仏智疑う罪深し

  22
  仏智の不思議を疑惑して
  罪福信じ善本を
  修して浄土をねがうをば
  胎生というとときたまう

  23
  仏智うたがうつみふかし
  この心おもいしるならば
  くゆるこころをむねとして
  仏智の不思議をたのむべし

  已上二十三首
  仏(智)不思議の弥陀の御ちかいをうたがう
  つみとがをしらせんとあらわせるなり
  愚禿善信作

 二十三首ある「仏智疑惑和讃」です。自力の信を他力の信と誤解している人への「うたがうつみとがをしらせん」親鸞のご親切です。仏法とは、自分の心、仏のお心、どちらを信じるか、要はそういう話です。「罪福信」とは(仏ではなく、仏を信じる)自分の心を信じる。自分の力で仏になれる。もともと自分の心が仏性だから仏のお助けは必要ない。自分のことは自分でできる。自分の心に触れて欲しくない。そんな心を「疑城胎宮」という。

 聴聞していながら仏も法も僧も知らない。善知識に遇いたくない。三宝に近づいて自分の心を壊したくないから「辺地懈慢」ともいう。小さな地下の暗い穴蔵の中に自分の心(本心)を隠して、本心を明るみへ出すことをひたすら恐れている。広々とした明るく自由なところへ出て来いと仏は呼んでいるが、無明の暗闇に慣れた目は明るい世界が恐い。いまだ信を得られないのだから、まこと、仏智疑う罪深し。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-02-16 06:02 | 三帖和讃を味わう | Comments(0)

骨折って聞くべし

  二二、得た得たと思うは得ぬのなり。
  得ぬ得ぬと思うはなお得ぬのなり。
  そんなことではない、と仰せられたり。

  一〇、頼めとあるも、すがれとあるも、
  称えよ称えよとあるも、皆助くる助くるの仰せなり。
  天が地となり、地が天となる例があるとも、
  間違わさぬ、疑うなよ疑うなよと、
  阿弥陀様の直の仰せと聞こえるまで、骨折って聞くべし。

  (香樹院語録)

 「得た」と思って満足するは「自分の心」でしょう。「得た」というのは「悟った」というのでしょう。「信心を得た」というのでしょう。結局は「自分の心」を出ていないと、香樹院師は言っているのです。仏法は「出離生死」といって「自分の心」を出ること、この一点しかない。出たか出ないか、これ以外にない。わかりやすい話だが、こんな難しいこともない。「骨折って聞くべし」。真面目に聴聞している人はこれに一生を懸けている。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-02-15 19:00 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

自分の境遇を疑う

e0361146_10235205.jpg  真宗念仏ききえつつ
  一念無疑なるをこそ 
  希有最勝人とほめ 
  正念をうとはさだめたれ

  (高僧和讃)

 「なぜ、わたしだけがこんな苦しみを受けなくてはならないのか」と自分の境遇を疑う。すっかり可哀相な被害者になっているが、疑いの心の根底には誰もが縛られている「執着」がある。自分の心への執着が苦しみをつくる。そのことを知ることが仏法の目的であり、それを知った人は「一念無疑」にて、「希有最勝人」と讃えられる。自分の心を離れることを「正念をう」というが、執着が見えると、問題はそのままに「疑い」(問い)が消える。これが信心の利益である。現実を超越したから、現実をありのままに受け入れられるのである。
 
 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-02-14 10:08 | 三帖和讃を味わう | Comments(0)

普賢の徳に遵うなり

  天親菩薩、論を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる。
  修多羅に依って真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。
  広く本願力の回向に由って、群生を度せんがために、一心を彰す。

  ①功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲。
  ②蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証せしむと。
  ③煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す、といえり。

  (正信偈・天親章)

  ①しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、
  至徳の風静かに衆禍の波転ず。すなわち無明の闇を破し、
  ②速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、③普賢の徳に遵うなり。
  知るべし、と。

  (教行信証・行巻)


 ここに「本願力回向」の三つの働きが整理されている。すなわち、①功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲。これは「往生」です。②蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証せしむ。これは「成仏」です。③煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す。これは「利他教化地」です。①②は「往相回向」、③は「還相回向」とわかりやすい。真宗の教義では①は現生(わたしの生前)、②③は順次生(わたしの死後)とされている。煩悩の身で「②成仏」したとは言わないからです。しかし、それはあくまで「わたし」を基準にしている。

 わたしの身体は物質で出来ているから生死があるが、不生不滅の仏心に生死はない。本願力は永遠の働きであるから「わたし」の生き死になどまったく関係がない。よって、「③利他教化地」(還相回向)が「わたし」の生前であるか死後であるかなど(わたしにとっては)まったく無意味です。もし、わたしの称えた念仏を聞いて救われる人がいたら、それはわたしに念仏を称えさせた仏のお仕事であり、わたしの手柄などではないからです。「②速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、③普賢の徳に遵うなり」。こういうことはとても尊いことであるが、わたしの経験することではない。わたしは救われる身で救う身ではない。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-02-13 06:08 | 教行信証のこころ | Comments(0)

仏の心で仏になる

e0361146_08452904.jpg  一一六、或人の尋ねに、
  どうも此度は仕おおせらるるように思われませぬ、
  と申し上げたれば。
  仕おおせられまいとおもうは凡夫の心。
  仕おおせさせるとあるが如来さまの御こころ。
  その御心をもらうのじゃ。
  仏の心で仏になるに、何の間違いがあろうぞ。
  それでよく聞けよく聞けと云うのじゃ、と仰せられたり。

  (香樹院語録) 

 信心の「信」は「真」に通じて真(まこと)の心、真(まこと)の心とは仏のお心、仏のお心がわたしの内面に回入して、わたしの主体となってくださった、このことを信心(仏のお心)をいただくといいます。「凡夫の心」が「如来さまの御こころ」に転じたのです。「仕おおせさせるとあるが如来さまの御こころ。その御心をもらうのじゃ」とはそのことです。一切衆生悉有仏性、わたしの心の奥底に眠っていた不生不滅の仏心がわたしに届き、わたしの内面世界を明るく開いて下さったから、「仏の心で仏になるに、何の間違いがあろうぞ」。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-02-12 08:37 | 香樹院語録を読む | Comments(0)