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仏が仏になる

  釈迦弥陀は慈悲の父母
  種種に善巧方便し
  われらが無上の信心を
  発起せしめたまいけり

  (高僧和讃)

 わたしがわたしの持物だと思っている肉体とわたしが"わたし"だと思っている心、それはちょうど、肉体という仏壇にわたしという"本尊"が安置されているようなものなのでしょう。肉体が滅んでも本尊である"わたし"は死なない。あるいは死後仏になると思っている。"わたし"が仏になるなんて思うから邪見驕慢というのです。死んだら"わたし"が成仏すると思う信仰を十九願という。肉体の一部である心は肉体の一部だから肉体の死とともに死ぬ。

 われらの心は死ぬ心である。死ぬ心が死なない心に出遇う。個々の肉体の生死に関係ない心を不生不滅の仏心といいます。一切衆生悉有仏性といって仏心はどの肉体にも産みつけられている。産みつけられてはいるが厚い煩悩に覆われて光が現れない。光を覆い光を遮っているのが"わたし"という無明煩悩です。仏心は信心の智慧となって現れ、不生不滅の仏心が身の滅とともに成仏する。仏が仏になるから必至滅度という。わたしが仏になるのではない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-28 11:53 | 三帖和讃を味わう | Comments(0)

e0361146_09203222.jpg  十方無量の諸仏の
  証誠護念のみことにて
  自力の大菩提心の
  かなわぬほどはしりぬべし

  三恒河沙の諸仏の
  出世のみもとにありしとき
  大菩提心おこせども
  自力かなわで流転せり

  (正像末和讃)

  煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。
  この条、もってのほかのことにそうろう。
  即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。
  六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。
  これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。
  来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。

  (歎異抄・第15章)

 自力の人は「観念成就のさとり」だから自分の頭で悟れると思っている。邪見驕慢だから自分の頭でわかりたい。自我意識が尖っているから自分が一番賢いと思っている。こういうのを自力というのでしょう。自力の人は歎異抄は読むが念仏はしない。頭でわかりたい人は一文不知にはなれない。学問して悟りが開けるなら学者はみな生き仏だ。しかしそうはならない。

 他力は悟らないのではない。頭でわかったようなものはやがて壊れてわからなくなる。それは悟りではないからだ。他力は仏から悟りの智慧をいただく。智慧が開く悟りの境地を仏の方から開いてくださる。自分の頭でこしらえた方便化土ではない。仏智不思議、人智を超えたところから届く悟りで、自分の頭で考えた悟りではないから「如来よりたまわりたる信心」(歎異抄・後序)という。


 人間の心を超えた高次の心に出会う体験を他力という。自分で開く悟りではないから、悟りは如来回向の信心の中に含まれている。悟らなくても悟りの境地(真実報土)を回向してくださる。それを「往生」という。「来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり」とあるように、煩悩具足の身をもって悟りを開くことはできないが、煩悩具足の身をもって今生に「往生」(信心決定)することはできる。煩悩具足の身のまま悟りの境地に生まれさせようというのが弥陀の本願です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-21 06:15 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

事実に立つ

e0361146_20460997.jpg  浄土真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし
  虚仮不実のわが身にて
  清浄の心もさらになし

  (正像末和讃)


 文意をわずかに窺えば、「尊いことに、浄土真実の教えに遇えばこそ、この身のどこにも真実の心などないと教えていただきました。世間を生きる身ゆえにそれらしくはしていますが、心の中の生活は浅ましくも惨めなものです。もとより仏になるための清浄心もありませんので、如来よりいただいた真心で往生させていただくのです」。そのようなお気持ちかと思います。これは懺悔です。

 親鸞は清々しくも「わが身の事実」に立っている。卑下でも嘆きでも反省でもない。ただ、ありのままの自分を受け入れ、この身を(仏からいただいた)仏のお心をもって悲しんでいるのです。ゆえに、すでに親鸞の心はわが身、わが心を離れて仏の位、浄土に立っている。この身を捨ててこそこの身の事実を受け入れる智慧が生じる。妄念妄想を離れて事実に立つ。事実を解釈して賢そうにしたりしない。事実をありのままに受け入れて不平不満がない。これを無分別とも一文不知ともいう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-18 20:41 | 三帖和讃を味わう | Comments(0)

機の深信

e0361146_10271998.jpg  弥陀成仏のこのかたは
  いまに十劫をへたまえり
  法身の光輪きわもなく
  世の盲冥をてらすなり

  (浄土和讃)

  我々は自分自身を知らぬ。
  自分自身を知ることが出来ぬ。
  外の方は一応知識を持つ。
  月の世界まで旅行することが出来るまで人間の知識は進んだが、
  自分自身を知る眼は全く閉じている。
  これは、阿弥陀如来の御光に照らされて
  自分自身というものを見るところの智慧を始めて与えてくださる。
  それを機の深信という。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 この命に寄り添い、この命を悲しみ、この命を最後まで見届けてくださる、仏さまのお心の中にわたしは生まれ死ぬことができる。わたしを悲しんでくださるお心がありがたい。どんな命の流転だったか。わたしはなにも知らないが、今もわたしを悲しんでくださるお心がうれしい。わたしは一人ではない。一人で生きていても一人ではない。

 仏さまとはどんなお方か。どこにおられるのか。どうすれば仏さまにお遇いすることができるか。求める人に伝えたい。あなたの心の中で仏さまに遇ってほしい。仏さまのおられる場所が浄土だから、あなたの心の中が浄土になる。闇の心に光が入って光の国になる。「機の深信」とは自分が信じられる。仏さまに信じられていたことがわかって自分が信じられる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-14 10:14 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

現生十種の益(続)

e0361146_07284065.jpg  五濁悪世の衆生の
  選択本願信ずれば
  不可称不可説不可思議の
  功徳は行者の身にみてり

  南無阿弥陀仏をとけるには
  衆善海水のごとくなり
  かの清浄の善身にえたり
  ひとしく衆生に回向せん

  (高僧和讃)

  金剛の真心を獲得すれば、
  横に五趣八難の道を超え、
  かならず現生に十種の益を獲。

  (教行信証・信巻)


 信心とは仏のお心をいただくことです。いただくとは仏のお心がわたしの内面に入って主体となってくださった。そのことを「功徳は行者の身にみてり」とも「かの清浄の善、身にえたり」ともいいます。この身に得た信心とはどのようなものか。その具体的な内容を親鸞は「十種の益を獲」と教えてくれている。これが「功徳」です。


 「五趣八難の道」とはわれらの現在の姿であり、現在を現在と知らせ、現在に安息して生きる道を開くのが現在を超えて現在を照らす光、すなわち「金剛の真心」です。現在を超越しているので「未来」といい、未来が現在を超えて現在しているのです。真宗は「二種回向」といいますが、「選択本願信ずれば」が往相で、「ひとしく衆生に回向せん」が還相です。仏のお育てで、わたしの手柄はありません。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-12 07:18 | 教行信証のこころ | Comments(0)

浄土は心の世界である

  弥陀智願の広海に
  凡夫善悪の心水も
  帰入しぬればすなわちに
  大悲心とぞ転ずなる

  ※「転ずる」の左訓
  悪の心、善となるを転ずるなりというなり。

  (正像末和讃)

  如来の回向南無阿弥陀仏によって自己を照らす眼を開かせて頂くのである。
  そうすると、そこに浄土が心の前に開ける。浄土は心の世界である。
  我等の心の無明を照らして下さるものである。
  心が自由に眼を開いて来るなら、煩悩が起っても煩悩の奴隷とならず、
  煩悩の悪を転じて如来の徳を行ずることが出来る。
  それが即ち浄土の生活というものである。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 境遇も世界も運命も信の前と後でなにも変わらない。それを受け止める心の方が変わる。それを量深師は「自己を照らす眼を開かせて頂く」と言っている。凡夫の眼が仏の眼になる。この意識の転換を「転ずる」といい、この「転ずる」を経験することが仏教のすべてと言っていい。「煩悩の悪を転じて如来の徳を行ずることが出来る。それが即ち浄土の生活というものである」。現実を超越した心の生活を「浄土」という。 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-07 00:36 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

信心のご利益

  無碍光の利益より
  威徳広大の信をえて
  かならず煩悩のこおりとけ
  すなわち菩提のみずとなる

  (高僧和讃)

  たとい我、仏を得んに、
  十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、
  我が光明を蒙りてその身に触れん者、
  身心柔軟にして、人天に超過せん。
  もし爾らずんば、正覚を取らじ。

  (三十三願・触光柔軟の願)

  身体があるから煩悩がある。
  煩悩具足であるが、その煩悩が起って来る傍から解ける。
  一方に起し一方に解ける。それが信心の御利益というもの。
  智慧の眼が開いて来ると頑なな煩悩を起こす身体の方も自ずと柔軟になる。
  心が柔軟になれば身体も柔軟になる。身体が柔軟になれば身体が健康になる。
  正定聚で何時死んでも極楽往生間違いない、
  そう思っているそんなつまらぬ正定聚は何でもないものだ。
  煩悩が解ける、そういう所に正定聚がある。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 信の一念に智慧をたまわる。智慧とは心が見える。見えるとは離れることだから、離れて心の影響を受けない。心を相手にしないでいられる。相手にしないから煩悩は静かになって、生じてもすぐに消える。このことを量深師は「起って来る傍から解ける」と言っている。解けるとは消えてなくなる。煩悩に実体はないから相手にしないと消えてなくなる。和讃には「かならず煩悩のこおりとけ、すなわち菩提のみずとなる」と、智慧の働きが讃えられている。このようにして煩悩が浄化され、心が明るくなっていく。仏へと育てられていく信心のご利益です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-05 06:00 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

願作仏心と度衆生心

  浄土の大菩提心は
  願作仏心をすすめしむ
  すなわち願作仏心を
  度衆生心となづけたり

  ※「願作仏心」の左訓
  他力の菩提心なり。
  極楽に生まれて仏とならんと願え、
  とすすめたまえるこころなり。

  弥陀の悲願を深く信じて仏にならんと願う心を
  菩提心と申すなり。

  (正像末和讃)

  願作仏の心はこれ 
  度衆生のこころなり 
  度衆生の心はこれ 
  利他真実の信心なり

  (高僧和讃)

 われらは心に湧いては消えるだけの感情や思いを自分だと思い込み、心に執着しては心にすっかり縛られ、心に牛馬の如く使役されてしまっているではないか。執着するものにわれらは必ず縛られる。心に執着した結果、心が見せる物があたかも外に実在するかのように思っては外なる物に完全に支配されてしまっている体たらくです。すべての人生苦はここから来る。人の一生は縁によって生きる姿は変わっても、どの人生も「わたし」という夢をみて終わるだけの一生です。仏教は「わたし」という悪夢から早く醒めよと教えている。

 執着がない「涅槃」とはどんな心境か、その心境をわずかに垣間見る体験を「信楽」といい、この体験のときに「願作仏心」をいただくので、仏になるのに間違いがない「不退転地」に入るといいます。和讃にいわく「すなわち願作仏心を度衆生心となづけたり」。願作仏心は(信楽体験によりいただいた)「利他真実の信心」であるから願作仏心はそのまま「度衆生心」となる。願力の自然で信心の人は必ず他に智慧を与える。利他は仏になる自利のお育てであるから、仏にならなければ利他できないということではない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-25 00:19 | 三帖和讃を味わう | Comments(2)

還相もまた"現在"にあり

  一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
  いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。

  (歎異抄・第五章)

  南無阿弥陀仏の回向の
  恩徳広大不思議にて
  往相回向の利益には
  還相回向に回入せり

  如来の回向に帰入して
  願作仏心をうるひとは
  自力の回向をすてはてて
  利益有情はきわもなし

  (正像末和讃)

  往相と還相と、往相は現在にあり、還相は未来にあるとー
  こういうふうにありまするけれども、そうしないと筋道がたたないものだから、
  還相を"未来"におくと、そういうのが『歎異抄』のお言葉でございます。
  けれども、『正像末和讃』をもって照らしてみるというと、
  還相もまた"現在"にありー如来の回向が本であります。
  如来の回向という方から見るというと、
  往相も還相もみな南無阿弥陀仏の中にあるのであって、
  そこに矛盾も撞着もないものであると、
  『正像末和讃』へ来まするとそういうふうに教えてある。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)


 教えがあっても救われた人がいなければ誰も救いを信じない。救われた人の喜ぶ姿にわれらは仏のお力を見るのである。救われて喜ぶことがわたしの「往相」であるなら、わたしの喜ぶ姿がそのまま誰かの「還相」となる。わたしが喜ぶのも、わたしが喜びを語りだすのも、いずれも仏の御はからいである。仏の御はからいだから往相も還相も"現在"である。弥陀仏は(現在を超えて)「現在」の仏だからである。わたしは(現在を超えて)「未来」の仏であるから、「この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」と言ったのである。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-24 06:12 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

歎異抄・第四章の読み方

  一 慈悲に①聖道・②浄土のかわりめあり。
  ①聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。
  しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。
  ②浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、
  大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
  ①今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、
  存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
  ②しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々

  (歎異抄・第四章)

  よしあしの文字をもしらぬひとはみな
  まことのこころなりけるを
  善悪の字しりがおは
  おおそらごとのかたちなり

  是非しらず邪正もわかぬ
  このみなり
  小慈小悲もなけれども
  名利に人師をこのむなり

  (正像末和讃)


 教行信証の後序に「竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり」とある。今生に悟りを開いて衆生済度するという聖道の理想は立派でも、末法の世にあっては、聖道の教えで悟りを開く者がいない。教えがあっても行証がないから、聖道の慈悲は「始終なし」。対して、浄土の教えは今生に念仏して順次生に仏になる。今生にこそ利他はできないが、順次生に仏になれば「大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益する」。必ず仏になるので、念仏は「すえとおりたる」大慈悲心である、と。

 さて、以上が第四章の文意ですが、第四章、第五章、第六章はいずれも利他の徳について述べられています。とくに、第四章が教えようとしているのは、われらは「救う」側か「救われる」側か、どちらに立つのかということです。自力聖道門は指導エリートのための教えであるから最初から「救う」側に立っている。しかし、親鸞は「弟子一人ももたずそうろう」(第六章)と言って、徹底して「救われる」側に身を置いた。聖道門くらいの悟りなら親鸞にもある。しかし、悟りの智慧を自分のものとはせず、智慧に照らされて見える救われない煩悩を自分だとした。「名利に人師をこのむなり」と懺悔する親鸞は決して「救う」側、指導する立場には立たなかったのです。

 よって、第四章の冒頭、「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」の「かわりめ」とはなにかと言えば、聖道門は「救う」側の教え、浄土門は「救われる」側の教えだということです。そのことを親鸞はここではっきりさせた。それが第四章の趣旨です。正像末和讃の最後の二首を上に掲げましたが、救う側には決して立たない親鸞の気持ちがはっきり表れています。浄土門の勃興という歴史を背景に、念仏が聖道の教えから独立して庶民の信仰になっていく精神的な土壌を親鸞が提供しているのです。われらはどこまでも煩悩具足の凡夫、救われる側にあることを忘れてはならない。
 
 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-22 06:32 | 歎異抄の領解 | Comments(0)