浄土は精神王国である

  浄土とは何ぞや、浄土は精神王国である。
  心が濁っているから物という実体があると思うている。
  これを無明という。
  心の修行安心の拠り処を失うて堕落して物質の奴隷になっている、
  それを迷いの娑婆世界という。
  自分の力では成仏出来ない者のために浄土を立てて
  往生の道を建てて下されたのが如来の本願である。
  往生以外におたすけはない。
  往生という所に新しい生活、精神生活を開いて下さる。
  それを仏恩報謝の生活という。
  因と果は同時にある。
  異時因果ではなく同時因果と理解すべきものである。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 「同時因果」とは現在と未来が同時である。信をいただいた現在に未来の浄土が開ける。現在を超えて現在するのが浄土である。だから娑婆は浄土ではないが娑婆を超えて娑婆を包んでいる。一方、「異時因果」とは現在に信心をいただくが往生は死後である。死後に浄土に生まれてから仏になる修行をする。現在にはなにもない。信の一念がない。なにもありがたくない。

 「おたすけ」とは信の一念に往生するから「おたすけ」という。往生するから成仏に間違いないとわかる。間違いないから心配がない。心配がないから成仏がもう問題にならない。「往生の道を建てて下されたのが如来の本願である」とわかるのは往生した証拠である。異時因果には証拠がない。証拠もなくて仏恩報謝と言っても意味がない。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-03-08 10:11 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

浄土は心の世界である

  弥陀智願の広海に
  凡夫善悪の心水も
  帰入しぬればすなわちに
  大悲心とぞ転ずなる

  ※「転ずる」の左訓
  悪の心、善となるを転ずるなりというなり。

  (正像末和讃)

  如来の回向南無阿弥陀仏によって自己を照らす眼を開かせて頂くのである。
  そうすると、そこに浄土が心の前に開ける。浄土は心の世界である。
  我等の心の無明を照らして下さるものである。
  心が自由に眼を開いて来るなら、煩悩が起っても煩悩の奴隷とならず、
  煩悩の悪を転じて如来の徳を行ずることが出来る。
  それが即ち浄土の生活というものである。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 境遇も世界も運命も信の前と後でなにも変わらない。それを受け止める心の方が変わる。それを量深師は「自己を照らす眼を開かせて頂く」と言っている。凡夫の眼が仏の眼になる。この意識の転換を「転ずる」といい、この「転ずる」を経験することが仏教のすべてと言っていい。「煩悩の悪を転じて如来の徳を行ずることが出来る。それが即ち浄土の生活というものである」。現実を超越した心の生活を「浄土」という。 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-03-07 00:36 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

真実報土

e0361146_22242000.jpg  信心によって、信の一念のときに願生心が成就する。
  自分の願いも成就し、如来の本願も成就する。
  だから、お助けは現在に成就する。
  だから私どもはこの世に満足して、何も暗い疑いの思いなく、
  自分の生活の現在に満足するというのが真実報土でしょう。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)

 信の一念に求める心が消える。求めるものがなくなった心の状態を「満足」という。満足する心に「なぜ」はない。求めないからすべてがある。いまの境遇に満足する。満足する心は明るい。満足する心が開く明るく平和な心境、心の世界を「真実報土」という。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-03-06 07:11 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

信心のご利益

  無碍光の利益より
  威徳広大の信をえて
  かならず煩悩のこおりとけ
  すなわち菩提のみずとなる

  (高僧和讃)

  たとい我、仏を得んに、
  十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、
  我が光明を蒙りてその身に触れん者、
  身心柔軟にして、人天に超過せん。
  もし爾らずんば、正覚を取らじ。

  (三十三願・触光柔軟の願)

  身体があるから煩悩がある。
  煩悩具足であるが、その煩悩が起って来る傍から解ける。
  一方に起し一方に解ける。それが信心の御利益というもの。
  智慧の眼が開いて来ると頑なな煩悩を起こす身体の方も自ずと柔軟になる。
  心が柔軟になれば身体も柔軟になる。身体が柔軟になれば身体が健康になる。
  正定聚で何時死んでも極楽往生間違いない、
  そう思っているそんなつまらぬ正定聚は何でもないものだ。
  煩悩が解ける、そういう所に正定聚がある。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 信の一念に智慧をたまわる。智慧とは心が見える。見えるとは離れることだから、離れて心の影響を受けない。心を相手にしないでいられる。相手にしないから煩悩は静かになって、生じてもすぐに消える。このことを量深師は「起って来る傍から解ける」と言っている。解けるとは消えてなくなる。煩悩に実体はないから相手にしないと消えてなくなる。和讃には「かならず煩悩のこおりとけ、すなわち菩提のみずとなる」と、智慧の働きが讃えられている。このようにして煩悩が浄化され、心が明るくなっていく。仏へと育てられていく信心のご利益です。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-03-05 06:00 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

悪をもおそるべからず

e0361146_11162043.jpg  悪をもおそるべからず、
  弥陀の本願をさまたぐるほどの
  悪なきがゆえにと云々

  (歎異抄・第1章)

 心に執着がないことを「悟り」といいます。心の善悪にこだわるのは心に執着しているからです。これを「迷い」といいます。「心に執着しない」ということがわからずに迷っている。どのように迷っているか。「心をよくすれば幸せになる」と信じて迷っている。悪い心が起きないようにと努力している。だから、「われを信じて心を離れよ」という弥陀の呼び声が聞こえない。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-03-03 11:06 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)