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前念命終・後念即生

  本願を信受するは、前念命終なり。
   「すなわち正定聚の数に入る」(論註)。
  即得往生は、後念即生なり。

  (愚禿鈔)

  普通“信の一念”“信の一念”というのは、前念命終である。
  つまり信の一念によって、私どもは、自分の一生涯の一大事を決定した。
  信の一念によって私どもは、わがすべきことは一切完了した。
  いくら生きておっても差し支えないが、
  しかし、信の一念をもって終っても、なんの後悔もない。
  満足して死ぬことができる。満足して死ねる一念である。
  後念即生ということは、信の一念と続いて、
  必然的に連続して後念即生である。
  信心決定したその時に後念即生である。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)


 「信の一念」とは信心を獲る一瞬の体験のことです。本当に一瞬のことですが、体験すれば誰にでもそれがそうだとわかる。わかるが、一瞬なのでその体験の微妙さを何度も何度も反芻して確かなものにしていかなくてはならない。それが信後の念仏です。信の一念は二度は起きないからです。針の先ほどの、お線香の明かり程度の、見たか見ないかも微妙なほどの光を思い返し思い返し念仏する信後の念仏です。先生の指導も受け、親鸞の書いたものを読みながら、信がより確かなものに、より深いものになっていくように念仏するのです。

 信を獲たときは「これで終わった」(前念命終)と感激するのであるが、数か月して興奮状態が収まると、「本当の聴聞が始まっただけだ」(後念即生)とわかる。ただ、信前と違うのは、お線香ほどの光でも光は光、光を見たという事実(確信)があることです。進むべき方向ははっきりしている。信の一念の内容は、心が見えたということ、心を離れるコツがわかったということ、わたしを見る仏のお心が伝わったということ、このような智慧を獲て、あらたな念仏の生活が始まったのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-29 00:03 | 宗教体験の事実 | Comments(0)

翻迷と蘇生

e0361146_10384148.jpg  本願を信受するは、前念命終なり。  
  「すなわち正定聚の数に入る」(論註)。
  即得往生は、後念即生なり。

  (愚禿鈔)


  「前念命終」を「翻迷」と言いたい。
  「後念即生」を「蘇生」と言いたい。
  「蘇生」(生に蘇る)の「生」とは何か。それは、

  「如来から与えられた行を生きている」ってことです。
  如来から与えられた行は私の行と同じものなんだけれども、
  しかし、その行をいつも今、貰うわけです。
  そこに、いつも、真実の仏になるべき因を与えてくださって、私を翻していく。
  その翻していくのは私にはできぬことです。
  そのできぬことを、そのまま如来から回向された。
  浄土に生まれるべき因と縁になっていく。有り難いことじゃないですか。
  自分に今生でできる行が、今、浄土に生まるべき行、浄土の行になっていく。

  それを私は「無生の生」と言ってもいいと思う。
  「無生の生」の「無生」は生滅を超えていますから、「翻迷」ということ。
  「無生の生」の「生」というのは、往生ですから、
  「そこに生まれる」「蘇生」ということです。
  野田明薫の言葉で言えば、
  迷いの世界から仏の世界に「戸籍が変わる」ということがある。

  (竹内維茂著「称名念仏の大悲」より)


 竹内先生のお名前は「仏からの道」(彌生書房 1984年)を読んで知っていましたから、練馬の真宗会館の案内に先生のお名前を見つけたのを縁にご自宅を訪ねたのは平成元年の十月でした。当時のわたしは単身赴任で東京に出ていて、たいした仕事もないことをいいことに東京の各所の聞法会に参加していました。

 師となれる人を探していたのです。そのまま先生の所で聞法生活が始まり、先生が亡くなる平成九年四月までの七年半、ご指導を受けました。「翻迷と蘇生」と題されたこの講話は先生が亡くなる前の月の彼岸会法要の時のものです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-07 21:59 | 宗教体験の事実 | Comments(2)