たとへば千歳の闇室に

  たとへば千歳の闇室に、
  光もししばらく至れば、
  すなはち明朗なるがごとし。
  闇、あに室にあること千歳にして
  去らじといふことを得んや。

  (教行信証・信巻 「浄土論註」引用)


 例えば、映画のスクリーン。スクリーンに映っている世界は映写機が映している。映写機という自分の心が映したものをわれらはスクリーンという外に見ている。スクリーンを見るうちにスクリーンの中の世界が外界に実在すると錯誤する。錯誤した上、自分の心が映したものに執着する。元々"ない"ものを見て"ある"と執着するから「迷う」という。外に見ているのは内にあるものの影でしかない。さて、「千歳の闇室」とは自分の心のこと、「光至れば」とは自分の心が見える。自分で自分の心を見ることはできない。仏の我を見る眼をいただく。だから、自分の心が見えたら、それが「千歳の闇室に、光もししばらく至れば」です。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-20 07:29 | 真宗の眼目 | Comments(0)

涅槃を得るなり

e0361146_22151782.jpg  よく一念喜愛の心を発すれば、
  煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

  (正信偈)

  仏法では涅槃という。
  一人で居っても淋しくない、賑やかであるーそれを涅槃という。
  本当の一人の所に賑やかであるーそういうさとり(心境)が開ければ、
  いくら大勢居っても誰も自分の心境を妨げない。
  どんなに人に取り巻かれても自分の静かな心境を誰も妨げない。
  そういう心境を開いて下さる法を念仏という。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 「一人で居っても淋しくない、賑やかであるーそれを涅槃という」。こんな教えを聞いたことがあるだろうか。死んだ後のことではない。生きているうちに経験するのが涅槃である。煩悩の身を持って仏になることはできないが、煩悩の身を持ったまま仏のお心の中に生まれることはできる。それを往生という。悟るのではなく、信の一念に如来回向で悟りの境地が開けてくる。信の一念に摂取不捨、仏のお心の中に生まれる。それを「涅槃を得るなり」という。
 
 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-17 20:09 | 往生の生活 | Comments(0)

現生十種の益(続)

e0361146_07284065.jpg  五濁悪世の衆生の
  選択本願信ずれば
  不可称不可説不可思議の
  功徳は行者の身にみてり

  南無阿弥陀仏をとけるには
  衆善海水のごとくなり
  かの清浄の善身にえたり
  ひとしく衆生に回向せん

  (高僧和讃)

  金剛の真心を獲得すれば、
  横に五趣八難の道を超え、
  かならず現生に十種の益を獲。

  (教行信証・信巻)


 信心とは仏のお心をいただくことです。いただくとは仏のお心がわたしの内面に入って主体となってくださった。そのことを「功徳は行者の身にみてり」とも「かの清浄の善、身にえたり」ともいいます。この身に得た信心とはどのようなものか。その具体的な内容を親鸞は「十種の益を獲」と教えてくれている。これが「功徳」です。


 「五趣八難の道」とはわれらの現在の姿であり、現在を現在と知らせ、現在に安息して生きる道を開くのが現在を超えて現在を照らす光、すなわち「金剛の真心」です。現在を超越しているので「未来」といい、未来が現在を超えて現在しているのです。真宗は「二種回向」といいますが、「選択本願信ずれば」が往相で、「ひとしく衆生に回向せん」が還相です。仏のお育てで、わたしの手柄はありません。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-12 07:18 | 往生の生活 | Comments(0)

現生十種の益

  金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、
  かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。
  一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、
  四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、
  七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、
  十には正定聚に入る益なり。

  (教行信証・信巻)

 ①冥衆護持とは諸仏諸菩薩、天と地のすべての善神にいつも護られる。②至徳具足とは仏にそなわったこの上もなく尊い功徳がこの身にもそなわる。③転悪成善とは煩悩が悟りへと転ぜられる。④諸仏護念とはいつも諸仏に護られる。⑤諸仏称讃とは諸仏にほめたたえられる。⑥心光照護とはいつも智慧の光に照らされる。⑦心多歓喜とは心に喜びが多い。⑧知恩報徳とは如来のご恩を知りご恩に報いる。⑨常行大悲とは如来回向の智慧を人に伝える。⑩入正定聚とは仏になる身に定まる。

 真心とは真(まこと)の心。仏のお心のことです。仏のお心が凡夫の内面に入って主体となってくださる。それで仏のお徳が凡夫に具わる。それが「至徳具足」です。大きな心の中に自分があるのでいつも護られている感じがします。それが「冥衆護持」です。信心は智慧光ですから「心光常護」、いつも仏の方から自分が見えている。見えていることが救われるということです。

 中でも「転悪成善の益」がとくに大切です。煩悩が湧いても取り憑かずにいられるので煩悩がすぐ消えていきます。過去の業が無意識の底から黒く沸き上がってきて智慧の光に晒されて業が浄化されていく。この繰り返しが浄土の生活です。業が浄化されていくと心が軽く明るくなっていくので「心多歓喜」、仏のお心は利他の心ですから「常行大悲」の働きをします。仏へとお育ていただいているのだとわかります。それで最後にまとめとして「正定聚に入る益なり」といいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-11 06:12 | 往生の生活 | Comments(0)

念々称名常懺悔

  誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、
  愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、
  定聚の数に入ることを喜ばず、
  真証の証に近づくことを快しまざることを、
  恥ずべし、傷むべし、と。

  (教行信証・信巻 )

  念々に称名してつねに懺悔す
  人よく仏を念ずれば仏また憶したまふ
  凡聖あひ知り境あひ照らす
  すなはちこれ衆生増上縁なり

  (善導・般舟讃)


 善導大師の「般舟讃」に「念々称名常懺悔」という言葉がありますが、親鸞のこの述懐が「懺悔」です。真宗では「ざんげ」ではなく「さんげ」と読みます。懺悔(ざんげ)とは「キリスト教で、罪悪を自覚し、これを告白し悔い改めること」と広辞苑にありますが、一般的に懺悔とは、道徳規範に照らして自分の行為を反省することなのでしょう。しかし、念仏ではそうではなくて、"仏の眼"に映っている自分の心が全体として"見えている"ことを「懺悔」というのです。

 つまり、仏の側から見えるわたしの姿を見せていただくということです。わたしはわたしを見ることはできないが、不思議なことに、仏の眼をいただくことによって、仏から見えるわたしを見せていただくことができる。これを「智慧」といいます。ですから、「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して」とは、「愚禿鸞」の現実の、ありのままの姿が親鸞には見えたということです。よって、「悲しきかな」とは仏のお心であり、「恥ずべし、傷むべし」とは親鸞の心です。

 このように、仏のお心と親鸞の心はすでに一つになっていて、親鸞が自ら(機)を見るときは仏(法)の側にいて、仏(法)を仰ぐときは親鸞(機)の側にいるのです。これ「機法一体」といいます。仏のお心が親鸞の内面になった。主体が入れ替わった。だから、いつでも内面の仏と対話することができる。「人よく仏を念ずれば仏また憶したまふ」。これを「憶念」といいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-01 06:40 | 往生の生活 | Comments(0)

二種深信

  「二者深心」。「深心」と言うは、すなわちこれ深信の心なり。
  また二種あり。一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
  曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。
  二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、
  疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。

  (教行信証・信巻「観経疏」引用)


 二種深信は信心の内容です。救われないと知る智慧はわたしの中にはない。わたしの中にないのだから「回向」という。救われないと知ることが救われたことである。はっきりしている。わたしの本心はどこまでも「この心のままで」救われたい。それは無理だと二種深信が教えている。救われないのはわたしの心、救うのは仏の心。わたしの心は地獄行きと決まっている。わたしの心が成仏するのではない。仏の心が成仏する。ここがはっきりするのが二種深信。仏の心が成仏する。だから「必至滅度」という。仏が仏になるのだから間違いない。それゆえ「他力」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-28 06:17 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)

信心を捏造する

  二七、或る時一蓮院師を招きて、酒杯を傾けながら、仰せに。
  凡そ誰れでも我が心中をこしらえる事にかかりて居る故、
  其の心中は我がこしらえもの也。
  教える人も唯理屈ばかり教えて、心中を造ることに骨を折る也。
  信心と云うことは、聞其名号信心歓喜の八字を我が腹とするばかりじゃが、
  そう思う人の少ないのは、甚だ残念なり。
  一蓮院師曰く。ただ仏の力お一つで、助けて下さると信ずる外には、
  聞其名号のいわれはない、と聞いて居ります。
  師曰く。それでよし、それでよし。

  (香樹院語録)

  しかるに『経』に「聞」と言うは、
  衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。
  これを「聞」と曰うなり。
  「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。
  「歓喜」と言うは、身心の悦予の貌を形すなり。

  (教行信証・信巻 )

 凡そ誰れでも我が心中をこしらえる事にかかりて居る。教える人も唯理屈ばかり教えて、心中を造ることに骨を折る也。真(まこと)の心が獲られないのだから誰も違うとは言えない。仏法聴聞といいながら、教える側も聞く側も信心を捏造することばかりにかかわり果てている。信心は「本願力回向」だから向こう側から来る。

 いただくばかりだから、信心をいただく器を空にして待たなくてはならないのに、理屈で心がいっぱいになっている。空にならないから信心がいただけない。聞き方が根本的に間違っている。心の器を空にするのが仏法聴聞です。信仰は理屈ではなく事実に立つ。嘘は嘘。嘘から「歓喜」は生じない。理屈は嘘だから理屈の勉強はやめて、ただひたすら自分の心を見る。心の現実を知るのに勉強はいらない。日常生活すべてがあなたの心の現実を教えている。

 「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。仏さまはとうにあなたの心の現実を知っている。あなたが仏さまが知っているようにあなたの心の現実を知れば、あなたにかけられた仏さまのお心が知れるというものだ。これが疑心なし。事実を事実と受け入れる謙虚さが信仰の基礎になる。信仰は事実に立たなくては疑心が晴れるとはならない。捏造された理屈の信心では疑心も晴れず「歓喜」も生じない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-20 06:10 | 聴聞の実際 | Comments(0)

正定聚の位に住する

  一一 たとい我、仏を得んに、
  国の中の人天、定聚に住し必ず滅度に至らずんば、
  正覚を取らじ。

  (必至滅度の願)

  しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、
  往相回向の心行を獲れば、
  即の時に大乗正定聚の数に入るなり。
  正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。

  (教行信証・証巻)

  信心獲得した時に阿弥陀如来の他力の発願廻向というものを成就するものであるが故に、
  それ故に造りと造る悪業煩悩を残る所もなく消滅せしめて下さる。
  そういう謂れがあるから、信心決定の一念に現生に於て正定聚の位に住するのである。

  我々煩悩具足の者が仏のさとりを開いたということはない。
  しかしながらもう仏のさとりは目前にある。成仏は目の前にある。
  往生が始まっておるが故に成仏は目前にある。それを必至滅度と言う。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 我というものは心に執着するところに成り立っている。執着がなければ心はただ起きては消えているだけの現象にすぎないが、執着はそこに我を妄想する。我というものはない。それを経験するのが信心です。信心獲得とは心への執着を離れる一瞬の、それも一度限りの体験で、その時、無我に触れたのです。生きるとは執着だから、身体がある限り執着する。執着する力がなくなった時が死ぬ時だ。生きている限り無執着の無我にはならない。ならないが無我を経験しているので仏に成るということがどういうことかは解っている。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-18 06:26 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)

普賢の徳に遵うなり

  天親菩薩、論を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる。
  修多羅に依って真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。
  広く本願力の回向に由って、群生を度せんがために、一心を彰す。

  ①功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲。
  ②蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証せしむと。
  ③煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す、といえり。

  (正信偈・天親章)

  ①しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、
  至徳の風静かに衆禍の波転ず。すなわち無明の闇を破し、
  ②速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、③普賢の徳に遵うなり。
  知るべし、と。

  (教行信証・行巻)


 ここに「本願力回向」の三つの働きが整理されている。すなわち、①功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲。これは「往生」です。②蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証せしむ。これは「成仏」です。③煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す。これは「利他教化地」です。①②は「往相回向」、③は「還相回向」とわかりやすい。真宗の教義では①は現生(わたしの生前)、②③は順次生(わたしの死後)とされている。煩悩の身で「②成仏」したとは言わないからです。しかし、それはあくまで「わたし」を基準にしている。

 わたしの身体は物質で出来ているから生死があるが、不生不滅の仏心に生死はない。本願力は永遠の働きであるから「わたし」の生き死になどまったく関係がない。よって、「③利他教化地」(還相回向)が「わたし」の生前であるか死後であるかなど(わたしにとっては)まったく無意味です。もし、わたしの称えた念仏を聞いて救われる人がいたら、それはわたしに念仏を称えさせた仏のお仕事であり、わたしの手柄などではないからです。「②速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、③普賢の徳に遵うなり」。こういうことはとても尊いことであるが、わたしの経験することではない。わたしは救われる身で救う身ではない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-13 06:08 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)

  一七 たとい我、仏を得んに、
  十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、
  我が名を称せずんば、正覚を取らじ。

  (第十七願・諸仏称名の願)

  一八 たとい我、仏を得んに、
  十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、
  乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。
  唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。

  (第十八願・至心信楽の願)

  おおよそ誓願について、
  真実の行信あり、また方便の行信あり。
  その真実の行願は、諸仏称名の願なり。
  その真実の信願は、至心信楽の願なり。
  これすなわち選択本願の行信なり。  
  (教行信証・行巻)


  一人一人が称える念仏は第十八願の乃至十念の念仏であろう。
  その乃至十念の念仏は我等衆生の称えた念仏だから、
  その衆生が往生成仏することは勿論であるが、
  その行者が往生し成仏するのみならず、
  それがそのまま十七願の諸仏称名之願を成就する。
  諸仏称名之願の歴史的事実を成就して本願の教えがいつまでも滅亡しない。
  ただ教えが尊いから滅亡しないというのでなくして、
  その教えがまた衆生を教え衆生を育て衆生に信心を与え、
  信心から自ずから出づるところの念仏が自利利他する。
  その念仏が念仏の法・十七願の諸仏称名之願を完成していく。

  十七願あるが故に、我等は如来の本願の教えを聴聞し、
  また、お育てを受けて念仏を喜ぶような身に育って来、
  現生正定聚の位に住せしめて頂くのであるが、
  それに止まらずして教えを受けた人がそのまま善知識になる。
  自分は善知識だとは言わないが、無名の善知識。
  阿弥陀仏の本願の御法は、
  有名の善知識の力だけで無く無名の善知識の力になって来た。
  善知識は如来に等しい。如来に等しいから、如来と言うて差し支えない。
  諸仏如来の尊い精神を頂いておれば諸仏如来と等しい仕事が出来る。

  (津曲敦三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 十七願の諸仏が称える念仏を聞いて十八願の念仏が成就する。十八願の成就が有名無名の善知識をつくり、さらにまた、有名無名の諸仏が称える念仏を聞いて新しく念仏の行者が生みだされていく。無窮の救いの善循環です。救いの歴史をつくるのが南無阿弥陀仏です。色も形もない自然がこの世に南無阿弥陀仏となって現れ、人をつくり歴史となっていく。竹内先生は「命の鼓動」と言われた。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-10 06:13 | 真宗へのアプローチ | Comments(4)