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自力聖道の菩提心

正像末和讃・三時讃 7

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 自力聖道の菩提心
 こころもことばもおよばれず
 常没流転の凡愚は
 いかでか発起せしむべき

 自力聖道の菩提心とは菩薩因位の悟りです。他力では信楽獲得とも、信心をいただくとも言います。では、どうやって信楽を得るのか。親鸞は学問する聖道門では、常没流転の凡愚は、その方法すらわからないと言う。しかし、信方便の易行、他力浄土門は信じるだけで涅槃に入ることが出来る。浄土から阿弥陀仏が、こっちへ来い、と呼んでいる。信じて一歩を踏み出せば、たちまち涅槃界(浄土)に入る。わたしの心を離れるから、仏の方からわたしが見える。善及

 南無阿弥陀仏
# by zenkyu3 | 2023-11-13 05:29 | 正像末和讃のこころ | Comments(0)

往生

歎異抄・第九条(6) 65

 「また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々(真宗聖典629ページ)

 さらに続く。唯円の訴えは二つ。一つは踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと。二つはいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬこと。二つ目の問いに対する親鸞の答えは、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり、と。ここで親鸞はなにを教えようとしているかと言えば、信心の人は仏の一歩手前の等正覚の位であるから、身を捨てればそのまま仏になる。死ぬことが悟りを開くことの条件ではない。ただ煩悩の身を持っている間は煩悩は常に湧いているわけだから、仏になったとは言わないだけのことだと言うことです。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし。すぐにも死んで仏になり、衆生済度したいなんて、それは正しい信心とは言えませんよ、と。動揺した信心も、第八教化地に入れば本願力が働きを現し、仏とはなにかがはっきりするのです。働きが現れれば一切の努力がいらないとわかる。これを第十条に、念仏は無義をもって義とす、と示した。これが仏道の終点です。善及

 南無阿弥陀仏



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# by zenkyu3 | 2023-11-12 05:03 | 歎異抄を読む | Comments(0)

不審

歎異抄・第九条(5) 64

 「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」。(真宗聖典629ページ)

 親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。不審とはいぶかしく思う。信心をいただいたことに疑いは持ちたくないが、これでいいのかと思い始める。信楽の余熱が残っている間はなにも疑いはないが、余熱も冷めてくると、なにを喜んだのかもわからなくなる。信心が動揺する。唯円房、あなたもそこまで来たのですねと親鸞は喜んだ。わたしもそうでした、と親鸞は言った。もうじき唯円にも本願力が働き出し、信心堅固になることがわかっているから。ここまで来た唯円の信心を喜んだ。唯円の訴えは二つ。一つは踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと。二つはいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬこと。まず、最初の問いに答える。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり、と。親鸞の言葉は優しいが言っていることは厳しい。唯円坊よ、あなたは信心をいただいて、煩悩がなくなったかのように思ったのではありませんか。そんなことはありませんよ。わたしたちは死ぬまでただの凡夫だと、お釈迦樣もそう教えてくださったではないですか、と。善及

 南無阿弥陀仏

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# by zenkyu3 | 2023-11-11 05:04 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄の構成

歎異抄・第九条(4) 63

 「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」。(真宗聖典629ページ)

 唯円坊の名前が出てくるところが歎異抄には二か所ある。第九条と第十三条です。この二つのエピソードは唯円の信仰上の、二つの大きな転機点を示唆している。第十三条は、親鸞から宿業の教えを聞いて、自力無効を深く受け入れ、信楽を獲得したことの記録であり、第九条のエピソードは、七地沈空の難を超えて、第八教化地に入り、ここで本願力、つまり仏とはなにかがはっきりした自らの経験を親鸞の言葉で語っている。信楽は仏道の始点であり、七地沈空の難を越えて第八教化地に至るは仏道の終点です。親鸞から親しく教えを受ける場面はたくさんあったであろうが、唯円が特にこの二つのエピソードを選んだ理由は、仏道において最も大切な転換点を自らの経験として語ろうとしたからです。ただ懐かしくて二つのエピソードを取り上げている訳ではない。御物語十か条と異義条々八か条との対応、第一条から第六条までを教行信証の四法に則って構成したこと、第七条から第十条までで仏道の始まりと終わりを明らかにしたことなど、歎異抄はよく考えて構成されている。善及

 南無阿弥陀仏
# by zenkyu3 | 2023-11-10 05:23 | 歎異抄を読む | Comments(0)