平生聴聞

  六二、後生大事の心は、わが家にありての事。
  寺参りしてから、俄かに大事にはなられぬ也。
  助かるいわれは、参りて聴聞して疑いをはらす事。
  これは、我が分別では晴れぬ也。

  (香樹院語録)

 いま起きている事実を「自分にとって」都合のいい事実と都合の悪い事実に分けることを「分別」という。基準は自分にある。いま起きている事実は宇宙一体の命(仏)であるから「事実」を嫌うことは「仏」を嫌うことだと知らなくてはならない。「なんでこんな目に遭わなくてはならないのか」と運命を呪うのは仏を疑うことだ。だから、どんな事実も「仏の御いのち」と拝むことができたら、それを「疑いが晴れる」という。仏が基準になる。

 疑う心の底には暗く醜い「執着」がとぐろを巻いている。執着が好き嫌いを言う。だから「疑いが晴れる」とは執着が切れることをいう。ちなみに、この法語には「平生聴聞」と題がついている。「寺参り」はサークル活動ではない。「自分基準」(無明)から「仏基準」(智慧)に転換するには命がけで聴聞しなくてはならない。「自分基準」への執着と闘うのです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-11 08:29 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

畏聖人之言

  一九、『論語』に曰く、
  「君子有三畏、畏天命、畏大人、畏聖人之言」と。
  とかく、教の言葉をあなどりて、たかが、こう云う理屈ぞと、
  手前ですます料簡があるゆえ、ものを狎れ狎れしう思うて、
  大切なことを何とも思わず仕損ずる。
  それで当流にも、何のようも苦労もなく、
  助け給わんがためにとて、種々のご苦労をなさるるに、
  その御言葉を何とも思わず、大切にする心がない故に、
  いつも其のこととばかり思うて、
  身に引き受けて、心に味うことが少ない。
  よく聴聞して、信心を決定あらう。

  (香樹院語録)

 仏教に「生きる意味」(理屈)を教えてもらおうと考えている人はいくら聴聞しても「信心」がわからないだろう。始めから求め方が間違っている。事実はどこまでも厳密で、わたしがどう考えるかに関係なく起きている。信心がわかるためには、自分に都合がよかろうが悪かろうが「事実だけが真実だ」と決着しなくてはならない。しかし、信心がわからない人は「事実を事実として受け入れて生きる」ということがどういうことかがわからず「事実をどう解釈して生きたらいいか」とばかり考えている。

 すなわち、事実の手前、事実の解釈である「理屈」にとどまって、どうしても事実を受け入れる勇気がない者には信心が最後までわからない。「とかく、教の言葉をあなどりて、たかが、こう云う理屈ぞと、手前ですます料簡があるゆえ、ものを狎れ狎れしう思うて、大切なことを何とも思わず仕損ずる」とはそういうことです。仏教を「世渡りの知恵」「心構え」ぐらいに思っている人には耳が痛いだろう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-10 21:47 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

珍らしきことに非ず

  一一一、或る人、御面倒さまながら、
  御一言御聞かせ下されと申し上げたる時、仰せられ候。
  仏になるほどの事、一口や二口で聞かせられようか、
  自力の修行なさるる御方は、無量永劫御修行なされても、
  證られぬ證られぬと御嘆きなされるに、
  今五日や七日聴聞して、仏になろうと云うは、
  横着な心ゆえ信が得られぬのじゃ。
  なんでも、命がけで聞けば聞こえる。
  別なことを聞くのでない。
  同じことを聞き聞きすると、聞こえて下さるるのじゃ。
  ちやうど、染物にするに、
  藍壺のなかへ幾度も幾度もよく染めた所で上紺になる。
  よく染め揚げたが信心じゃ。

  (香樹院語録)  

 聞いて分かろうというのが分別である。頭のいい人は悟りにはなにかコツがあると思う。いま見えているものをただ見るのにコツなどあるだろうか。一才の子でもわかる事実が大人にわからないのは事実を分別するからである。事実を解釈したり、意味づけたりしない。そうすればまっさらな事実になる。わかろうとするからわからなくなる。わかろうとする努力を捨てたら、このままの救いだとわかる。この法語には「珍らしきことに非ず」と題があるが、まこと、仏法にはなにもコツなどない。ただ「命がけ」で事実を事実と受け入れるのである。受け入れない執着がわかる。それが「聞く」である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-09 06:29 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  一八、悪道の恐しさを聞いても、
  其のような悪道へ沈む身とは思われねども、
  いかなる気強き者でも。
  罪は造って仕舞うて隠すに隠されず、
  逃ぐるには逃げられず、
  さあ縄かけると云われたら、
  うろたえて泣くより外はあるまい。

  (香山院師曰く。
  それよりも百千倍あはれな無量劫の牢獄へ、
  今しばられて行く身の上。)

  其ものを助けようの御本願。

  (香樹院語録)

 意識とは心の表層であり、意識は心の中になにがあるかをまったく知らない。心には無量劫より蓄積された無量無辺の業の蓄積があって、われらは業に縛られていながら業に縛られている事実を知らない。宿業を照らす智慧の光がないので、これを無明といいます。あたかもそれは月の光すらない夜道を手探りで歩いていくようなもので、どこへ行くのかも、いまどこを歩いているかも知らない、まったくの闇です。一生涯、迷妄の夜道を歩いて信仰の日が開けるのを見ることもなく、闇からまた闇へと渡って行く。そのことを臨終に知るのです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」



# by zenkyu3 | 2017-06-08 06:36 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  六六、人なみの事を人なみに思わぬは、火事、地震、困窮。
  人並みでない事を人並みに思うは、後生なり。
  何故なれば、もとが後生の大事が、
  しみじみと身に引き受けられぬ故のこと也。

  (香樹院語録)

 火事、地震、困窮は世渡りである。どう生きるかの苦労である。世間の人の一大事はここまでである。どんな世渡りであれ、生老病死、みな死で終わる一生である。しかし、後生が一大事になれば、死で終わる世渡りのことなど大事ではない。何色の服を掛けようが服掛けるだけの体はみな宿業の身である。生きているときこそ、幸せだ不幸だと騒いでいるが、死ぬときは、そんなことはみな忘れて、死ぬことだけで頭が一杯だ。死んで行く先が地獄しかない事実に直面して、なんのための生涯だったかと嘆いても間に合わない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-07 11:29 | 香樹院語録を読む | Comments(0)