後生願わぬ四因

  五五、後生に心のふり向かぬは、
  四の因縁ありと仏説きたまえり。
  一には、放逸の故に。
  二には、大地獄あることを信ぜざるが故に。
  三には、業異熟を知らざるが故に。
  四には、まさに死すべき事を知らざるが故に。

  (香樹院語録)  

 誰しも死んだ後が心配だ。なぜ生まれて来たかがわからないから人生に満足して死んで行けない。われらは過去世も未来世もわからないと思っているがそうではない。現在の自分のありさまを見ればどんな過去世であったかはわかる。同じように、いましていることがそのまま未来である。とても仏になるような所業ではない。現在の自分のありさまに自信がないから心の深い所で未来を恐れている。その恐れが地獄となるのである。「後生に心のふり向かぬ」のは内心深く死後を恐れているから見ようとしないだけである。

 われらは死後の恐れを心底に深く隠すためになにをしているか。一つは「放逸」、欲望の満足だけが人生だと決めてしまう。二つは「大地獄あることを信ぜざる」、自分の心の中の底なしの闇を見ないようにする。三つは「業異熟を知らざる」、因果応報ということを忘れて犯した罪を考えない。四つは「まさに死すべき事を知らざる」、いつまでも死なないかのように生きる。しかし、いくら死から逃げ回っても誰しも臨終を前にする。その時になって後悔しても遅い。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-06 06:35 | 香樹院語録を読む | Comments(7)

一念往生

  二三九、仰せに、臨終ほど大切なることはなし。
  人間世界の人、みな極月晦日のみに苦しむ。仏法また然り。
  然るに、我祖一人、その臨終のことは、心にかけるなとのたまう。
  みなみな味うべし。
  或人問うて云はく、平生業成の心にて候か。
  秀存師曰く、一念往生の心にて候か。
  師曰く、然り。

  (香樹院語録) 

 人生の終わりに、われらは人生の総決算を迫られる。死ぬにあたって「生まれてきたことの理由がわかったか」と問われるのです。生まれてきた理由がわかればこそ、やるべきことをやり終えた人生だったと満足して死んで行ける。「我祖一人、その臨終のことは、心にかけるなとのたまう」。親鸞の仰せは、死に臨んで「生まれてきた理由」を考えなくてはならないようではもう遅い。いまが臨終の思いで「生まれてきた理由」をはっきりさせなくてはならないというのです。信の一念にそれがわかる。だから、いつ死んでも往生する。臨終を待つことなし。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-05 06:35 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

極楽は近うなったか

  九五、仰られ候。極楽は近うなったか。
  今日か明日かと云うようになったか。
  何はまちがうても、
  御浄土参りばかりは、間違うてはならぬ。
  おれは、こうして居るが後生三昧。
  後生三昧で居るけれども、
  此世の事を未来の事と比べて見ると、
  此世が重くなり未来がかるくなって、どうもならぬ。
  いわんや、在家のものは骨折りて聴聞せよ、
  よいかげんの処へいかぬ、と仰せあり。

  (香樹院語録)

 わたしが生まれたと思うからわたしが死ぬのである。身から離れた心を大切に思うから心に苦しめられるのである。ないものをあると主張して、ないもののために生きるは穢れである。ないものはわたしである。そんな穢れを浄化するのが涅槃である。諸行は無常で涅槃である。諸法も無我で涅槃である。涅槃は寂静で、永遠の静けさである。われらにとってわかりやすい涅槃は死である。生の帰するところの死は静寂であり、安息であり、美である。すなわち極楽浄土である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-04 06:34 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

地獄きらいの地獄ずき

  一三一、地獄きらいの地獄ずき、
  極楽ずきの極楽ぎらいと云うことあり。
  極楽は好めども、参る心なくば其の実極楽ぎらい也。
  地獄は嫌えども、毎日地獄え堕つる業を作って居るが、
  即ち地獄ずきなり。
  是が極楽に生ぜずに、嫌いな地獄え堕つるなり。

  (香樹院語録)

 われらは常に現在に立つ。心の表層の意識としては常に現在しか知らないが、現在は現在だけで成り立っているのではない。現在はただの偶然ではなく、現在は過去の結果としての現在であり、未来の原因としての現在である。心の深層には過去の業が蓄積されていて、無明という形でわれらの現在を支配している。
 
 われらは現在を知っているように錯覚しているが針の穴から覗く程度の現在である。しかも、なにをしているかといえば、愛欲と名利に縛られ愛欲と名利を喜ぶしか知らない一生である。現在を見れば過去の業がわかる。また現在の業が未来を開くのである。現在を見れば未来がわかる。いまやっていることが未来である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-03 06:31 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

他人の称讃は身を毒す

  一五五、天台宗の章安大師は、
  甘く譚うを悪知識というと云われたり。
  我が好むこと云うてくれる人には、つとめて用心せよ。
  嫌いな食物に向うて、食い過ごそうかと云う心配はなし。
  『詩経』には「盜言転た甘し」とあり。
  凡夫と云うものは、我が身ひいきののかぬもの也。
  よくよく考うべし。

  (香樹院語録)

 褒めあって互いを気持ちよくさせようというのが人間交際の巧な手管である。人はみな「我が好むこと云うてくれる人」に簡単にだまされる。自分だけが可愛いい人間が人を褒めるなど裏があると知るべきである。褒めて人をだます人ほど褒め言葉に簡単にだまされる。称賛は酒のように人を気持ちよくさせ、称賛の酒で多くは身を持ち崩すのである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-02 06:51 | 香樹院語録を読む | Comments(0)