信心のご利益

  無碍光の利益より
  威徳広大の信をえて
  かならず煩悩のこおりとけ
  すなわち菩提のみずとなる

  (高僧和讃)

  たとい我、仏を得んに、
  十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、
  我が光明を蒙りてその身に触れん者、
  身心柔軟にして、人天に超過せん。
  もし爾らずんば、正覚を取らじ。

  (三十三願・触光柔軟の願)

  身体があるから煩悩がある。
  煩悩具足であるが、その煩悩が起って来る傍から解ける。
  一方に起し一方に解ける。それが信心の御利益というもの。
  智慧の眼が開いて来ると頑なな煩悩を起こす身体の方も自ずと柔軟になる。
  心が柔軟になれば身体も柔軟になる。身体が柔軟になれば身体が健康になる。
  正定聚で何時死んでも極楽往生間違いない、
  そう思っているそんなつまらぬ正定聚は何でもないものだ。
  煩悩が解ける、そういう所に正定聚がある。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 信の一念に智慧をたまわる。智慧とは心が見える。見えるとは離れることだから、離れて心の影響を受けない。心を相手にしないでいられる。相手にしないから煩悩は静かになって、生じてもすぐに消える。このことを量深師は「起って来る傍から解ける」と言っている。解けるとは消えてなくなる。煩悩に実体はないから相手にしないと消えてなくなる。和讃には「かならず煩悩のこおりとけ、すなわち菩提のみずとなる」と、智慧の働きが讃えられている。このようにして煩悩が浄化され、心が明るくなっていく。仏へと育てられていく信心のご利益です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-05 06:00 | 往生の生活 | Comments(0)

正定聚の位に住する

  一一 たとい我、仏を得んに、
  国の中の人天、定聚に住し必ず滅度に至らずんば、
  正覚を取らじ。

  (必至滅度の願)

  しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、
  往相回向の心行を獲れば、
  即の時に大乗正定聚の数に入るなり。
  正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。

  (教行信証・証巻)

  信心獲得した時に阿弥陀如来の他力の発願廻向というものを成就するものであるが故に、
  それ故に造りと造る悪業煩悩を残る所もなく消滅せしめて下さる。
  そういう謂れがあるから、信心決定の一念に現生に於て正定聚の位に住するのである。

  我々煩悩具足の者が仏のさとりを開いたということはない。
  しかしながらもう仏のさとりは目前にある。成仏は目の前にある。
  往生が始まっておるが故に成仏は目前にある。それを必至滅度と言う。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 我というものは心に執着するところに成り立っている。執着がなければ心はただ起きては消えているだけの現象にすぎないが、執着はそこに我を妄想する。我というものはない。それを経験するのが信心です。信心獲得とは心への執着を離れる一瞬の、それも一度限りの体験で、その時、無我に触れたのです。生きるとは執着だから、身体がある限り執着する。執着する力がなくなった時が死ぬ時だ。生きている限り無執着の無我にはならない。ならないが無我を経験しているので仏に成るということがどういうことかは解っている。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-18 06:26 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)

往生は人生の修行である

e0361146_17481365.jpg  あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。
  心を至し回向したまえり。
  かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す。
  唯五逆と正法誹謗とを除く。

  (第十八願成就文)

  「得」は、うべきことをえたりという。
  真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。
  「摂」は、おさめたまう、「取」は、むかえとると、もうすなり。
  おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日をもへだてず、
  正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり。

  (一念多念文意)

  往生は生きているうちに往生する。
  成仏はこの命が終ってそうして新しい命で成仏する。
  成仏というのは滅度ですからね。
  朝から晩まで人間の生活は往生の生活である。
  往生ということに一点の疑いのない、そういう生活でありましょう。
  純粋往生の生活、決定往生の日暮しをさせていただく、それを、正定聚という。
  正定聚の人は必ず成仏する、と。
  往生は心を養うのでございます。往生は修行であります。
  往生は人生の修行であると私は理解しているのであります。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)

 量深師には学問の前に信仰がある。仏のお心の中に生まれたという体験がある。いま現に、お育ていただいているという確かな自証がある。だから、「往生は人生の修行である」とはっきり言える。ただの学問なら硬直する。退屈だ。仏のお心をいただけば心は明るく、軽く、柔らかくなる。自然にそうなる。自然にそうなるから必ず仏になる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-01-12 06:33 | 曽我量深師の教え | Comments(2)

第十八願

  たとい我、仏を得んに、
  十方衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲うて、
  乃至十念せん。
  もし生れずは、正覚を取らじ。
  唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。

  (第十八願文)

  「至心信楽」というは、至心は、真実ともうすなり、
  真実ともうすは、如来の御ちかいの真実なるを至心ともうすなり。
  煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆえなり。
  信楽というは、如来の本願真実にましますを、
  ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。
  この至心信楽はすなはち十方の衆生をして
  わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかいの至心信楽なり。
  凡夫自力のこころにはあらず。
  「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、
  安楽浄土に生まれんとおもえとなり。

  (尊号真像銘文)


 本願とはなにか。なぜ十八願が本願なのか。なぜ十八願で救われるのか。救われるとはどういう事態をいうのか、今回はそういうことについて。われらはふだん意識野で暮らしている。それすら意識していない。意識していることがすべてだと無自覚に信じている。苦悩は意識野で起きている。苦悩はこの意識野の中の苦悩であるから意識野を超え出れば苦悩を超えることができる。意識野を超え出た処を不思議といい、仏はこの不思議の領域から「こちらに来い」と呼びかけておられる。この呼び声があるから、この呼び声に気づいて始めてわれらは意識野に暮らしていることを知る。だから、意識野に暮らしていると知ることがすなわち不思議を知ることです。

 意識は自分で意識を超えることはできない。だから仏は無始以来、ずっと呼び続けておられる。意識したらそこは意識野ですでに不思議ではない。意識は意識を超えることはできない、そう知ることが不思議に心が開くことです。これが信心です。意識を神とする傲慢が砕けて心が意識から救われる。事実はすべて不思議の領域で起きて意識野に入ってくる。不思議の領域で起きていることを意識野に暮らすわれらにはどうすることもできない。だから、いま起きている事実に随順して素直であることがわざわいを招かない正しい生き方です。小さな意識野から出て、わたしの心の中で暮らしなさいというのが仏さまのお心です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-01-07 08:21 | 真宗へのアプローチ | Comments(6)

  たとい我、仏を得んに、
  十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、
  わが名を称せずんば、正覚を取らじ。

  (仏説無量寿経巻上)

  十七願は“諸仏”と書いてある。
  諸仏は歴史の上から言えば善知識である。
  念仏をよろこぶ人、念仏にすくわれた人全部を十方無量の諸仏という。
  特別の偉い方というわけではない。我々がみな諸仏である。
  信心よろこぶ人はみな諸仏である。
  名も無きわれら行者の念仏が十七願の諸仏称名の歴史をつくってゆく。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」 彌生書房 1982年)


 二十の後半あたりから禅宗の本を独学で学んでいたわたしは三十六で竹内先生をお訪ねするまで念仏を称えることもありませんでした。後に先生から「あんたは禅宗臭い」と言われてしまいますが、長年の思索に追い詰められて、当時のわたしの意識は針の先のようにとがって、やがて折れるのを待っていました。先生をお訪ねして三カ月後、機が熟したのでしょうか、ある経験をすることになります。「得るものを得た」と一瞬のうちに確信しました。なんの疑いもありませんでした。これで「人生が終わった」「苦役から解放された」と思ったものです。

 しかし、当時のわたしはその経験を説明することができない。そもそもなにを経験したのか、それをどう理解したらいいのかがわからない。そのためには真宗の教義を学ばなくてはならないと思ったものです。あれから二十七年、信の一念に立ち返り立ち返り、信の一念を超える経験はありませんし、信の一念が変質するということもありません。そういう次第で、今もブログを書いていますが、信を言葉にするためのわたしの「自信」の歩みが誰かのための「教人信」になっていれば嬉しいと思うのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-02 08:39 | 曽我量深師の教え | Comments(0)