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真心徹到して

信巻・観経疏(7) 113

 (序分義)また云わく、真心徹到して、苦の娑婆を厭い、楽の無為を欣いて、永く常楽に帰すべし。ただし無為の境、軽爾としてすなわち階うべからず。苦悩の娑婆、輙然として離るることを得るに由なし。金剛の志を発すにあらずよりは、永く生死の元を絶たんや。もし親り慈尊に従いたてまつらずは、何ぞよくこの永き歎きを勉れん、と。(真宗聖典235ページ)

 和讃にいわく、真心徹到するひとは 金剛心なりければ 三品の懺悔するひとと ひとしと宗師はのたまえり、と。真心とは仏のお心です。徹到とは仏のお心がわたしに届いた。わたしは救われたい。仏は救いたい。二つの心が通じ合う。仏のお心とわたしの心が通じあった。聞けば必ず聞こえる。聞こえないのは聞こうとしないからだ。仏はなんとしても救いたい。しかし、自分の心を省みて恥じる思いのない人は、そもそも法を聞く理由がない。聞く理由がないのだから、仏といえど聞かすことが出来ない。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2023-09-15 05:35 | 教行信証のこころ | Comments(0)

信巻・観経疏(6) 112

 『観経義』(玄義分)に、道俗時衆等、おのおの無上心を発せども、生死ははなはだ厭いがたく、仏法また欣いがたし。共に金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。正しく金剛心を受け、一念に相応して後、果、涅槃を得ん者と云えり。(真宗聖典235ページ)

 わたしたちは煩悩の生活にすっかり慣れ、愛欲に溺れ、名利に縛られた生活を生きがいにしている。求めた通りでないと言って、いつも不平、不満を内に抱いているが、煩悩の生活を捨てる気など鼻からない。得られないことで、さらに貪欲を強くする。求める気持ちが足りないから欲しいものが得られないのだと考えるからです。これを、生死ははなはだ厭いがたく、仏法また欣いがたし、という。人生で少しばかり辛いことがあって、それを受け入れられないのは、なんでも思い通りになるという思い上がりがあるからです。その根っこにあるのは、思いは自分である、という間違った認識です。これを仏教では無明という。思いを実現するためにする努力と、その成果を喜ぶことこそが人生であると、誰もが疑いなく信じている。生死ははなはだ厭いがたし。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2023-09-14 05:33 | 教行信証のこころ | Comments(0)

悪人成仏

歎異抄・第三条(3) 32

 煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。(真宗聖典627ページ)

 正信偈にいわく、如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり。五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。凡聖、逆謗、ひとしく回入すれば、衆水、海に入りて一味なるがごとし、と。釈尊は弥陀の本願を説くためにこの世に出現なされた。弥陀の本願とは不断煩悩得涅槃です。煩悩は身体に具わった本能だからなくすことは出来ない。なくすことが出来ないものをなくそうとしても意味はない。だから、本願他力は始めから煩悩には手をつけない。そのまま離れる。相手にしない、相手にしなければ煩悩の賊も静かになる。煩悩はそのままにして煩悩を離れる。それを不断煩悩得涅槃という。離れることを得涅槃という。では、どうやって煩悩を離れるか。ただ信心を要とすとしるべし。わたしの心への執着を捨て、仏のお心一つと心定まる一瞬に、仏のお心に摂取され、わたしの心から離れるということが起こる。これを信楽という。凡聖、逆謗、ひとしく回入すれば、衆水、海に入りて一味なるがごとし。浄土に往生し、本願力に育てられながら、最後はみな同じ無上涅槃の悟りを開く。心を離れ、心の影響をまったく受けなくなるので、この境地に至ることを往生安楽国という。法然はこれを、他力には義なきを義とす、と言った。善及

 南無阿弥陀仏
# by zenkyu3 | 2023-09-13 05:02 | 歎異抄を読む | Comments(0)

心への執着

歎異抄・第三条(2) 31

 この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。(真宗聖典627ページ)

 わたしの心をよくして仏になろうと願う人は心の善悪にこだわる。心の善悪にこだわるのが倫理、道徳の道だから、自力作善の人は必ず努力して修行、学問をする。しかし、わたしの心を捨て、如来よりたまわりたる信心、すなわち仏のお心をいただいて仏になろうと願う本願他力の悪人は心の善悪などに構わない。わたしの心に仏となる種がないと知ったからです。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに。本願他力の悪人は修行もしないし学問もしない。ただ信心を要とすとしるべし。わたしにかけられた仏のお心を聞くばかりです。仏のお心に摂取して、心への執着を離れさせる。これが弥陀の本願だから、わたしの心をたのむ自力作善の善人も、わたしの心への執着を捨て、仏のお心一つと心定まれば瞬時に信楽を得て、みな仏になる。不思議なことに、信の一念に、わたしの心が仏のお心へ転ずるのです。これを信楽という。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2023-09-12 05:57 | 歎異抄を読む | Comments(0)