「不審」と「疑惑」

  一 「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、
  定聚のかずにいることをよろこばず、
  真証の証にちかづくことをたのしまず」(信巻)と、もうす沙汰に、
  不審のあつかいどもにて、「往生せんずるか」「すまじき」なんどと、
  たがいにもうしあいけるを、ものごしにきこしめされて、
  「愛欲も名利も、みな、煩悩なり。
  されば、機のあつかいをするは雑修なり」と、おおせそうろうなり。
  「ただ信ずるほかは別のことなし」と、仰せ候うなり。

  (蓮如上人御一代記聞書40条)

 信心を得た上で会通できないときに「不審」というが、ここでの弟子たちは蓮如上人から「機のあつかいをするは雑修なり」と叱られている。すなわち信心がない。だから「不審」ではなく「仏智疑惑」である。「機のあつかいをする」のは自分の心に執着して心をよくしたい「雑修」である。信心とは智慧をいただく。智慧をいただくと心が見える。「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」とは親鸞の懺悔(さんげ)である。懺悔は智慧を得た証しである。弟子たちにはそれがわからない。信心がないから「不審」ではなく「疑惑」である。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-08-06 21:05 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

返事

  一六〇、一字の竪横しらぬものを抑えて、
  そこもとは学者じゃと云われて返事が出来るか。
  喰いかねるような貧乏人を抑えて、
  そこもとは大福長者じゃといわれて返事がなるか。
  爾るに、真の仏弟子じゃ、正定聚の菩薩じゃと云われても、
  この私で御座りますと返事の出来るは、これ貰うた印也。
  よくよくの御慈悲と思うべき也。

  (香樹院語録)    

 信心は「いただく」という。持っていないから「いただく」という。持っていれば「いただく」必要がない。持ったことがないからどんなものかはわからない。食べたことがないのに「どんな味か」と聞かれても返事の仕様がない。答えたら嘘つきだ。信心のことはとにもかくにも「いただいた」上での話である。誰がくださるか。仏さまである。仏さまがくださるから「廻向」という。

 いただいたか、いただいてないか、これははっきりしている。いただいたのに「いただいてません」とは言えない。いただいてないのに「いただきました」と言えば嘘つきである。仏さまはなにをくださるかといえば「智慧」をくださる。われらは「智慧」をいただく。いただいたときに「くださったお方」のことがわかる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


# by zenkyu3 | 2017-08-05 21:01 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

衆生をしつらいたまう

  一 衆生をしつらいたまう。
  しつらうというは、衆生のこころを、そのままおきて、
  よきこころを御くわえそうらいて、よくめされなし候う。
  衆生のこころを、みなとりかえて、仏智ばかりにて、
  別に御したて候うことにては、なくそうろう。

  (蓮如上人御一代記聞書64条)

 人の心はそのままに、人の心の中に仏心を加えて、仏はわれらをよき人に仕立て上げてくださる。仏は智慧を与えて救う。智慧は鏡、自分の心が映る。鏡は映る心を選ばない。心に影響されない。だから、自分の心を正しく見せていただける。見えるから自覚という。見えるから自分の心のいいなりにはならない。そのことを自分の心から救われるという。蓮如上人は「衆生をしつらいたまう」と教えてくれたが、仏はわれらに智慧を与えて本当の人間に仕上げてくださる。ありがたい。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-08-04 19:45 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 「仏法には無我」と、仰せられ候う。
  「われ、と思うことは、いささかあるまじきことなり。
  われはわろし、とおもう人、なし。
  これ、聖人の御罰なり」と、御詞候う。
  他力の御すすめにて候う。
  ゆめゆめ、「われ」ということはあるまじく候う。
  「無我」と云うこと、前住上人(実如)も、
  度々、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書81条)

 「無我」とは「われ」がない。執着するような「われ」などない。これがわかることが仏法である。自分の心のことを「われ」と思う。これが根本無明で、自分の心を「われ」と思って執着する。だから「われはわろし、とおもう人、なし」。自分の心を生きる価値、生きる意味、生きる基準にしている。これが我執ということで、自分の心にしがみついている。

 自分の心のいいなりになって生きている。南無「阿弥陀仏」ではなく、南無「自分の心」だ。仏より自分の心が大切だ。「これ、聖人の御罰なり」。仏教徒とは言えない。本当の「われ」を阿弥陀仏という。本当の「われ」が煩悩の底から呼びかけて、本当の「われ」に今、目覚めた。本当の「われ」に目覚め、本当の「われ」を取り戻すから、これを往生成仏という。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-08-02 15:50 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

理をまげて情をおるこそ

  一 「総別、人にはおとるまじき、と思う心あり。
  此の心にて、世間には、物もしならうなり。
  仏法には、無我にて候ううえは、人にまけて信をとるべきなり。
  理をまげて情をおるこそ、仏の御慈悲なり」と、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書160条)


 受け入れられない事実に直面すると「不条理だ!」と心が叫ぶ。事実が受け入れられないのは理屈や感情が事実より"上"にあって偉そうだからである。それを仏法では「邪見驕慢」といって嫌われる。仏のお慈悲は「理をまげて情をおる」。我慢の鼻っ柱をへし折る。こんなことは誰も望まないから、実に難信である。「人にはおとるまじき」と生存競争を生き抜いてきたが、おのれをよしとする我慢が基礎から崩壊するような事実に直面することがある。仏のお慈悲に心が向くかどうか、これもまた宿善である。縁のない人には縁がない。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-08-01 17:53 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)