世間や他人の評価

  しかれば本願を信ぜんには、
  他の善も要にあらず、
  念仏にまさるべき善なきがゆえに。
  悪をもおそるべからず、
  弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえに。


  (歎異抄・第一章)


 わたしたちは生まれた時から親や他人の評価にさらされて生きてきた。だから、大人になった今も、周りの評価にビクビクしながら生きている。世間や他人の評価から自由になれないのです。一方、「しかれば本願を信ぜんには」、正しい信仰を持った人は世間の評価を気にしない。「悪をもおそるべからず」の「悪」とは、世間から受ける「悪い評価」のことです。

 軽蔑、無視、非難、ときに糾弾、懲罰。犯罪者として裁かれることもあるかも知れない。しかし、親鸞は、世間から悪い評価を受けても気にならないと言っている。なぜなら、「弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえに」。世間の評価より仏のお慈悲が嬉しいのです。世間の「よい評価」で、誰もが欲しがる金や地位や名誉もいらない。「念仏にまさるべき善なきがゆえに」。

 信仰とはこういうことなのでしょう。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(後序)と親鸞は言いましたが、世間と人の心にまったく価値を置いていないことがわかります。仏のお心を知ってしまったからです。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2016-11-24 08:24 | 歎異抄の領解 | Comments(2)

自然法爾章

  自然というは、もとよりしからしむるということばなり。
  弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、
  南無阿弥陀仏とたのませたまいて、
  むかえんとはからわせたまいたるによりて、
  行者のよからんともあしからんともおもわぬを、
  自然とはもうすぞとききてそうろう。

  ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。

  無上仏ともうすは、かたちもなくまします。
  かたちもましませぬゆえに、自然とはもうすなり。
  かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。

  かたちもましまさぬやうをしらせんとて、
  はじめに弥陀仏ともうすとぞききならひてそうろう。
  弥陀仏は、自然のようをしらせんりょうなり。

  (自然法爾章)


 正嘉二(1258)年十二月十四日、親鸞八十六歳のときの文書で「自然法爾章」と呼ばれています。関東から上京した弟子の顕智が三条富小路の坊にて、いくつかの疑問点について尋ね、それに答えた親鸞の言葉を顕智が聞き書きしたものです。自然法爾章には「仏とはなにか」が書いてある。すなわち、「南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたる」(仏のお心の中に生まれさせて、無上仏へと育て上げる)自然の働き、それを「弥陀仏」と呼ぶのだというのです。

 凡夫を仏にする働きは「かたちもましませぬゆえに」目に見えないが、働きを経験し救われた経験を持つ信心の人には、それがどんな働きなのかがわかる。その働きを経験したお釈迦さまは救いの働きを人類に示して「弥陀仏」と呼ばれたのです。救いの働きは、それと知らなくてもみなに平等に働いていて、その働きを信じて乗託すれば、働きが働き出す。それが必然だから「しからしむる」という。よって、弥陀仏はただの観念ではなく、経験可能な働きだと明らかにしているのが「自然法爾章」なのです。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2016-11-23 08:12 | 三帖和讃を味わう | Comments(2)

信仰の根底にあるもの

  無碍光如来の名号と
  かの光明智相とは
  無明長夜の闇を破し
  衆生の志願をみてたまう

  (高僧和讃)


 わたしたちの心の根っこ、命の根っこにある「衆生の志願」とは、突き詰めれば「死にたくない」ということなのでしょう。金や地位や名誉、家族が欲しいのは命に執着しているのです。命はみな、もっと生きていたい。死にたくないと願っている。わたしたちは、普段は死を考えないようにしているが、心の根っこにはいつも死があり、いざ、死が目前の現実ともなれば誰もが命にしがみつく。死を恐れる。死にたくない。もっと生きたい。

 よって、「衆生の志願」が満たされるというのは「不死」(永遠の命)を得るということです。どのように「不死」を得るかといえば、仏(無我)を経験して「不死」を得る。仏への疑いが晴れると、生まれたり死んだりする「わたし」がないと知る。これを「不死」(永遠の命)を得るというのです。「わたし」がなければ、すべてが仏。無我を経験すればみな仏(永遠の命)となる。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2016-11-21 21:39 | 三帖和讃を味わう | Comments(0)

仏の心に出会うまで

  弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
  往生をばとぐるなりと信じて
  念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
  すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

  (歎異抄・第一章)


 ある時、竹内先生に失礼をも顧みず、こんなことをお聞きました。「先生の宗教体験とはどんなものだったですか」と。一瞬、びっくりしたような表情をされましたが、すぐに「仏に背中から抱かれたような感じを経験した」という答えが返ってきました。「あたりにいい香りもした」とも言いました。竹内先生がご会座で自らの宗教体験を語ることはなかったと思いますが、そもそも、このようなことは人にも聞かれないし、聞かれないから人にも話さないということなのでしょう。

 しかし、当時のわたしは、自分が経験したことがなんだったのか、誰かに説明してほしいと思い続けていました。わたし自身の宗教体験については「仏の心と出会う」という文章にまとめたことがあります。興味のある方は読んでください。


  仏教ブログ〈聞其名号信心歓喜乃至一念〉
  仏の心に出会うまで

 この体験から“仏前”でのわたしの聞法が始まりました。いつも、この宗教体験に立ち返り、信心を確かめながら、仏典も読み、文章も書いています。さて、歎異抄の第一章は親鸞の言葉ですが、真宗では宗教体験の事実を「摂取不捨」と教えています。仏のお心の中に生まれて、仏の方から自分の心が見えるようになります。この「摂取不捨」の体験を得させたくて善知識はご苦労されるのです。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2016-11-19 19:37 | このブログのこと | Comments(2)

未来は明るいか

  死の事実というのは、自分自身の最も根源の事実であって、
  体験も出来なければ、経験することも出来ない。
  「私は死んだ」という言葉は決してどんな人間にも吐けない事実なのです。
  しかし、その死の事実においては、偽り諂いということは一切通らないのです。
  自分を弁護することも、自分を正当化することも、
  自分の言い訳や粉飾も一切成り立たない。そういう事実がある。
  これが根源にある事実なのです。

  (平成元年九月三日・第一例会の法話より)


 竹内先生はお弟子たちに「死の事実に立て」とよく言われた。高齢者を前にしても「死」という言葉を使うことに躊躇はない。「人は必ず死ぬから」などという軽い言葉ではない。死の事実から目をそむけるなというのです。あなたが生きる支えにしているもの、それがたとえなんであれ、すべてを無意味にするのが「死の事実」です。

 現に、死を前にした人に慰めの言葉はない。未来がないからです。未来がないから「死」という。だから、竹内先生は「未来は明るいか」ともよく言われた。未来が確かでないから、あなたの現在は暗い。暗いけれども闇の中にいるから、闇の中とも気づかない。闇とも気づかないから闇というと、これも竹内先生が教えてくれたことです。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2016-11-18 19:51 | 竹内維茂先生の言葉 | Comments(2)