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仏の悟りの仮免許

歎異抄・第十五条(1) 52

 一 煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそうろう。即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。(真宗聖典636ページ)
 
 わたしは煩悩の身を纏った仏です。心はすでに仏に等しい。だから、煩悩の身を捨てれば、そのまま仏になる。このような自覚を持った真実信心の人を等正覚の位と言います。仏の一歩手前、等正覚の高みに至ったとはいえ、母の背に負われて山を登ってきた赤子のようなもので、母の背で頂上からの景色を眺めただけで、自分の力で登ったわけではない。わたしは赤子で母ではないように、他力では、わたしが仏になった、とは言わないのです。さて、本文にいわく、煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそうろう、と。このような主張をする人は仏道とはなにかを知らない。十八願の信楽は、心は離れられると知った。涅槃を垣間見たので悟りの仮免許をもらった。ただし、涅槃を知っただけで、まだ涅槃が身についていない。すぐに心に巻き込まれる。仮免許で仏道という車道は走れるが、心という車の運転はまだまだ危なっかしい。信楽で経験した涅槃、心から離れていることが身につけば、やがて無上涅槃を悟って本免許がもらえる。これが仏道です。煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらく、という主張をする異義者は、そもそも仏道とはなにかがわかっていない。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2023-10-21 05:33 | 歎異抄を読む | Comments(4)

これを胎生という

教行信証・化身土巻(4) 139

 (大経)その時に慈氏菩薩、仏に白して言さく、世尊、何の因・何の縁あってか、かの国の人民、胎生・化生なる、と。仏、慈氏に告げたまわく、もし衆生ありて、疑惑心をもってもろもろの功徳を修して、かの国に生まれんと願ぜん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかもなお罪福を信じて、善本を修習して、その国に生まれんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まれて、寿五百歳、常に仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず。このゆえにかの国土にはこれを胎生という。乃至 弥勒、当に知るべし。かの化生の者は智慧勝れたるがゆえに。その胎生の者は、みな智慧なきなり。(真宗聖典328ページ)

 和讃にいわく、安楽浄土をねがいつつ 他力の信をえぬひとは 仏智不思議をうたがいて 辺地懈慢にとまるなり、と。親鸞は辺地の文字に、疑惑胎生を辺地という。これは五百歳を経て報土には参るなり。諸行往生の人は懈慢に落つ。これらは億千万のとき、稀に一人報土へは進むなり、と左訓している。辺地とは阿弥陀法王のおられる悟りの都から遠く離れた辺疆の地、法王の威令の届かない蛮地だが、阿弥陀仏国の領内ではある。浄土の中にいながら浄土の中と知らずにいる。都に上って、阿弥陀仏のお顔も拝見し、教えをお聞きすることもできるが、懈怠して辺地に甘んじている。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2023-10-20 05:34 | 教行信証のこころ | Comments(0)

不果遂者の願

教行信証・化身土巻(3) 128

 ここをもって『大経』の願に言わく、設い我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの善本を植えて、心を至し回向して、我が国に生まれんと欲わん。果遂せずは正覚を取らじ、と。(真宗聖典347ページ)

 十九願は双樹林下往生、二十願は難思往生、十八願は難思議往生と、機の三願それぞれに往生があると、善導は教えている。われらは知らずに自ら造った心の世界に住んでいることを教え、真実の信仰へと導くのが三願転入と三往生の教えです。まず十九願は死後の浄土を願う。自我の死後の変形態である霊魂を妄想する外道を無霊魂説の仏教に導き入れるための方便として十九願がある。次いで二十願の機は衆生本来仏なりと、自分の心を信仰して、自分の心を磨いて仏に成ろうとする。自力信仰と闘うのが二十願です。十九願、二十願の方便の教えを乗り越えて十八願の信楽を体験する。果遂の誓い、良に由あるかな、と親鸞はその喜びを述べている。十九願、二十願はそもそも仏のお心の中にありながら仏のお心の中と知らない。仏のお心の中にいて、双樹林下往生と難思往生の夢を見ている。十九願の機は自力の外道であり、二十願の機は他力の教えを聴きながら心は自力の外道のままです。十八願で自分の心への執着が落ちると、仏のお心に摂取されて、大きな仏のお心の中に小さな自分を発見する。もともと仏のお心の中だったから改めてどこかに生まれたわけではない。それゆえ十八願の往生を難思議往生という。善及

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2023-10-19 05:03 | 教行信証のこころ | Comments(0)

浄土往生の生活

歎異抄・第七条(2) 51

 一 念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々(真宗聖典629ページ)

 本願成就文にいわく、あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す、と。十八願の信楽により、即得往生、住不退転、すなわち往生を得て不退転に住す、とある。不退転とは無上涅槃を目指して仏道を歩み出すことです。即得往生とは浄土に往生して浄土の住人になった。浄土の住人(正定聚の位)の精神生活とはどのようなものか。それを明らかにして第七条では、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなき、と教えているのです。大切なことは、罪悪も業報を感ずることあたわず。煩悩から離れて煩悩の影響を受けない浄土の生活が仏道になっているということです。成仏のための往生なのだから、浄土往生は死後のことではない。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2023-10-18 05:59 | 歎異抄を読む | Comments(0)