タグ:歎異抄 ( 27 ) タグの人気記事

善悪のふたつ存知せず

  聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。
  そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
  よきをしりたるにてもあらめ、
  如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
  あしさをしりたるにてもあらめど、
  煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
  よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、
  ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそおおせはそうらいしか。

  (歎異抄・後序)

 親鸞は「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」と言った。どういうことかといえば、なにもわかりません。なにが善でなにが悪かなど、仏でもない自分にわかるはずもありませんと、そう言った。わかろうとすることが終わった。念仏一つが残った。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-04-26 09:09 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

摂取不捨を体験する

  ①弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
  ②往生をばとぐるなりと信じて
  ③念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
  ④すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

  (歎異抄・第1章)

 仏教は涅槃の境地に入ることを目的に修行する。涅槃とは煩悩がない。煩悩のない静かで平和な心の状態を涅槃という。仏のさとりの境地です。さとりの境地を「浄土」といい、煩悩をもったままさとりの境地に生まれさせようというのが「弥陀の誓願」です。煩悩をもったまま涅槃の境地に入るので「不思議」です。

 歎異抄第一章では「摂取不捨」という言葉を使っていますが、涅槃の境地に生まれることを「摂取不捨」といいます。「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ということです。弥陀の本願、すなわち「摂取不捨」を体験することが「往生」です。第一章の冒頭の文に番号をつけましたが、①②③④は時系列に並んでいるようですが、「たすけられ」(教)るのも「念仏もうす」(行)のも「信じる」(信)のも「あずけしめたまう」(証)のも経験的にはすべて同時です。

 とくに大切なのは「往生をばとぐるなりと信じて」で、信じたのはすでに往生したからです。涅槃の境地が浄土、涅槃の境地に生まれるから往生です。すでに往生したから、涅槃の一分を経験したから必ず無上涅槃に達すると確信するのです。この経験を「摂取不捨」といいます。十八願の成就、信の一念に涅槃(仏)を経験する。仏教の結論を冒頭に示したのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-04-06 21:55 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

e0361146_21584024.jpg


  四十四、死ぬまいと思うて居るうちに死ぬる。
  真宗の者は、地獄へ墮ちはせまいと思うて堕ちる。
  他宗のものは業がつよくて堕ちる。
  仏法を知らぬものは、地獄はありませぬと思うて堕ちる。
     

  五〇、或る人の尋ねに。
  私は地獄へ堕ちるばかりの心で御座ります。
  仰せに。地獄へ堕ちるばかりの心え、聞くたびに、
  ただ嬉しいばかりの御法なり。

  (香樹院語録) 

 「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄・第2章)。この世は地獄である。現在が地獄である。前の生も地獄、次の生も地獄、われらは地獄しか知らないから地獄とも知らずに生きている。理由もわからず苦しんでいる。われらは地獄を生きる同類で、生きる惨めさは一切の有情のありのままの事実である。内側を見ればみな惨めなものである。外を見ても惨めなものである。惨めを惨めと知ったはよくよくのお慈悲である。みな地獄を地獄とも知らずに堕ちて行くのに、地獄一定と知ったはよくよくのお慈悲である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-05 11:22 | 念仏のすすめ | Comments(0)

  親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
  よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
  念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、
  また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。
  たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
  さらに後悔すべからずそうろう。

  (歎異抄・第2章)

  「歎異抄」の一番驚くべき言葉は「念仏は、
  まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、  
  また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。
  総じてもって存知せざるなり」、あれは大変な言葉である。
  あれをよく平静に読んでいたと思う。
  ああいうことは、深い体験、自分を掘り下げて、
  深い深層意識の底の底まで掘り下げて、
  ああいう言葉が出てくる。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)

 言葉というのは心の表層にある。心の表層である意識は騒々しく薄っぺらで、物事が早く流れて行く。われらは意識のつくる小さな世界に住んでいるが、意識は心という大海原の波の上で漂流する筏のようなもので、大海原の広さも知らなければ、波の下の光も差さない深海の深さも知らない。あたかも筏の上が全世界だとばかりに思い込んでいる。大きな間違いである。意識はコップの中の嵐のような日常に明け暮れている。ときどき筏が転覆して始めて海の怖さを知る。

 いわば、信仰とは光も射さない心の深海に降りて行くような作業だ。これを内観という。深く深く降りて行けば、そこは光も音もない孤独な世界である。闇と無音の世界で一人きりになったところで自分と向き合うのである。「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり」。光も音もない世界では理屈はどうでもよい。すべての言葉が削ぎ落とされて右も左もわからなくなって、自分はなにも知らないと思い知らされる。一文不知になって、はじめて仏の呼び声を聞こうとするのである。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-23 06:18 | 歎異抄の領解 | Comments(4)

観念成就のさとり

e0361146_09203222.jpg  十方無量の諸仏の
  証誠護念のみことにて
  自力の大菩提心の
  かなわぬほどはしりぬべし

  三恒河沙の諸仏の
  出世のみもとにありしとき
  大菩提心おこせども
  自力かなわで流転せり

  (正像末和讃)

  煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。
  この条、もってのほかのことにそうろう。
  即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。
  六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。
  これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。
  来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。

  (歎異抄・第15章)

 自力の人は「観念成就のさとり」だから自分の頭で悟れると思っている。邪見驕慢だから自分の頭でわかりたい。自我意識が尖っているから自分が一番賢いと思っている。こういうのを自力というのでしょう。自力の人は歎異抄は読むが念仏はしない。頭でわかりたい人は一文不知にはなれない。学問して悟りが開けるなら学者はみな生き仏だ。しかしそうはならない。

 他力は悟らないのではない。頭でわかったようなものはやがて壊れてわからなくなる。それは悟りではないからだ。他力は仏から悟りの智慧をいただく。智慧が開く悟りの境地を仏の方から開いてくださる。自分の頭でこしらえた方便化土ではない。仏智不思議、人智を超えたところから届く悟りで、自分の頭で考えた悟りではないから「如来よりたまわりたる信心」(歎異抄・後序)という。


 人間の心を超えた高次の心に出会う体験を他力という。自分で開く悟りではないから、悟りは如来回向の信心の中に含まれている。悟らなくても悟りの境地(真実報土)を回向してくださる。それを「往生」という。「来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり」とあるように、煩悩具足の身をもって悟りを開くことはできないが、煩悩具足の身をもって今生に「往生」(信心決定)することはできる。煩悩具足の身のまま悟りの境地に生まれさせようというのが弥陀の本願です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-21 06:15 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

わが身の事実

  聖人のつねのおおせには、
  「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとえに親鸞一人がためなりけり。
  されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
  たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と
  御述懐そうらいしことを、いままた案ずるに、
  善導の、「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、
  つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」
  (散善義)という金言に、すこしもたがわせおわしまさず。
  されば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、
  われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず、
  如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよえるを、
  おもいしらせんがためにてそうらいけり。
  まことに如来の御恩ということをばさたなくして、
  われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。

  (歎異抄・後序)

 機の深信とは「わが身の事実」です。わが身の事実に立たせるのが智慧です。智慧とは光、光に遇えば事実が見える。見えなかった自分を見えるようにしてくれるのが光明であり、光に照らされれば自分が見える。自分が誰かがわかる。わかれば自分に満足する。不満はない。不満がないから求めない。求めないから迷わない。自信もなく自分を探して暗闇をさ迷い歩く不安と苦しみからようやくにして解放される。安心する。事実に落着する。わが身の事実を「罪悪生死の凡夫」という。

 救いがない身と教えてくれたのが如来回向ですから、救われないと知ったことが即ち救われたことです。罪悪生死の凡夫とはわが身の事実ですから、事実に行き着けば、そこが到着地です。事実を知らないから、あれこれと機の善悪に振り回される。親鸞いわく「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」(歎異抄・後序)と。善悪とは事実についての分別であり、解釈であり、事実から浮き上がった妄念妄想です。事実を知り、事実を受け入れた者には事実の解釈はもういらない。これを無分別とも一文不知ともいう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-19 09:30 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

悪をもおそるべからず

e0361146_11162043.jpg  悪をもおそるべからず、
  弥陀の本願をさまたぐるほどの
  悪なきがゆえにと云々

  (歎異抄・第1章)

 心に執着がないことを「悟り」といいます。心の善悪にこだわるのは心に執着しているからです。これを「迷い」といいます。「心に執着しない」ということがわからずに迷っている。どのように迷っているか。「心をよくすれば幸せになる」と信じて迷っている。悪い心が起きないようにと努力している。だから、「われを信じて心を離れよ」という弥陀の呼び声が聞こえない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-03 11:06 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

還相もまた"現在"にあり

  一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
  いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。

  (歎異抄・第五章)

  南無阿弥陀仏の回向の
  恩徳広大不思議にて
  往相回向の利益には
  還相回向に回入せり

  如来の回向に帰入して
  願作仏心をうるひとは
  自力の回向をすてはてて
  利益有情はきわもなし

  (正像末和讃)

  往相と還相と、往相は現在にあり、還相は未来にあるとー
  こういうふうにありまするけれども、そうしないと筋道がたたないものだから、
  還相を"未来"におくと、そういうのが『歎異抄』のお言葉でございます。
  けれども、『正像末和讃』をもって照らしてみるというと、
  還相もまた"現在"にありー如来の回向が本であります。
  如来の回向という方から見るというと、
  往相も還相もみな南無阿弥陀仏の中にあるのであって、
  そこに矛盾も撞着もないものであると、
  『正像末和讃』へ来まするとそういうふうに教えてある。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)


 教えがあっても救われた人がいなければ誰も救いを信じない。救われた人の喜ぶ姿にわれらは仏のお力を見るのである。救われて喜ぶことがわたしの「往相」であるなら、わたしの喜ぶ姿がそのまま誰かの「還相」となる。わたしが喜ぶのも、わたしが喜びを語りだすのも、いずれも仏の御はからいである。仏の御はからいだから往相も還相も"現在"である。弥陀仏は(現在を超えて)「現在」の仏だからである。わたしは(現在を超えて)「未来」の仏であるから、「この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」と言ったのである。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-24 06:12 | 曽我量深師の教え | Comments(0)

歎異抄・第四章の読み方

  一 慈悲に①聖道・②浄土のかわりめあり。
  ①聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。
  しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。
  ②浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、
  大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
  ①今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、
  存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
  ②しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々

  (歎異抄・第四章)

  よしあしの文字をもしらぬひとはみな
  まことのこころなりけるを
  善悪の字しりがおは
  おおそらごとのかたちなり

  是非しらず邪正もわかぬ
  このみなり
  小慈小悲もなけれども
  名利に人師をこのむなり

  (正像末和讃)


 教行信証の後序に「竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり」とある。今生に悟りを開いて衆生済度するという聖道の理想は立派でも、末法の世にあっては、聖道の教えで悟りを開く者がいない。教えがあっても行証がないから、聖道の慈悲は「始終なし」。対して、浄土の教えは今生に念仏して順次生に仏になる。今生にこそ利他はできないが、順次生に仏になれば「大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益する」。必ず仏になるので、念仏は「すえとおりたる」大慈悲心である、と。

 さて、以上が第四章の文意ですが、第四章、第五章、第六章はいずれも利他の徳について述べられています。とくに、第四章が教えようとしているのは、われらは「救う」側か「救われる」側か、どちらに立つのかということです。自力聖道門は指導エリートのための教えであるから最初から「救う」側に立っている。しかし、親鸞は「弟子一人ももたずそうろう」(第六章)と言って、徹底して「救われる」側に身を置いた。聖道門くらいの悟りなら親鸞にもある。しかし、悟りの智慧を自分のものとはせず、智慧に照らされて見える救われない煩悩を自分だとした。「名利に人師をこのむなり」と懺悔する親鸞は決して「救う」側、指導する立場には立たなかったのです。

 よって、第四章の冒頭、「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」の「かわりめ」とはなにかと言えば、聖道門は「救う」側の教え、浄土門は「救われる」側の教えだということです。そのことを親鸞はここではっきりさせた。それが第四章の趣旨です。正像末和讃の最後の二首を上に掲げましたが、救う側には決して立たない親鸞の気持ちがはっきり表れています。浄土門の勃興という歴史を背景に、念仏が聖道の教えから独立して庶民の信仰になっていく精神的な土壌を親鸞が提供しているのです。われらはどこまでも煩悩具足の凡夫、救われる側にあることを忘れてはならない。
 
 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-22 06:32 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

  未来未来と言うのは、我々の意識を超えた所を未来という。
  意識の世界にあることをば現生とはっきり教えて下さるわけである。
  だからして成仏は未来だと言うても、現在になにもないというわけではない。
  すべて未来というなら証拠がない。
  生きている中に往生の願いが成就しなければ成仏の証明がない。
  往生の現在によって成仏の未来を証明するというのでなければならぬと私は思う。

  後生というのは死んでから先のことだと昔から考えて来たのであろう。
  併し仏法の不思議によって、生きている中に後の世が現れる。
  それで、親鸞聖人の教えが現生正定聚が眼目である。
  後生というのは精神世界、魂の世界である。
  真実信心を獲れば浄土を感じる、そういう眼が開いて来る。
  生きているうちにそういう眼が開ける。浄土は心にある。
  如来の本願の力によって信心の眼を開かして頂くと
  浄土の荘厳というものを自分の生活の上に感得することが出来る。

  (津曲敦三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 「意識を超えた所を未来という」「死んでから先のこと」ではないという量深師の教えです。過去・現在・未来と流れて行く先の「未来」ではなく、現在を超えた現在としての未来、現在の深さとしての未来を「後生」というのだと教えてくれている。今でも新しい、決して陳腐にならない教えだと思う。歎異抄・第十章に「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とありますが、我々の意識の外、不可思議の領域から届く願力自然の働きをただそのままに頂けというのでしょう。

 竹内先生はよく「未来は明るいか」と言われましたが、未来がはっきりしたかというのでしょう。未来に光がある。未来から現在の闇が照らされる。照らされるとは、浄土から娑婆が見える。意識を超えたところから意識が照らされる。この不思議の仏智をいただくと智慧を回向して救わんとされた本願のお心を感じることができる。これを「後生の一大事」という。死んでどこぞに生まれるという話ではない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-09 06:30 | 曽我量深師の教え | Comments(0)