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清浄真実のこころなし

正像末和讃・三時讃 6

 14
 正法の時機とおもえども
 底下の凡愚となれる身は
 清浄真実のこころなし
 発菩提心いかがせん

 親鸞は清浄真実のこころに、清浄のこころなし。真実のこころなしと知るべし、と左訓している。清浄真実のこころとは仏性のことです。親鸞は仏となる可能性などないのだと言っている。わたしの心は身体に付属する身体機能であるから、わたしの心をいくら磨いても仏にはならない。だから、身体の奥底に眠ったままになっている仏性を目覚めさせなくてはならない。諸仏、善知識の言葉を信じて、浄土に生まれたいという心を起こせば、わたしの心を離れて涅槃界に帰入する。涅槃に触れれば菩提心が生じる。善及

 南無阿弥陀仏
# by zenkyu3 | 2023-11-06 05:02 | 正像末和讃のこころ | Comments(0)

九十五種世をけがす

正像末和讃・三時讃 5

 11
 九十五種世をけがす
 唯仏一道きよくます
 菩提に出到してのみぞ
 火宅の利益は自然なる

 親鸞は九十五種の文字に、外道の品々に分かれたること、余多なりと知るべし、と左訓している。仏教を内道といい、仏教以外を外道という。外道は事実を解釈する。解釈は人の数だけある。解釈することを分別という。解釈は解釈で構わないが、解釈は事実ではないことを知らなくてはならない。だから、分別以前の事実に立つことを仏教では無分別という。解釈はいくら重ねても事実には至らない。むしろ、事実から遠くなる。それで、世をけがす、という。善及

 南無阿弥陀仏
# by zenkyu3 | 2023-11-05 05:20 | 正像末和讃のこころ | Comments(0)

依正二報滅亡し

正像末和讃・三時讃 4

 9
 命濁中夭刹那にて
 依正二報滅亡し
 背正帰邪まさるゆえ
 横にあたをぞおこしける

 親鸞はそれぞれ左訓している。命濁には、人の命、短く脆し。依正二報には、人の命も、持てる物も、滅び失すべしとなり。背正帰邪には、正しきことを背き、僻事をたのむ心なり。横には、横ざまなる心のみあるべしとなり。五濁の世の有り様なり、と。愛欲は女(男)を見る。金欲は金を見る。名誉欲は地位を見る。執着すれば執着するものに縛られ、あたかもそれらが外に厳として実在するかのように思う。見るものすべてに騙される。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2023-11-04 05:47 | 正像末和讃のこころ | Comments(0)

自然

歎異抄・第十六条(3) 59

 信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします。しかるを、自然ということの別にあるように、われものしりがおにいうひとそうろうよし、うけたまわる。あさましくそうろうなり。(真宗聖典637ページ)

 唯円はここで、自然という言葉の正しい意味を述べる。いわく、わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします、と。自然も他力も言葉は違うが本願力のことです。本願力については前にも引用したが、一念多念文意にわかりやすい説明がある。いわく、如来の本願を信じて一念するに、かならず、もとめざるに無上の功徳をえしめ、しらざるに広大の利益をうるなり。自然に、さまざまのさとりを、すなわちひらく法則なり。法則というは、はじめて行者のはからいにあらず。もとより不可思議の利益にあずかること、自然のありさまともうすことをしらしむるを、法則とはいうなり。一念信心をうるひとのありさまの自然なることをあらわすを、法則とはもうすなり、と。親鸞はここで本願力のことを法則と呼んでいる。親鸞が法則という言葉を使うのはここだけですが、とてもわかりやすい。引力の法則が客観的な働きなら、本願力もまた永遠不滅の不可思議の法則です。七地沈空の難を超えて、第八教化地に入ると本願力がはっきりと働きを現す。働きが現れれば、無上涅槃に至る仏道における努力は一切いらないとわかる。努力がいらないので安楽。すなわち第八教化地に入ることを往生安楽国と言うのです。善及

 南無阿弥陀仏
# by zenkyu3 | 2023-11-03 05:58 | 歎異抄を読む | Comments(0)