心が明かになりませぬ

  一五四、一蓮院師、師の御前に参られて。
  香樹院さん。御聖教の御文には明信仏智とありまして、
  心が明かになるように伺われますが、
  私の腹には明かになりませぬ、と申し上げらる。
  師の曰く。そうじゃでそうじゃで、
  お前余所を聞きあるかずに、宅で御念仏申して居なされ。
  右、越後の貞信、ものごしに聞きまいらせしと申されき。

  (香樹院語録)  
 

 本当のことが知りたい。きっと本当のことを知っている人がいるに違いない。本当のことがわかったら、そこで人生が終わって構わない。香樹院師、一蓮院師といった人は、それだけの理由で生きていたに違いない。本当のことが知りたかったら、わしの所に本当があるぞというのでしょう。本当のことを聞かせる方もすごいが、本当のことを聞ける方もすごい。「私の腹には明かになりませぬ」と一蓮院師の訴えを聞いて「そうじゃでそうじゃで」と香樹院師が喜んだ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-05-08 19:53 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

香山院師の述懐

  二一七、香山院龍温師いはく。
  予、香樹院師の社中に入り、
  しばしば自督の安心を述べて師に御糺を乞いたれども
  師一同に印可したまはず。
  再三再四に及びたるに師の曰く、
  貴公の言葉もっともなり、
  されども貴公の心には、まだまだ印可が出来ぬ、と。
  予もそれより和上の法語は云うも更なり、
  一巻の御聖教を拝見するにも、
  自身往生の大事と云うことを忘れざりしかば、
  遂に明かに仏智を信じ
  光明の中に住ませて頂くの思いをなすに至れり、と。

  (香樹院語録) 

 師の印可が欲しいのは信をいただいていないからです。信心は如来回向だから、いただいたことが仏の証明です。仏の証明だから「これは信だろうか」とはならない。「これは信だろうか」とはまだ仏を疑っている。龍温師曰く「光明の中に住ませて頂くの思いをなすに至れり」と。摂取不捨の体験です。いまさら師の印可などいらない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-05-07 19:40 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  一五〇、邪見と云うは、御教化あれども、
  其の道のほかに我が見識を立つるを云う。
  よく思うて見れば、其の善知識の
  仰せの如く思われぬものを本とするゆえに、
  心の底へ聞こえぬなり。
  思えても思われいでも、
  善知識の御化導は決定して真実なり。
  これを離れては地獄一定なり。

  (香樹院語録) 

 わが見識を立てることを邪見という。仏法に見識などいらない。信心は頭ではわからない。いくら勉強しても信心はわからない。仏のお心と心が通じ合うのに勉強はいらない。信心の人、善知識は仏のお心と心が通じているので、本当に信心が分かりたければ善知識を探す。信心は人から人へと伝わるものだからです。弟子は師の人格から仏のお心を感じることができる。そのために仏は信心の人をつくる。善知識はわれらにとっては人格をもった仏、還相の菩薩です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-05-06 21:30 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

大邪見なり

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  九三、吾々が身体と生命とは、
  時々剋々に未来未来と行くなれども、
  心一つは死なぬ死なぬと思う。
  大邪見なり。

  (香樹院語録) 

 「わたし」という意識は老化しない。「わたし」ができて以来「わたし」は完全な同一性を維持している。「わたし」が「わたし」以外の者になったことはない。それは「わたし」が観念だからだ。観念は老化しないから「わたし」は死なないと妄想する。いわゆる「不滅の霊魂」を妄想する。心意識は体の一部、体がなければ心意識もない。当然である。この不滅の霊魂が流転輪廻すると心配する。大邪見である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-05-05 06:44 | 香樹院語録を読む | Comments(0)