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  自然というは、もとよりしからしむということばなり。
  弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、
  南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて、
  行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききてそうろう。
  ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。

  (自然法爾章)


 例えば、浮力。人の体は水に浮くようになっている。浮力を利用して泳ぐ。泳げない人は浮くことは知っていても浮くコツがわからない。溺れまいともがいてかえって沈んでいく。浮力とは本願力の譬えです。溺れまいともがくのが自力、水に身を任すのが他力、一度浮くことを経験すれば、あとは自力でどこまでも泳いでいける。竹内先生から何度もお聞きした話です。

 心を善し悪しで分別してコントロールしようというのが自力で、コントロールをやめるのが他力です。心を手放しするなんて恐ろしくてできないというのでしょう。だから他力になれない。心をコントロールしているつもりでしょうが、実は、あなたは完全に心にコントロールされている。子を溺愛して子に振り回されている親のようだ。心を捨てる。すると、あなたは心から自由になれる。今までは心に使われていたが、今度は心を使うことができるようになる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-09 22:08 | 真宗の眼目 | Comments(2)

無生法忍

  純粋精神は不生不滅、形のないものである。
  形があるから生あり、滅あるが、形がなければ不生不滅である。
  心が形をとって来たのを物と言う。心の外に物という固定したものがあるのでない。
  心が分別を起こす時になると形がある。そうすると生あり滅あり。
  心の本性に生滅はない。心が身体の奴隷になれば、
  心も生あり滅あり、心に生死ありということになる。

  南無阿弥陀仏と言うと、身体がここにあっても心は身体に縛られない。
  広い阿弥陀如来の本願の世界、その浄土に心が息をするようになった。
  心が落ち着いて、どんな事があっても、どの様な逆境があっても、心が落着き得るようになった。
  それは、心が生死を超えた世界に生きておる。そういう心の生活を無生法忍という。

  身体が煩悩具足の身体であるから凡夫であるに違いない。
  そういう凡夫でも無生法忍という信心の智慧に眼を開くことが出来る。
  それが仏法聴聞の徳である。それがなくては現生不退と言うても――。
  無生法忍を開くことが現生不退というものである。

  (津曲敦三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 
 自然法爾章に「無上仏ともうすは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆえに、自然とはもうすなり」とあります。形がないものはわれらの意識野には入ってこない。意識野に入らないから「不可称不可説不可思議」という。意識は氷山の一角、意識下には膨大な無意識の拡がりがあり、それは全宇宙につながっている。仏のお心はさらにそれすらをも超えている。永遠に死なない命の働き、形のない、目にみえない救いの働きをわれらは「歓喜」という形で受け取る。

 正信偈に「慶喜一念相応後、与韋提等獲三忍」(慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲)」とあるように、信の一念に「喜悟信の三忍」をいただく。すなわち、喜びの心、悟りの心、信ずる心を信心にして、われらは仏の悟りを仏からいただくのです。心は身体から解脱して貪瞋煩悩の毒が回らなくなった。それゆえ心は明るく柔軟になる。心に喜びが多いのは信心のお徳です。すでに不生不滅の仏心を自覚しているので、いつ身体が死んでも成仏する。このような悟りを「現生不退」といいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-08 16:23 | 往生の生活 | Comments(0)

義なきを義とす

  e0361146_09541322.jpg聖道門のひとはみな
  自力の心をむねとして
  他力不思議にいりぬれば
  義なきを義とすと信知せり

  (正像末和讃)

  法爾というは、如来の御ちかいなるがゆえに、
  しからしむるを法爾という。
  この法爾は、御ちかいなりけるゆえに、
  すべて行者のはからいなきをもちて、
  このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべきなり。

  (自然法爾章)


 義とは、はからい。はからいとは煩悩の心が煩悩の心をよくしようと努力すること、自力という。泥水で泥の手を洗うようなもの。コップ(頭)に入れた泥水(煩悩)をかき回すようなことをする。そんなことをせず放っておけば泥水は自然と真水になる。放っておくことがはからいなし。真水になるのは法爾自然、仏の御はからい。こんな簡単なことが一番難しいのは、頭に湧いては消えるだけの煩悩を自分だと思い込み、煩悩を実践することこそが生きることだと信じているから。無明という。煩悩に執着する心が煩悩を手放すことは煩悩の死。なかなか死ねない。

 煩悩を煩悩と知らないから無明という。信の一念に無明が破れても命ある限り煩悩は次から次と湧いてくる。湧いてくるが、無明と知れば湧いてくる煩悩を消えていくままにしておくことができる。湧いた煩悩はそのまま消えるままにするのがはからいなし。凡夫のはからいがないから仏の御はからいという。これゆえ、信心の人は如来に等しいという。竹内先生の喩えだが、溺れまいともがくから溺れる。もがくのを止めれば浮力で浮く。浮かす力が仏の御はからい。浮く体験が信の一念。浮かす他力を知れば、どこまでも自力で泳いでいける。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-28 09:27 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)

自然法爾章

  自然というは、もとよりしからしむるということばなり。
  弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、
  南無阿弥陀仏とたのませたまいて、
  むかえんとはからわせたまいたるによりて、
  行者のよからんともあしからんともおもわぬを、
  自然とはもうすぞとききてそうろう。

  ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。

  無上仏ともうすは、かたちもなくまします。
  かたちもましませぬゆえに、自然とはもうすなり。
  かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。

  かたちもましまさぬやうをしらせんとて、
  はじめに弥陀仏ともうすとぞききならひてそうろう。
  弥陀仏は、自然のようをしらせんりょうなり。

  (自然法爾章)


 正嘉二(1258)年十二月十四日、親鸞八十六歳のときの文書で「自然法爾章」と呼ばれています。関東から上京した弟子の顕智が三条富小路の坊にて、いくつかの疑問点について尋ね、それに答えた親鸞の言葉を顕智が聞き書きしたものです。自然法爾章には「仏とはなにか」が書いてある。すなわち、「南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたる」(仏のお心の中に生まれさせて、無上仏へと育て上げる)自然の働き、それを「弥陀仏」と呼ぶのだというのです。

 凡夫を仏にする働きは「かたちもましませぬゆえに」目に見えないが、働きを経験し救われた経験を持つ信心の人には、それがどんな働きなのかがわかる。その働きを経験したお釈迦さまは救いの働きを人類に示して「弥陀仏」と呼ばれたのです。救いの働きは、それと知らなくてもみなに平等に働いていて、その働きを信じて乗託すれば、働きが働き出す。それが必然だから「しからしむる」という。よって、弥陀仏はただの観念ではなく、経験可能な働きだと明らかにしているのが「自然法爾章」なのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-11-23 08:12 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)