心をすてて

  一〇四、或る人申し上ぐるよう。
  心にしっかりと落ち付きとう御座ります、と。
  仰せに。それは自力のこころ。それすてて能く骨折って聞け。
  左様なれば、心をすてて、仰せに順いまするで御座りますか。
  仰せに。そうじゃ、そうじゃがそれは、我が力では順われぬ。

  (香樹院語録) 
 

 わたしの心は落ち着かない。あれやこれやととにかくうるさい。そんなことはわかりきっている。仏のお心は静かで平和だ。仏のお心を涅槃という。わたしの落ち着かない心が落ち着くのは死ぬときだから、落ち着かないわたしの心はそのままにしておいて、静かで平和な仏のお心の中に生まれようというのが真宗の修行です。正信偈に「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」と教えていただいている通りです。
 
 涅槃を(少分)経験させて涅槃を教え涅槃の完成を求めさせるのです。この涅槃の境地を「浄土」といい、迷いの心まるごとを摂取して涅槃の境地に入れてしまうのが弥陀の本願です。悟りの境地を自ら得たと思えば自力で、与えていただいたと思えば他力です。自力は悟っても悟った自分が残っているので、もう一つ他力のお助けがいるのでしょう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-04-11 12:53 | 真宗の眼目 | Comments(0)

無宿善の機

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  五八、『御文』に「無宿善の機は力及ばず」とあるは、
  一向きかずに地獄へ堕つるを無宿善とはのたまはず。
  聞いても聞いても驚かず、地獄へ堕つるを無宿善と云う。

  (香樹院語録)

 心の内側を見ることができなければ信仰にはならない。心が内側に向かない人を無宿善というのでしょう。仏は一人一人の心の中におられるのだから、外に仏を求め回る必要はないし、自分の心を観察するのに知識もいらない。信仰とは自分の心の奥底に降りて行く。光も音も届かないな孤独の深海に降りて行く。そこで仏に出遇う。仏に遇うか遇わないか、それだけが信仰である。仏は救うと誓っておられる。仏に遇わないのはあなたが遇いたいと思っていないからでしょう。他に理由はない。わたしが仏を見ているのではない。仏がわたしを見ているのである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-04-09 23:28 | 聴聞の実際 | Comments(2)

  十四、大事な後生と知りながら大事にならぬは、
  この世の愛欲貪欲の手強さゆえと、聞けども聞けども地獄も恐しからず、
  極楽もとうとまれぬは、邪見の強き故なり。
  よくよく聞けば、疑いの晴れねばならぬ浄土往生に、
  疑いのはれかぬるは、自力執心の迷いの心が手強き故のことなり。
  是れが離れねば往生すべき身とはなられぬ。
  然れども、己が心にて、是れを離るることがならぬ故に、
  御成就の他力回向の大信心なり。

  (香樹院語録)

 本願の救いは「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ことです。心から出てくる思いを「煩悩」といいます。心になにか価値があるように思うことを「自力執心」といい、心から出てくる思いを「自分」だと思うから、思いを実現しようと努力する。思い通りになったら幸せで、思い通りにならなかったら不幸と、いたって単純です。心を「なくせ」と仏教は言わない。心を「離れろ」というのです。心に使われるな、心の主人になれと言うのです。

 心を離れて心を見る。心がつくる世界を出て、仏のさとりの境地(涅槃)に入る。このことを「不断煩悩得涅槃」とも「往生」ともいいます。煩悩の身のまま涅槃の境地に生まれさせようというのが「弥陀の本願」です。ちなみに、この法語には「離れられぬを離して下さる 」とタイトルされています。心を離れると心が見える。心が見えることを「光明」といいますが、自分の力で自分の心を離れることはできない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-04-08 23:15 | 真宗の眼目 | Comments(0)

摂取不捨を体験する

  ①弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
  ②往生をばとぐるなりと信じて
  ③念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
  ④すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

  (歎異抄・第1章)

 仏教は涅槃の境地に入ることを目的に修行する。涅槃とは煩悩がない。煩悩のない静かで平和な心の状態を涅槃という。仏のさとりの境地です。さとりの境地を「浄土」といい、煩悩をもったままさとりの境地に生まれさせようというのが「弥陀の誓願」です。煩悩をもったまま涅槃の境地に入るので「不思議」です。

 歎異抄第一章では「摂取不捨」という言葉を使っていますが、涅槃の境地に生まれることを「摂取不捨」といいます。「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ということです。弥陀の本願、すなわち「摂取不捨」を体験することが「往生」です。第一章の冒頭の文に番号をつけましたが、①②③④は時系列に並んでいるようですが、「たすけられ」(教)るのも「念仏もうす」(行)のも「信じる」(信)のも「あずけしめたまう」(証)のも経験的にはすべて同時です。

 とくに大切なのは「往生をばとぐるなりと信じて」で、信じたのはすでに往生したからです。涅槃の境地が浄土、涅槃の境地に生まれるから往生です。すでに往生したから、涅槃の一分を経験したから必ず無上涅槃に達すると確信するのです。この経験を「摂取不捨」といいます。十八願の成就、信の一念に涅槃(仏)を経験する。仏教の結論を冒頭に示したのです。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-04-06 21:55 | 歎異抄の領解 | Comments(0)