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  親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
  よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
  念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、
  また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。
  たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
  さらに後悔すべからずそうろう。

  (歎異抄・第2章)

  「歎異抄」の一番驚くべき言葉は「念仏は、
  まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、  
  また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。
  総じてもって存知せざるなり」、あれは大変な言葉である。
  あれをよく平静に読んでいたと思う。
  ああいうことは、深い体験、自分を掘り下げて、
  深い深層意識の底の底まで掘り下げて、
  ああいう言葉が出てくる。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)

 言葉というのは心の表層にある。心の表層である意識は騒々しく薄っぺらで、物事が早く流れて行く。われらは意識のつくる小さな世界に住んでいるが、意識は心という大海原の波の上で漂流する筏のようなもので、大海原の広さも知らなければ、波の下の光も差さない深海の深さも知らない。あたかも筏の上が全世界だとばかりに思い込んでいる。大きな間違いである。意識はコップの中の嵐のような日常に明け暮れている。ときどき筏が転覆して始めて海の怖さを知る。

 いわば、信仰とは光も射さない心の深海に降りて行くような作業だ。これを内観という。深く深く降りて行けば、そこは光も音もない孤独な世界である。闇と無音の世界で一人きりになったところで自分と向き合うのである。「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり」。光も音もない世界では理屈はどうでもよい。すべての言葉が削ぎ落とされて右も左もわからなくなって、自分はなにも知らないと思い知らされる。一文不知になって、はじめて仏の呼び声を聞こうとするのである。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-23 06:18 | 歎異抄の読み方 | Comments(4)

涅槃の境地に到達する

  涅槃というからと言うて、命終わらなければ涅槃の境地が解らぬことはない。
  生きている中は無上涅槃ではない。有上涅槃というか。
  無上涅槃のさとりは開けぬが、或る程度の涅槃のさとりは得る。
  現生に於て涅槃という一種の境地を得る。
  つまり無生法認というのは涅槃を知る智慧であるから、
  無生法認の智慧が開けて来れば或る程度の涅槃の境地に到達することが出来るのであることを
  教えて下さるのが浄土真宗の教えである。

  涅槃の静かな心境は、生きてる中にそういう境地がいつも自分の心の中にあって、
  どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない。
  煩悩を断ぜずして涅槃を得という静かな何ものにも障えられない境地がある。
  それを現在の生活の上に経験することが出来る。
  それが仏からたすけられたということである。

  いつ死んでも成仏間違いないのは、現生に於て既に往生している、
  現生に於て既に浄土往生の生活を営んでおるものであるが故に、
  仏様でないけれども仏様と等しい生活を他力の不思議で与えて下された。
  そういうものであるが故に、
  いつ命が終わっても大般涅槃間違いない確信確証を握っておるものである。
  こういうのが浄土真宗の教えの本当の精神である。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 煩悩具足の身をもって悟りを開くことはできない。出来ないのであるが、誓願の不思議によって「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ことが出来る。すなわち、煩悩具足の身のまま悟りの境地(涅槃)に生まれさせようというのが弥陀の本願というものです。涅槃の境地を身をもって体験し、その体験を伝えてきたのが仏教の伝統です。量深師は「浄土真宗の教えの本当の精神である」と教えている。

 量深師の教えが尊いのは「現生に於て既に往生している」「現生に於て涅槃という一種の境地を得る」と教えてくれるからです。その具体的な中身を「どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない」と明らかにしています。念仏、聴聞に励んでいる人にとって目標となることでしょう。人生でなにを経験しようと永遠の時間である「涅槃の静かな心境」を経験することに勝るものはない。
 
 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-22 06:07 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

涅槃を得るなり

e0361146_22151782.jpg  よく一念喜愛の心を発すれば、
  煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

  (正信偈)

  仏法では涅槃という。
  一人で居っても淋しくない、賑やかであるーそれを涅槃という。
  本当の一人の所に賑やかであるーそういうさとり(心境)が開ければ、
  いくら大勢居っても誰も自分の心境を妨げない。
  どんなに人に取り巻かれても自分の静かな心境を誰も妨げない。
  そういう心境を開いて下さる法を念仏という。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 「一人で居っても淋しくない、賑やかであるーそれを涅槃という」。こんな教えを聞いたことがあるだろうか。死んだ後のことではない。生きているうちに経験するのが涅槃である。煩悩の身を持って仏になることはできないが、煩悩の身を持ったまま仏のお心の中に生まれることはできる。それを往生という。悟るのではなく、信の一念に如来回向で悟りの境地が開けてくる。信の一念に摂取不捨、仏のお心の中に生まれる。それを「涅槃を得るなり」という。
 
 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-17 20:09 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

機の深信(続)

  一 「総別、人にはおとるまじき、と思う心あり。
  此の心にて、世間には、物もしならうなり。
  仏法には、無我にて候ううえは、人にまけて信をとるべきなり。
  理をまげて情をおるこそ、仏の御慈悲なり」と、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書160条)

  機の深信は負ける世界だ。負ける人は礼儀正しい。
  機の深信は負けた姿。負けた姿は美しい、素直である。
  負ける世界を与えてくださるのが如来の大慈大悲というものである。
  そこに心の平和がある。
  人間が邪見驕慢になって、何とか人に勝とう、捩り倒そう、
  押し除けようと考える。それが迷いである。苦悩の根源である。
  一体人間がそのような殺伐な心を起こすのは
  人間には生死無常という真理を素直に受取る智慧がないからだ。
  自分を信ずるとはどういうことか。
  自分の分限を知ることが自分を信ずること。
  自分を本当に知らして貰うた所にそこに仏のおたすけがある。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 負けるとはおのれの事実に立つ。どんな事実も受け入れないということのない心の柔らかさ、明るさがある。事実を受け入れないのはまだ自分に執着があるからでしょう。負けたくないのは自分に自信がない。自分を築き上げる途中なのでしょう。心に余裕がない。なにもかもが足りない。足りないから急ぐ。その根底にあるのは暗い心、劣等感に違いない。自分の心を見たくないのは劣等感があるからでしょう。


 なにかを補うため、なにかを取り戻すため、なにかを忘れるために生きるなんて、はじめから暗い人生です。なにを得ようとも、その暗い劣等感を埋め尽くすこともできなければ、なにを得たとしても空虚さを癒すことはない。仏のお心に遇えば、いま持っているもので十分に満足だと教えていただける。はじめから勝ち負けなどないから、勝つこともいらず、勝つことのいらない者に負けなどない。だから、喜んで負けていられるのでしょう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-15 15:58 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

機の深信

e0361146_10271998.jpg  弥陀成仏のこのかたは
  いまに十劫をへたまえり
  法身の光輪きわもなく
  世の盲冥をてらすなり

  (浄土和讃)

  我々は自分自身を知らぬ。
  自分自身を知ることが出来ぬ。
  外の方は一応知識を持つ。
  月の世界まで旅行することが出来るまで人間の知識は進んだが、
  自分自身を知る眼は全く閉じている。
  これは、阿弥陀如来の御光に照らされて
  自分自身というものを見るところの智慧を始めて与えてくださる。
  それを機の深信という。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 この命に寄り添い、この命を悲しみ、この命を最後まで見届けてくださる、仏さまのお心の中にわたしは生まれ死ぬことができる。わたしを悲しんでくださるお心がありがたい。どんな命の流転だったか。わたしはなにも知らないが、今もわたしを悲しんでくださるお心がうれしい。わたしは一人ではない。一人で生きていても一人ではない。

 仏さまとはどんなお方か。どこにおられるのか。どうすれば仏さまにお遇いすることができるか。求める人に伝えたい。あなたの心の中で仏さまに遇ってほしい。仏さまのおられる場所が浄土だから、あなたの心の中が浄土になる。闇の心に光が入って光の国になる。「機の深信」とは自分が信じられる。仏さまに信じられていたことがわかって自分が信じられる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-14 10:14 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

浄土は精神王国である

  浄土とは何ぞや、浄土は精神王国である。
  心が濁っているから物という実体があると思うている。
  これを無明という。
  心の修行安心の拠り処を失うて堕落して物質の奴隷になっている、
  それを迷いの娑婆世界という。
  自分の力では成仏出来ない者のために浄土を立てて
  往生の道を建てて下されたのが如来の本願である。
  往生以外におたすけはない。
  往生という所に新しい生活、精神生活を開いて下さる。
  それを仏恩報謝の生活という。
  因と果は同時にある。
  異時因果ではなく同時因果と理解すべきものである。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 「同時因果」とは現在と未来が同時である。信をいただいた現在に未来の浄土が開ける。現在を超えて現在するのが浄土である。だから娑婆は浄土ではないが娑婆を超えて娑婆を包んでいる。一方、「異時因果」とは現在に信心をいただくが往生は死後である。死後に浄土に生まれてから仏になる修行をする。現在にはなにもない。信の一念がない。なにもありがたくない。

 「おたすけ」とは信の一念に往生するから「おたすけ」という。往生するから成仏に間違いないとわかる。間違いないから心配がない。心配がないから成仏がもう問題にならない。「往生の道を建てて下されたのが如来の本願である」とわかるのは往生した証拠である。異時因果には証拠がない。証拠もなくて仏恩報謝と言っても意味がない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-08 10:11 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

浄土は心の世界である

  弥陀智願の広海に
  凡夫善悪の心水も
  帰入しぬればすなわちに
  大悲心とぞ転ずなる

  ※「転ずる」の左訓
  悪の心、善となるを転ずるなりというなり。

  (正像末和讃)

  如来の回向南無阿弥陀仏によって自己を照らす眼を開かせて頂くのである。
  そうすると、そこに浄土が心の前に開ける。浄土は心の世界である。
  我等の心の無明を照らして下さるものである。
  心が自由に眼を開いて来るなら、煩悩が起っても煩悩の奴隷とならず、
  煩悩の悪を転じて如来の徳を行ずることが出来る。
  それが即ち浄土の生活というものである。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 境遇も世界も運命も信の前と後でなにも変わらない。それを受け止める心の方が変わる。それを量深師は「自己を照らす眼を開かせて頂く」と言っている。凡夫の眼が仏の眼になる。この意識の転換を「転ずる」といい、この「転ずる」を経験することが仏教のすべてと言っていい。「煩悩の悪を転じて如来の徳を行ずることが出来る。それが即ち浄土の生活というものである」。現実を超越した心の生活を「浄土」という。 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-07 00:36 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

真実報土

e0361146_22242000.jpg  信心によって、信の一念のときに願生心が成就する。
  自分の願いも成就し、如来の本願も成就する。
  だから、お助けは現在に成就する。
  だから私どもはこの世に満足して、何も暗い疑いの思いなく、
  自分の生活の現在に満足するというのが真実報土でしょう。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)

 信の一念に求める心が消える。求めるものがなくなった心の状態を「満足」という。満足する心に「なぜ」はない。求めないからすべてがある。いまの境遇に満足する。満足する心は明るい。満足する心が開く明るく平和な心境、心の世界を「真実報土」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-06 07:11 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

信心のご利益

  無碍光の利益より
  威徳広大の信をえて
  かならず煩悩のこおりとけ
  すなわち菩提のみずとなる

  (高僧和讃)

  たとい我、仏を得んに、
  十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、
  我が光明を蒙りてその身に触れん者、
  身心柔軟にして、人天に超過せん。
  もし爾らずんば、正覚を取らじ。

  (三十三願・触光柔軟の願)

  身体があるから煩悩がある。
  煩悩具足であるが、その煩悩が起って来る傍から解ける。
  一方に起し一方に解ける。それが信心の御利益というもの。
  智慧の眼が開いて来ると頑なな煩悩を起こす身体の方も自ずと柔軟になる。
  心が柔軟になれば身体も柔軟になる。身体が柔軟になれば身体が健康になる。
  正定聚で何時死んでも極楽往生間違いない、
  そう思っているそんなつまらぬ正定聚は何でもないものだ。
  煩悩が解ける、そういう所に正定聚がある。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 信の一念に智慧をたまわる。智慧とは心が見える。見えるとは離れることだから、離れて心の影響を受けない。心を相手にしないでいられる。相手にしないから煩悩は静かになって、生じてもすぐに消える。このことを量深師は「起って来る傍から解ける」と言っている。解けるとは消えてなくなる。煩悩に実体はないから相手にしないと消えてなくなる。和讃には「かならず煩悩のこおりとけ、すなわち菩提のみずとなる」と、智慧の働きが讃えられている。このようにして煩悩が浄化され、心が明るくなっていく。仏へと育てられていく信心のご利益です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-05 06:00 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

還相もまた"現在"にあり

  一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
  いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。

  (歎異抄・第五章)

  南無阿弥陀仏の回向の
  恩徳広大不思議にて
  往相回向の利益には
  還相回向に回入せり

  如来の回向に帰入して
  願作仏心をうるひとは
  自力の回向をすてはてて
  利益有情はきわもなし

  (正像末和讃)

  往相と還相と、往相は現在にあり、還相は未来にあるとー
  こういうふうにありまするけれども、そうしないと筋道がたたないものだから、
  還相を"未来"におくと、そういうのが『歎異抄』のお言葉でございます。
  けれども、『正像末和讃』をもって照らしてみるというと、
  還相もまた"現在"にありー如来の回向が本であります。
  如来の回向という方から見るというと、
  往相も還相もみな南無阿弥陀仏の中にあるのであって、
  そこに矛盾も撞着もないものであると、
  『正像末和讃』へ来まするとそういうふうに教えてある。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)


 教えがあっても救われた人がいなければ誰も救いを信じない。救われた人の喜ぶ姿にわれらは仏のお力を見るのである。救われて喜ぶことがわたしの「往相」であるなら、わたしの喜ぶ姿がそのまま誰かの「還相」となる。わたしが喜ぶのも、わたしが喜びを語りだすのも、いずれも仏の御はからいである。仏の御はからいだから往相も還相も"現在"である。弥陀仏は(現在を超えて)「現在」の仏だからである。わたしは(現在を超えて)「未来」の仏であるから、「この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」と言ったのである。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-24 06:12 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)