にあるというのです。娑婆を離れた極楽から娑婆を見て暮らす楽しみ、娑婆の景色を観光して歩く通りすがりの旅人の楽しみでしょうか。

 信心の人の心はすでに身体から解脱しているから死はまったく問題ではない。心はすでに浄土にあるのだから、あらためて、死後に浄土に生まれる必要もない。いまさら生まれる処などないから「今宵死ねば今宵が極楽」、すなわち、いまが極楽、これを「信心を得た楽しみ」「人知られぬ楽しみ」というのでしょう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-22 20:41 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  八二、公儀ある民に我が田地なし。
  先祖ある子孫に我が家なし。
  親ある子に我が身なし。
  主人ある家来に我が命なし。
  師ある弟子に我が智慧なし。
  夫ある女に我が財なし。
  されば公儀に任せたる民に刑罰なし。
  先祖に任せたる子孫に過なし。
  親に任せたる子に不孝なし。
  主人に任せたる家来に不忠なし。
  師に任せたる弟子に迷いなし。
  夫に任せたる女に不貞なし。
  風に任せたる柳に雪折れなし。
  仏に任せたる衆生に迷いなし。

  然るに、任すまじき事ただ一つあり。
  「其のまま我が心にまかせては、
  必ず必ず誤りあるべし」と、先徳はのたまえり。
  今日の我れ人は、生々世々、我が心に任せし故、
  迷いの凡夫とはなりしぞかし。

  (香樹院語録)   

 わが心のままに生きることを放逸無慙という。わが心に騙されて、騙されていることにも気づかないほど巧みにわれらは騙されている。騙されていると気づけばわが心を疑うが、騙されているという智慧はわが心からは決して出てこない。わが心が騙しているからである。わが心を信ずるを自力、仏のお心を信ずるを他力という。わが心を捨てて仏を信ずる、これが一度の宗教的な決断である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-21 08:45 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

心に着すれば邪に同じ

  二二〇、『摩訶止観』の破法篇に、
  「觀法雖正着心同邪」
  (観法は正といえども心に着すれば邪に同じ)
  とのたまいて、正しき観念の法を以って思惟しても、
  その観念に於て執着の念が生ずると邪に同ずるゆえに、
  破してしまわねばならぬとあり。

  今も、ただ聖教によりて伺えども、
  一文に偏執し一理に固執する時は、
  その学問より其の執着に種々の道理をつけて、
  まことの聖教の真面目を失い、
  雖正同邪の風勢になり行くとすれば、
  相互の我が非を人より改めてもらい、
  共に共に相談すべきこと也。

  (香樹院語録)   

 われらは執着するものに縛られる。執着するものに繋がってしまう。求めて得られないことを「苦」というが、苦の原因は執着である。結果としての苦だけを問題にして原因としての執着が見えていないから「無明」である。「自業自得」といって、自分で造った苦であるから自分で解決できるのである。自力であれ、他力であれ、内なる執着を破ることを教えるのが仏道である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-20 06:25 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

これなりで助けられる

  七〇、新井の妙意、御病中に参り申し上げて云うよう。
  いよいよこれなりで、助けられるので御座りますか。師の曰く。
  そうじゃそうじゃ、勧めるものも其処をよく教え、
  聴聞するものも其処をよく聞かねばならぬことじゃ。

  (香樹院語録)  

 なにから救われるかといえば、自分の心から救われる。心あるゆえに苦しむ。どんな心か。事実を受け入れられずにあれこれ理由を探す心だ。事実を疑い納得できる理由を探す。しかし、納得できる理由はない。事実を受け入れない心は事実に苦しめられ続ける。苦しみから救われるには納得したい心を捨てる。

 事実を疑う心を捨てる。理屈ではない。理屈に立った心からすれば「なにもわからない」となったところが救いである。わかりたい心が捨てられた。「わかろう」が自力のはからい。「わからなくていい」が他力のはからいなし。頭の中の妄念妄想を捨てて事実に立つ。事実は大地、こぼれ落ちようがない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-19 10:07 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

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  八一、或る人、後生と云うことを存じませぬ、
  と申し上げたるとき、仰せに。
  それ知らるるまで容易でない。

  (香樹院語録)  

 後生は仏である。色も形もない一如になる。汚れも穢れもない空である。空から一切が生じ、一切は空に還る。還るところがわからずに迷っている。安心して死ぬことができない。後生とは生の後ろ、生の背景である。背景がわかってこそ今がわかる。還るところがわかるから安心して迷える。最後はそこに還る。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-18 22:55 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  三三、みな人は、信をとらんと思い、
  また、たのみ心にならんと思えり。
  それはあんまり、欲が深すぎると云うもの也。
  取ることばかりに骨折って、
  自力を捨てることに骨を折ることを知らぬの也。
  碁をうつにも捨石が大事なり。
  信を得るにも、雑行をすてることが大事也。

  香樹院語録)

 「自力を捨てる」とは具体的には自分の考えを捨てる。主義主張、信念、価値観、正義といった尺度を捨てる。起きていることに"いい悪い"を言わない。起きたことに"好き嫌い"を言わない。起きていること、起きたことは"わたしに関係なく"起きている。起きていることになにか影響を与えられると考えるなら傲慢である。環境を支配できるという考えは滑稽ですらある。わたしに出来ることは起きたことに対応することだけで、なぜ起きたかなどと理由を考えてもわからない。起きたことをそのまま頂いて、とくになにもない。それを「自力を捨てる」という。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-17 21:52 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  二四四、天保五年十月十日の夜なりき。
  或る人、師の御前に出でて、うつくしく領解を述べたれば、仰せに。
  述べた口上には間違いはないが、その言葉を便にするな。
  言葉さえ云いならぶれば、信心を得たものとするのではないか。
  それでは他力回向とも、仏智より獲得せしむるとも仰せらるる所と相違する。
  御教化の御言葉に隙のない様になったが実の信心じゃと思うても、
  それでは言葉は他力でも、心が自力の執心じゃ程に。

  (香樹院語録)  

 仏のお心を伝えたい。得たという確信があるからこそ、仏のお心がどういうものか、どのようにすれば信を得られるかを伝えたい。しかし、いくら言葉にしても言葉はどこまでも言葉、経験そのものではない。聞法の場では、聞くのは仏のお心であって言葉ではない。言葉が伝えようとしている仏のお心を直感しなくてはならない。たとえば、水を求めてコップを渡されたら中に水が入っていると思うものである。あなたが求めているのはコップではなく水である。渡されたコップに水が入っているかどうか、よく確認したほうがよい。法を説く人に伝えるものがないからである。この法語には「文字や言葉の穿鑿ばかりでは御慈悲は味えざる也」という長いタイトルがついている。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-15 21:46 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

我が料簡を捨てる

  二二五、江州草津合羽屋に対せられての仰せに。  
  往生を願うについて、二の関所がある。
  一には世を捨てて願い、二には疑網をすてて願わねばならぬ。
  この二を捨てねば極楽まいりは出来ぬ。
  初めの世をすてて願うと云うは、
  望みさえあれば随分世をすてて願うと云う人がある。
  しかし後の疑網の関所には、番人がいる故我が料簡ではゆかれぬで、
  我が力すてて唯仏智のおはからいで往生させていただくのじゃ。

  (香樹院語録)

 我が料簡を捨てる。無我ともいって、これが仏教の眼目でしょう。我が料簡で生きていけると思ったのに我が料簡では立ち行かなくなった。そこで我が料簡を建て直したくて仏教を学ぼうと思い立ったのでしょう。しかし、いくら学んでも仏教がわからない。やがて飽きてしまう。我が料簡を建て直したところで、いずれまた行き詰まる人生ではありませんか。仏教は我が料簡を捨てなさいというのだから、我が料簡を立て直そうとして聞いても、そもそも向いている方向が西と東ほど違う。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-14 22:30 | 香樹院語録を読む | Comments(0)