仏の心を賜わるなり

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  一二二、仏のこころを知る者は、
  仏の心を賜わるなり。
  故に大悲の御心を聞かねばならぬ。

  (香樹院語録)

 煩悩がない悟りの境地を涅槃という。仏教ではそう教えているのに、真宗では「煩悩を断たずに涅槃を得る」という。悟るのではなく、信ずる心一つで、煩悩をもったまま悟りの境地である涅槃に入るというのです。こんなことはありえないことだが、実際に起こることだから「誓願不思議」という。

 仏の心を涅槃という。だから仏の心と感応道交すると涅槃に入る。煩悩の身をもって仏になることはないが、煩悩の身をもって涅槃に入ることはできる。自分の心より高次の心、仏の心の中に「摂取不捨」される。涅槃に入ると無我になる。無我になると仏の声が聞こえる。自分の心以外に仏の心があると知った。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-13 23:18 | 真宗の眼目 | Comments(0)

心をすてて

  一〇四、或る人申し上ぐるよう。
  心にしっかりと落ち付きとう御座ります、と。
  仰せに。それは自力のこころ。それすてて能く骨折って聞け。
  左様なれば、心をすてて、仰せに順いまするで御座りますか。
  仰せに。そうじゃ、そうじゃがそれは、我が力では順われぬ。

  (香樹院語録) 
 

 わたしの心は落ち着かない。あれやこれやととにかくうるさい。そんなことはわかりきっている。仏のお心は静かで平和だ。仏のお心を涅槃という。わたしの落ち着かない心が落ち着くのは死ぬときだから、落ち着かないわたしの心はそのままにしておいて、静かで平和な仏のお心の中に生まれようというのが真宗の修行です。正信偈に「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」と教えていただいている通りです。
 
 涅槃を(少分)経験させて涅槃を教え涅槃の完成を求めさせるのです。この涅槃の境地を「浄土」といい、迷いの心まるごとを摂取して涅槃の境地に入れてしまうのが弥陀の本願です。悟りの境地を自ら得たと思えば自力で、与えていただいたと思えば他力です。自力は悟っても悟った自分が残っているので、もう一つ他力のお助けがいるのでしょう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-11 12:53 | 真宗の眼目 | Comments(0)

  十四、大事な後生と知りながら大事にならぬは、
  この世の愛欲貪欲の手強さゆえと、聞けども聞けども地獄も恐しからず、
  極楽もとうとまれぬは、邪見の強き故なり。
  よくよく聞けば、疑いの晴れねばならぬ浄土往生に、
  疑いのはれかぬるは、自力執心の迷いの心が手強き故のことなり。
  是れが離れねば往生すべき身とはなられぬ。
  然れども、己が心にて、是れを離るることがならぬ故に、
  御成就の他力回向の大信心なり。

  (香樹院語録)

 本願の救いは「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ことです。心から出てくる思いを「煩悩」といいます。心になにか価値があるように思うことを「自力執心」といい、心から出てくる思いを「自分」だと思うから、思いを実現しようと努力する。思い通りになったら幸せで、思い通りにならなかったら不幸と、いたって単純です。心を「なくせ」と仏教は言わない。心を「離れろ」というのです。心に使われるな、心の主人になれと言うのです。

 心を離れて心を見る。心がつくる世界を出て、仏のさとりの境地(涅槃)に入る。このことを「不断煩悩得涅槃」とも「往生」ともいいます。煩悩の身のまま涅槃の境地に生まれさせようというのが「弥陀の本願」です。ちなみに、この法語には「離れられぬを離して下さる 」とタイトルされています。心を離れると心が見える。心が見えることを「光明」といいますが、自分の力で自分の心を離れることはできない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-08 23:15 | 真宗の眼目 | Comments(0)

涅槃の境地に到達する

  涅槃というからと言うて、命終わらなければ涅槃の境地が解らぬことはない。
  生きている中は無上涅槃ではない。有上涅槃というか。
  無上涅槃のさとりは開けぬが、或る程度の涅槃のさとりは得る。
  現生に於て涅槃という一種の境地を得る。
  つまり無生法認というのは涅槃を知る智慧であるから、
  無生法認の智慧が開けて来れば或る程度の涅槃の境地に到達することが出来るのであることを
  教えて下さるのが浄土真宗の教えである。

  涅槃の静かな心境は、生きてる中にそういう境地がいつも自分の心の中にあって、
  どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない。
  煩悩を断ぜずして涅槃を得という静かな何ものにも障えられない境地がある。
  それを現在の生活の上に経験することが出来る。
  それが仏からたすけられたということである。

  いつ死んでも成仏間違いないのは、現生に於て既に往生している、
  現生に於て既に浄土往生の生活を営んでおるものであるが故に、
  仏様でないけれども仏様と等しい生活を他力の不思議で与えて下された。
  そういうものであるが故に、
  いつ命が終わっても大般涅槃間違いない確信確証を握っておるものである。
  こういうのが浄土真宗の教えの本当の精神である。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 煩悩具足の身をもって悟りを開くことはできない。出来ないのであるが、誓願の不思議によって「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ことが出来る。すなわち、煩悩具足の身のまま悟りの境地(涅槃)に生まれさせようというのが弥陀の本願というものです。涅槃の境地を身をもって体験し、その体験を伝えてきたのが仏教の伝統です。量深師は「浄土真宗の教えの本当の精神である」と教えている。

 量深師の教えが尊いのは「現生に於て既に往生している」「現生に於て涅槃という一種の境地を得る」と教えてくれるからです。その具体的な中身を「どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない」と明らかにしています。念仏、聴聞に励んでいる人にとって目標となることでしょう。人生でなにを経験しようと永遠の時間である「涅槃の静かな心境」を経験することに勝るものはない。
 
 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-22 06:07 | 曽我量深師の教え | Comments(0)

たとへば千歳の闇室に

  たとへば千歳の闇室に、
  光もししばらく至れば、
  すなはち明朗なるがごとし。
  闇、あに室にあること千歳にして
  去らじといふことを得んや。

  (教行信証・信巻 「浄土論註」引用)


 例えば、映画のスクリーン。スクリーンに映っている世界は映写機が映している。映写機という自分の心が映したものをわれらはスクリーンという外に見ている。スクリーンを見るうちにスクリーンの中の世界が外界に実在すると錯誤する。錯誤した上、自分の心が映したものに執着する。元々"ない"ものを見て"ある"と執着するから「迷う」という。外に見ているのは内にあるものの影でしかない。さて、「千歳の闇室」とは自分の心のこと、「光至れば」とは自分の心が見える。自分で自分の心を見ることはできない。仏の我を見る眼をいただく。だから、自分の心が見えたら、それが「千歳の闇室に、光もししばらく至れば」です。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-20 07:29 | 真宗の眼目 | Comments(0)

涅槃を得るなり

e0361146_22151782.jpg  よく一念喜愛の心を発すれば、
  煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

  (正信偈)

  仏法では涅槃という。
  一人で居っても淋しくない、賑やかであるーそれを涅槃という。
  本当の一人の所に賑やかであるーそういうさとり(心境)が開ければ、
  いくら大勢居っても誰も自分の心境を妨げない。
  どんなに人に取り巻かれても自分の静かな心境を誰も妨げない。
  そういう心境を開いて下さる法を念仏という。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 「一人で居っても淋しくない、賑やかであるーそれを涅槃という」。こんな教えを聞いたことがあるだろうか。死んだ後のことではない。生きているうちに経験するのが涅槃である。煩悩の身を持って仏になることはできないが、煩悩の身を持ったまま仏のお心の中に生まれることはできる。それを往生という。悟るのではなく、信の一念に如来回向で悟りの境地が開けてくる。信の一念に摂取不捨、仏のお心の中に生まれる。それを「涅槃を得るなり」という。
 
 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-17 20:09 | 往生の生活 | Comments(0)

現生十種の益(続)

e0361146_07284065.jpg  五濁悪世の衆生の
  選択本願信ずれば
  不可称不可説不可思議の
  功徳は行者の身にみてり

  南無阿弥陀仏をとけるには
  衆善海水のごとくなり
  かの清浄の善身にえたり
  ひとしく衆生に回向せん

  (高僧和讃)

  金剛の真心を獲得すれば、
  横に五趣八難の道を超え、
  かならず現生に十種の益を獲。

  (教行信証・信巻)


 信心とは仏のお心をいただくことです。いただくとは仏のお心がわたしの内面に入って主体となってくださった。そのことを「功徳は行者の身にみてり」とも「かの清浄の善、身にえたり」ともいいます。この身に得た信心とはどのようなものか。その具体的な内容を親鸞は「十種の益を獲」と教えてくれている。これが「功徳」です。


 「五趣八難の道」とはわれらの現在の姿であり、現在を現在と知らせ、現在に安息して生きる道を開くのが現在を超えて現在を照らす光、すなわち「金剛の真心」です。現在を超越しているので「未来」といい、未来が現在を超えて現在しているのです。真宗は「二種回向」といいますが、「選択本願信ずれば」が往相で、「ひとしく衆生に回向せん」が還相です。仏のお育てで、わたしの手柄はありません。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-12 07:18 | 往生の生活 | Comments(0)

現生十種の益

  金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、
  かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。
  一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、
  四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、
  七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、
  十には正定聚に入る益なり。

  (教行信証・信巻)

 ①冥衆護持とは諸仏諸菩薩、天と地のすべての善神にいつも護られる。②至徳具足とは仏にそなわったこの上もなく尊い功徳がこの身にもそなわる。③転悪成善とは煩悩が悟りへと転ぜられる。④諸仏護念とはいつも諸仏に護られる。⑤諸仏称讃とは諸仏にほめたたえられる。⑥心光照護とはいつも智慧の光に照らされる。⑦心多歓喜とは心に喜びが多い。⑧知恩報徳とは如来のご恩を知りご恩に報いる。⑨常行大悲とは如来回向の智慧を人に伝える。⑩入正定聚とは仏になる身に定まる。

 真心とは真(まこと)の心。仏のお心のことです。仏のお心が凡夫の内面に入って主体となってくださる。それで仏のお徳が凡夫に具わる。それが「至徳具足」です。大きな心の中に自分があるのでいつも護られている感じがします。それが「冥衆護持」です。信心は智慧光ですから「心光常護」、いつも仏の方から自分が見えている。見えていることが救われるということです。

 中でも「転悪成善の益」がとくに大切です。煩悩が湧いても取り憑かずにいられるので煩悩がすぐ消えていきます。過去の業が無意識の底から黒く沸き上がってきて智慧の光に晒されて業が浄化されていく。この繰り返しが浄土の生活です。業が浄化されていくと心が軽く明るくなっていくので「心多歓喜」、仏のお心は利他の心ですから「常行大悲」の働きをします。仏へとお育ていただいているのだとわかります。それで最後にまとめとして「正定聚に入る益なり」といいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-11 06:12 | 往生の生活 | Comments(0)

念々称名常懺悔

  誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、
  愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、
  定聚の数に入ることを喜ばず、
  真証の証に近づくことを快しまざることを、
  恥ずべし、傷むべし、と。

  (教行信証・信巻 )

  念々に称名してつねに懺悔す
  人よく仏を念ずれば仏また憶したまふ
  凡聖あひ知り境あひ照らす
  すなはちこれ衆生増上縁なり

  (善導・般舟讃)


 善導大師の「般舟讃」に「念々称名常懺悔」という言葉がありますが、親鸞のこの述懐が「懺悔」です。真宗では「ざんげ」ではなく「さんげ」と読みます。懺悔(ざんげ)とは「キリスト教で、罪悪を自覚し、これを告白し悔い改めること」と広辞苑にありますが、一般的に懺悔とは、道徳規範に照らして自分の行為を反省することなのでしょう。しかし、念仏ではそうではなくて、"仏の眼"に映っている自分の心が全体として"見えている"ことを「懺悔」というのです。

 つまり、仏の側から見えるわたしの姿を見せていただくということです。わたしはわたしを見ることはできないが、不思議なことに、仏の眼をいただくことによって、仏から見えるわたしを見せていただくことができる。これを「智慧」といいます。ですから、「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して」とは、「愚禿鸞」の現実の、ありのままの姿が親鸞には見えたということです。よって、「悲しきかな」とは仏のお心であり、「恥ずべし、傷むべし」とは親鸞の心です。

 このように、仏のお心と親鸞の心はすでに一つになっていて、親鸞が自ら(機)を見るときは仏(法)の側にいて、仏(法)を仰ぐときは親鸞(機)の側にいるのです。これ「機法一体」といいます。仏のお心が親鸞の内面になった。主体が入れ替わった。だから、いつでも内面の仏と対話することができる。「人よく仏を念ずれば仏また憶したまふ」。これを「憶念」といいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-01 06:40 | 往生の生活 | Comments(0)

二種深信

  「二者深心」。「深心」と言うは、すなわちこれ深信の心なり。
  また二種あり。一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
  曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。
  二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、
  疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。

  (教行信証・信巻「観経疏」引用)


 二種深信は信心の内容です。救われないと知る智慧はわたしの中にはない。わたしの中にないのだから「回向」という。救われないと知ることが救われたことである。はっきりしている。わたしの本心はどこまでも「この心のままで」救われたい。それは無理だと二種深信が教えている。救われないのはわたしの心、救うのは仏の心。わたしの心は地獄行きと決まっている。わたしの心が成仏するのではない。仏の心が成仏する。ここがはっきりするのが二種深信。仏の心が成仏する。だから「必至滅度」という。仏が仏になるのだから間違いない。それゆえ「他力」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-28 06:17 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)