無宿善の機

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  五八、『御文』に「無宿善の機は力及ばず」とあるは、
  一向きかずに地獄へ堕つるを無宿善とはのたまはず。
  聞いても聞いても驚かず、地獄へ堕つるを無宿善と云う。

  (香樹院語録)

 心の内側を見ることができなければ信仰にはならない。心が内側に向かない人を無宿善というのでしょう。仏は一人一人の心の中におられるのだから、外に仏を求め回る必要はないし、自分の心を観察するのに知識もいらない。信仰とは自分の心の奥底に降りて行く。光も音も届かないな孤独の深海に降りて行く。そこで仏に出遇う。仏に遇うか遇わないか、それだけが信仰である。仏は救うと誓っておられる。仏に遇わないのはあなたが遇いたいと思っていないからでしょう。他に理由はない。わたしが仏を見ているのではない。仏がわたしを見ているのである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-09 23:28 | 聴聞の実際 | Comments(2)

機の深信(続)

  一 「総別、人にはおとるまじき、と思う心あり。
  此の心にて、世間には、物もしならうなり。
  仏法には、無我にて候ううえは、人にまけて信をとるべきなり。
  理をまげて情をおるこそ、仏の御慈悲なり」と、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書160条)

  機の深信は負ける世界だ。負ける人は礼儀正しい。
  機の深信は負けた姿。負けた姿は美しい、素直である。
  負ける世界を与えてくださるのが如来の大慈大悲というものである。
  そこに心の平和がある。
  人間が邪見驕慢になって、何とか人に勝とう、捩り倒そう、
  押し除けようと考える。それが迷いである。苦悩の根源である。
  一体人間がそのような殺伐な心を起こすのは
  人間には生死無常という真理を素直に受取る智慧がないからだ。
  自分を信ずるとはどういうことか。
  自分の分限を知ることが自分を信ずること。
  自分を本当に知らして貰うた所にそこに仏のおたすけがある。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 負けるとはおのれの事実に立つ。どんな事実も受け入れないということのない心の柔らかさ、明るさがある。事実を受け入れないのはまだ自分に執着があるからでしょう。負けたくないのは自分に自信がない。自分を築き上げる途中なのでしょう。心に余裕がない。なにもかもが足りない。足りないから急ぐ。その根底にあるのは暗い心、劣等感に違いない。自分の心を見たくないのは劣等感があるからでしょう。


 なにかを補うため、なにかを取り戻すため、なにかを忘れるために生きるなんて、はじめから暗い人生です。なにを得ようとも、その暗い劣等感を埋め尽くすこともできなければ、なにを得たとしても空虚さを癒すことはない。仏のお心に遇えば、いま持っているもので十分に満足だと教えていただける。はじめから勝ち負けなどないから、勝つこともいらず、勝つことのいらない者に負けなどない。だから、喜んで負けていられるのでしょう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-15 15:58 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)

無生の生

  無生の生とは、
  極楽の生は三界をへめぐるこころにてあらざれば、
  極楽の生は無生の生というなり。

  (蓮如上人御一代記聞書36条)

  後生は真実の生、永遠に死のない生、
  死のある生のもう一つ根源の所に、死のない生、
  そういう一つの根源があって、
  われわれの意識の表面には生死だが、
  意識の深い所に無生の生、生死のなき生
  --そういう生をば後生という。
  私どもには、生あるものに死はある、
  死はまぬがれることが出来ないという深い怖れと悲しみを逆縁として、
  本来無生、永遠に死なない--そういう生をば後生という。
  死を縁にして現れるから後生という。
  (後生の後という字には)背景という意味もある。
  本当の後生というのは仏の生でしょう。浄土の生でしょう。

 (曽我量深著「親鸞との対話」より)


 わたしと他人と環境でできた意識という小さな各々別々の世界にわれらは住んでいる。意識は心のごくごく表面で、意識の下には無限の広がりと深さがあり、意識が決して届かない領域を無意識とも不思議ともいう。意識の底の底、意識の光の届かない心の深海に降りていく、これを聴聞という。われらがふつう内面といっている心は外面にすぎず、本当の意味での内面とは仏の心です。

 われらの意識野を深く超えたところ、人間の思議を超えた領域から届く仏の心をいただくと、われらが内面と思っている心は外面になる。不可称不可説不可思議からの仏の呼び声を聞いて仏のお心の中に生じることを「無生の生」(心の往生)といい、仏のお心を得て「得生」、不可思議の本願に心開かれていく姿を「願生」といいます。永遠に死のない生を得ることは命あるものすべての「志願」でしょう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-01-11 10:06 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)

仏法は聴聞にきわまる

  しかるに『経』に「聞」と言うは、
  衆生、仏願の生起・本末をききて疑心あることなし。
  これを「聞」と日うなり。

  (教行信証・信巻)

  いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、
  御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。
  ただ、仏法は、聴聞にきわまることなりと云々

  (蓮如上人御一代記聞書193条)


 真宗には修行がないというが、在家の者は人生全体、生活すべてが修行である。愛欲と名利を動機に金とプライドを求めて他人と闘争する毎日だ。娑婆世界を超えて生きる往生の道は娑婆の生活の中で見つける。では、仏教をどう学ぶか。仏法は聴聞に尽きる。「仏願の生起本末をききて疑心あることなし」となるまで聞く。法座に通う、善知識を探す。なにをしていても仏のことが頭を離れない。それが聴聞で、納得できるまで聞く。考えることをやめない。考えることの限界まで考える。

 なぜ、わたしは生まれてきたのか。なぜ、わたしばかりが苦しみに会うのか。なぜ、法を聞いても聞いてもわからないのか。念仏しても仏のお心がわからない悲しみはどうすればいいのか…。心はいつも同じところをグルグル回っている。教材はどこまでも自分の心だ。自分の心をよくよく観察する。救われない心と救おうとする心はいつも一緒だから、自分の心を見ていれば必ず仏に遇う。眼で見る、耳で聞く、心で感じる。どんな形であれ、仏はあなたにつながろうとしている。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-31 07:57 | 聴聞の実際 | Comments(0)

人に負けて信を取れ

  総別、人にはおとるまじき、と思う心あり。
  此の心にて、世間には、物もしならうなり。
  仏法には、無我にて候ううえには、
  人にまけて信をとるべきなり。
  理をまげて情をおるこそ、仏の御慈悲なり。

  (蓮如上人御一代記聞書160条)

  勝つとは有限なもの。
  負けるという世界は広大無辺の――
  仏の智慧海は負けるというところにあり、
  その深さも広さも無限のものである。
  『蓮如上人御一代記聞書』には
  「人に負けて信を取れ」と言われてますね。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)


 「負ける」とは「受け入れる」ということです。人に負けて人を受け入れる。事実に負けて事実を受け入れる。境遇に負けて境遇を受け入れる。運命に負けて運命を受け入れる。受け入れられないことに負けて受け入れられないことを受け入れる。みな、負けられずに苦しんでいる。負ければ楽になる。しかし、負ける言い訳を探しているがなかなか見つけられない。とくに自分に負けられない。

 また、「無我」とは「わたしがない」ということです。「わたし」があるから受け入れられない人がいる。「わたし」があるから受け入れられない事実がある。「わたし」がなければすべてが受け入れられる。「無我」は大きさがないからすべてを受け入れる。すべてを受け入れるから「仏」という。また、「理」とは知性。「情」とは執着。知性の小ささを教え、執着の醜さを教えるから「仏の御慈悲なり」と。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-18 06:54 | 真宗の眼目 | Comments(2)

  釈迦弥陀の慈悲よりぞ
  願作仏心はえしめたる
  信心の智慧にいりてこそ
  仏恩報ずる身とはなれ

  (正像末和讃)

  真宗の学問の方は、行によって信を立てるというが、
  行が元ではない。信が元である。
  誰でもが信を立て信を相続してゆくために、
  行というもの、大行というものを建立なされた。
  だから、信が元である。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 念仏を“唱えて”智慧の眼が開くなら念仏は呪文です。念仏は“唱える”のではなく“称える”と書くのは、救っていただいたお方に感謝し、その尊い御名を称(たた)える行為であるから称(とな)えるというのです。それゆえ「称名念仏」というし、信の一念に生じた智慧から出てくる念仏なので「智慧の念仏」という。また、智慧の念仏を第十七願の「大行」といい、大行の念仏を称える人を「諸仏」という。

 だから、まずは救われたという喜びがなくては仏恩報謝の念仏は出てこない。信心を獲たら念仏は自然に出てくるし、救われた時のことを憶い出してはまた念仏される。これが一生続くのです。量深師が「信が元」とはそういうことだろうと思う。では、どうしたら信心が獲られるか。蓮如は「ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり」(御一代記聞書193)と言っている。どのように聞くかといえば、「このままの心で救われないのはなぜか」と聞くのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-14 09:47 | 曽我量深師の教え | Comments(0)

死の事実

  「たのむ」という言葉には、分別知とは次元が違う、非常に深い智慧がある。
  「私自身では、私自身の一番根本の解決ができない」っていう智慧ですね。
  「たのむ」という言葉を極めて具体的に使われたのは、蓮如上人です。
  『改悔文』にはこう言っています。

   もろもろの雑行・雑修、自力のこころをふりすてて、
   一心に「阿弥陀如来、我等が今度の一大事の後生御たすけそうらえ」と
   たのみもうしてそうろう。
   たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ  
   このうえの称名は、御恩報謝とよろこびもうし候う。

  つまり、「たのむ」ってことは「今度の一大事の後生御たすけそうらえ」と、たのむってこと。
  「後生」というのは何かといえば、「死を含めた死後」と言いますか、そういうことなんです。
  だから、私たちの分別知では全く分からない。
  私自身のことでありながら、私が決して体験できない。しかし、私の事実なんです。
  その「死の事実」、もっと深く言えば、「人間として生きている」というその事実です。

  (竹内維茂著「称名念仏の大悲」彌生書房 1998年)


 竹内先生は「死の事実」に立てと説くのが常でした。「生」の立場が絶対に超えられないのが「死の事実」で、死の前では誰もが己自身の無力を知らされる。知らされるが、死を前にして気づいても遅い。己自身の無力を知って初めて、わたしたちは「たのむ」ということをするが、「たのむ」ところまでたどり着く人がいないということでしょう。

 竹内先生が「死の事実に立て」と言う時の「死」とは、「一度死んで新しい命に生まれ変わって来い」ということなのでしょう。そもそも肉体は物質で物質に死はない。死という時は心の問題です。肉体の奴隷になって心が主体性を失っているから、肉体が滅ぶと心も死ぬと恐れるのです。しかし、死なない心があると知れば、それが信心ということです。先生はこのようなことを教えておられる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-06 13:30 | 聴聞の実際 | Comments(0)