いやでも引きよせられる

  二七九、助かりたいと思う我等の心は疎なれども、
  助けたいの大悲の念力に引きよせられて、
  必ず必ず疑いは晴るるほどに。
  危げなく此世を暮し、御称名を励まっしやれ。

  (香樹院語録)  

 いま起きている"ありのまま"の事実を"如来"という。自分に不都合だからといって心が事実を受け入れられない。それを"疑い"という。事実を拒否することは如来を拒否する。だから苦しむ。どんな事実も誰かに都合よく、誰かに都合が悪い。事実はただ事実で"如"であるが心が"如"になれない。しかし、いま、ここで起きていることだけが"如来"であるから"あるがまま"になれと「大悲の念力に引きよせられて」、いつか事実を心に受け入れることができる。"あるがまま"を受け入れることを「疑いは晴るる」という。心の不都合を捨てて"無我"になることを"南無"といい、事実を事実と受け入れることでわれらは救われる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-19 06:21 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

我を思う仏の心

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  二八九、如何なる大悲の恵みで、
  私のようなものが聞く気になり願う心になったやらと思えば、
  よく思えば願いそうな聞きそうな心でもなきものが、
  かく聞く気になり願う心になったのは、全く如来の大悲の御力なり。
  日輪に如何なる御徳があるかは知らねども、
  安穏にして暮すはみな日の力なり。
  一切草木の葉一枚まで、みな日の力によらぬものなし。
  光明名号の御慈悲で御助けと信ぜられたは、
  我が胸より出でしにあらず、全く光明名号の力なり。

  (香樹院語録)
 

 この法語には「仏を思う心は我を思う仏の心の届かせられたる也 」と題がついている。仏さまに見つけていただいた。それ以来ずっと仏さまの視線の先にわたしがいる。仏のお心とともに寝起きする日暮しです。それがわたしの信仰で、どう生きてきたかなど大したことではない。この仏のお心が誰かに伝わればよいと思う。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-30 06:34 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

自分の心を観察する

  六九、江戸淺草御坊にて、安心のことに就き、
  僧侶より何れが正しきや正しからざるやを、
  御尋ね申し上げたれば、仰せに、
  褄の上り下りは、着物着た上のことじゃ。
  裸体の乞食に其の議論はないぞ。
  との御一言にて、みなみな感じまいらせぬ。

  (香樹院語録)

 信仰とは仏に遇う。仏とは自分が見えること。対象ではない。自分を映す鏡が仏。鏡は映すものを選ばない。映すものを歪めない。ありのままに映す。自分の顔は自分には見えないのだから、自分が見えたら見えたことが仏である。それ以外に仏はない。自分が見えないから迷う。自分が見えたら迷いようがない。見えるようにして救うのが仏のお慈悲である。だから、自分が見えたら、それが仏である。

 では、仏に遇うにはどうしたらいいか。「仏はわたしをどう見ておられるか」と、こればかり寝ても覚めても一日中これだけを考えて暮らす。聴聞すると知識や理屈が増えて困る。仏に遇うのに知識はまったく不用で、むしろ邪魔だ。それよりも、仏の視線の先の自分とはどんなものであるか。仏のお気持ちになって自分の心を観察することである。教義の勉強は信心をいただいてからする。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-01 23:51 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

涅槃の境地に到達する

  涅槃というからと言うて、命終わらなければ涅槃の境地が解らぬことはない。
  生きている中は無上涅槃ではない。有上涅槃というか。
  無上涅槃のさとりは開けぬが、或る程度の涅槃のさとりは得る。
  現生に於て涅槃という一種の境地を得る。
  つまり無生法認というのは涅槃を知る智慧であるから、
  無生法認の智慧が開けて来れば或る程度の涅槃の境地に到達することが出来るのであることを
  教えて下さるのが浄土真宗の教えである。

  涅槃の静かな心境は、生きてる中にそういう境地がいつも自分の心の中にあって、
  どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない。
  煩悩を断ぜずして涅槃を得という静かな何ものにも障えられない境地がある。
  それを現在の生活の上に経験することが出来る。
  それが仏からたすけられたということである。

  いつ死んでも成仏間違いないのは、現生に於て既に往生している、
  現生に於て既に浄土往生の生活を営んでおるものであるが故に、
  仏様でないけれども仏様と等しい生活を他力の不思議で与えて下された。
  そういうものであるが故に、
  いつ命が終わっても大般涅槃間違いない確信確証を握っておるものである。
  こういうのが浄土真宗の教えの本当の精神である。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 煩悩具足の身をもって悟りを開くことはできない。出来ないのであるが、誓願の不思議によって「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ことが出来る。すなわち、煩悩具足の身のまま悟りの境地(涅槃)に生まれさせようというのが弥陀の本願というものです。涅槃の境地を身をもって体験し、その体験を伝えてきたのが仏教の伝統です。量深師は「浄土真宗の教えの本当の精神である」と教えている。

 量深師の教えが尊いのは「現生に於て既に往生している」「現生に於て涅槃という一種の境地を得る」と教えてくれるからです。その具体的な中身を「どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない」と明らかにしています。念仏、聴聞に励んでいる人にとって目標となることでしょう。人生でなにを経験しようと永遠の時間である「涅槃の静かな心境」を経験することに勝るものはない。
 
 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-22 06:07 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

浄土は精神王国である

  浄土とは何ぞや、浄土は精神王国である。
  心が濁っているから物という実体があると思うている。
  これを無明という。
  心の修行安心の拠り処を失うて堕落して物質の奴隷になっている、
  それを迷いの娑婆世界という。
  自分の力では成仏出来ない者のために浄土を立てて
  往生の道を建てて下されたのが如来の本願である。
  往生以外におたすけはない。
  往生という所に新しい生活、精神生活を開いて下さる。
  それを仏恩報謝の生活という。
  因と果は同時にある。
  異時因果ではなく同時因果と理解すべきものである。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 「同時因果」とは現在と未来が同時である。信をいただいた現在に未来の浄土が開ける。現在を超えて現在するのが浄土である。だから娑婆は浄土ではないが娑婆を超えて娑婆を包んでいる。一方、「異時因果」とは現在に信心をいただくが往生は死後である。死後に浄土に生まれてから仏になる修行をする。現在にはなにもない。信の一念がない。なにもありがたくない。

 「おたすけ」とは信の一念に往生するから「おたすけ」という。往生するから成仏に間違いないとわかる。間違いないから心配がない。心配がないから成仏がもう問題にならない。「往生の道を建てて下されたのが如来の本願である」とわかるのは往生した証拠である。異時因果には証拠がない。証拠もなくて仏恩報謝と言っても意味がない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-08 10:11 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

仏との対話

e0361146_16295888.jpg  二三〇、仰せに。凡夫のこころは浄土参りの種にはならぬ。
  信決定の時凡夫の心を消して、如来さまの御心一つにして下される。

   (香樹院語録)

 人と生まれたことは苦悩である。あなただけでない、親も兄弟も、教師や仲間、親族、周りの者みな暗い心を内深くに隠して生きている。隠していることも知らずに苦悩している。だから、あなたの苦悩を最後まで聞きとげてくれる人はいない。聞けば聞いたことを利用するのが人である。あなたもそうするに違いない。この世の利害から自由な人などいないから、人ごとにあなたを利用する。あなたの苦悩を正しく受け入れ、最後まで聞きとげてくれるのは仏さまだけである。

 仏さまと一緒の生活が信仰である。仏さまはどこにおられるか。仏さまはあなたの心の奥底におられる。仏さまと心通じあい、対話できるように、あなたの心の奥底に降りていく。そのように信仰するのです。仏法聴聞に勉強は必要ない。知識もいらない。南無阿弥陀仏と称えて、自分の心を見せてくださいとお願いするのです。自分の心が見えたら、それが仏さまと心が通じたことです。仏さまと心が一つになった。悩みは人に聞いてもらうのではなく、仏さまに見ていただくのがよい。それが仏法聴聞、南無阿弥陀仏の生活です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-19 06:20 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

前念命終・後念即生

  本願を信受するは、前念命終なり。
   「すなわち正定聚の数に入る」(論註)。
  即得往生は、後念即生なり。

  (愚禿鈔)

  普通“信の一念”“信の一念”というのは、前念命終である。
  つまり信の一念によって、私どもは、自分の一生涯の一大事を決定した。
  信の一念によって私どもは、わがすべきことは一切完了した。
  いくら生きておっても差し支えないが、
  しかし、信の一念をもって終っても、なんの後悔もない。
  満足して死ぬことができる。満足して死ねる一念である。
  後念即生ということは、信の一念と続いて、
  必然的に連続して後念即生である。
  信心決定したその時に後念即生である。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)


 「信の一念」とは信心を獲る一瞬の体験のことです。本当に一瞬のことですが、体験すれば誰にでもそれがそうだとわかる。わかるが、一瞬なのでその体験の微妙さを何度も何度も反芻して確かなものにしていかなくてはならない。それが信後の念仏です。信の一念は二度は起きないからです。針の先ほどの、お線香の明かり程度の、見たか見ないかも微妙なほどの光を思い返し思い返し念仏する信後の念仏です。先生の指導も受け、親鸞の書いたものを読みながら、信がより確かなものに、より深いものになっていくように念仏するのです。

 信を獲たときは「これで終わった」(前念命終)と感激するのであるが、数か月して興奮状態が収まると、「本当の聴聞が始まっただけだ」(後念即生)とわかる。ただ、信前と違うのは、お線香ほどの光でも光は光、光を見たという事実(確信)があることです。進むべき方向ははっきりしている。信の一念の内容は、心が見えたということ、心を離れるコツがわかったということ、わたしを見る仏のお心が伝わったということ、このような智慧を獲て、あらたな念仏の生活が始まったのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-29 00:03 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

竹内先生の思い出

  はじめまして、****と申します。
  現在、定年退職して、九州の***に在る「**寺」というお寺で、
  寺男の一人として生活している者です。
  ことの始まりは、貴殿のウエブサイト「ZENKYU」を拝見したことに始まります。

  この国の基をつくられた聖徳太子の言葉「世間虚仮 唯仏是真」について勉強している時に、
  貴殿のサイトに出会いました。

  その中で、貴殿が師と仰がれている方が、
  竹内維茂先生、浄土真宗 崇信教会 東松山市とあったからです。
  実は、私は五十四年前、崇信教会に高等学校、大学を通して学生7人で数年間お世話になり、
  竹内維茂先生からはいろいろ教えを頂きました。
  思い出深い学生生活でした。

   (中略)

  貴殿のことは、竹内定ご住職の話で、
  二十年以上前、*****出版社勤務されている時に、
  編集の仕事に悩んで、突然、崇信教会に来られたと聞きました。
  その貴殿が、一人でも多くの方がお念佛を申されるようにとの願いを以って、
  一角を照らす者として、御活動されていることに、大変、共鳴いたしました。
  大変ありがとうございました。

   **** 合掌

   平成二十六年八月十七日


 人が悩むというのは“問い”をもつことだろうと思う。どのような問いか。それは「わたしはなぜ生まれてきたのか」という根本的な問いです。このような問いは生きるための技術しか知らない世間の人にはとうてい答えられない問いで、仏法だけが答えられるものです。

 このような問いをもった者に対して真摯に向き合える人は世間に多くはいない。自ら問いをもったことのない者は言うに及ばず、問いをもっていても自らがまだ闇の中にいては他に光明を示すことができないからです。同じ問いをもった者として真摯な態度で向き合ってくれた人、それが竹内先生でした。ただ一人の人です。

 南無阿弥陀仏

  
  仏教ブログ〈聞其名号信心歓喜乃至一念〉
  2014年10月1日付けの記事「竹内維茂先生のこと」よりの再録です。
  竹内先生を知っている方からお便りをいただいのはこの方だけです。
  大切なお便りですので、ここに再録しました。


by zenkyu3 | 2016-12-27 20:17 | このブログのこと | Comments(0)

死の不安

e0361146_20375696.jpg  おのおの十余か国のさかいをこえて、
  身命をかえりみずして、
  たずねきたらしめたまう御こころざし、
  ひとえに往生極楽のみちを問いきかんがためなり。

  (歎異抄・第2章)

 わたしたちが本当に知りたいこと、心の底から本当に知りたいと願っているのは「なぜ、生まれてきたのか」ということです。人間だけがこの問いを持つ。六道輪廻して、ようやく人間に生まれたのも前世に宿題を残していたからです。このたびの生で再びこの問いに答えがなかったら、死に臨んで、やるべきことをし残したと、取り返しのつかない後悔を残す。この後悔が成仏を妨げる。わたしたちが死に臨んで死を恐れるのは、やるべきことをやらなかった人生だったことを思い出すからです。身命にかえても聞きとげなくてはならないことがある。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-24 07:33 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

そこに在す

  「私が仏さまを信ずる」というより、
  「仏さまに信ぜられている」ということが仏さまを信じるということである。
  仏さまに信ぜられておると、
  こういうことを感ずるのがそれが本当に仏さまを信ずるということ、
  それを信心という。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)


 小学二三年の頃、山の中で、わたしを呼ぶ声を聞いた。ハッとして遠くを見上げた。母のような声だったが母の声ではないことはすぐわかった。なにも音のしない孤独の中で、わたしを呼んでいた。悲しまなくてよい、お前のことを見ているぞ。その声はそう言っているように聞こえた。一人ではないと思った。その後、そのことは長く忘れていたが、二十歳を過ぎた頃か、あるいはもっと後かは思い出せないが、その光景を絵のように思い出した。

 寂しくなると、わたしは一人ではないと思い出す。いつもわたしを見ているなにかを感じる。わたしは一人ではないと思う。小学生の頃のこの体験がわたしの信仰の原風景だと思っている。それは疑いようのない臨在感であり、わたしを超えて、わたしの世界である。あえて仏とは呼ばないが、そこに在す。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-11-30 07:30 | 曽我量深師の言葉 | Comments(2)