珍らしきことに非ず

  一一一、或る人、御面倒さまながら、
  御一言御聞かせ下されと申し上げたる時、仰せられ候。
  仏になるほどの事、一口や二口で聞かせられようか、
  自力の修行なさるる御方は、無量永劫御修行なされても、
  證られぬ證られぬと御嘆きなされるに、
  今五日や七日聴聞して、仏になろうと云うは、
  横着な心ゆえ信が得られぬのじゃ。
  なんでも、命がけで聞けば聞こえる。
  別なことを聞くのでない。
  同じことを聞き聞きすると、聞こえて下さるるのじゃ。
  ちやうど、染物にするに、
  藍壺のなかへ幾度も幾度もよく染めた所で上紺になる。
  よく染め揚げたが信心じゃ。

  (香樹院語録)  

 聞いて分かろうというのが分別である。頭のいい人は悟りにはなにかコツがあると思う。いま見えているものをただ見るのにコツなどあるだろうか。一才の子でもわかる事実が大人にわからないのは事実を分別するからである。事実を解釈したり、意味づけたりしない。そうすればまっさらな事実になる。わかろうとするからわからなくなる。わかろうとする努力を捨てたら、このままの救いだとわかる。この法語には「珍らしきことに非ず」と題があるが、まこと、仏法にはなにもコツなどない。ただ「命がけ」で事実を事実と受け入れるのである。受け入れない執着がわかる。それが「聞く」である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-09 06:29 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  一八、悪道の恐しさを聞いても、
  其のような悪道へ沈む身とは思われねども、
  いかなる気強き者でも。
  罪は造って仕舞うて隠すに隠されず、
  逃ぐるには逃げられず、
  さあ縄かけると云われたら、
  うろたえて泣くより外はあるまい。

  (香山院師曰く。
  それよりも百千倍あはれな無量劫の牢獄へ、
  今しばられて行く身の上。)

  其ものを助けようの御本願。

  (香樹院語録)

 意識とは心の表層であり、意識は心の中になにがあるかをまったく知らない。心には無量劫より蓄積された無量無辺の業の蓄積があって、われらは業に縛られていながら業に縛られている事実を知らない。宿業を照らす智慧の光がないので、これを無明といいます。あたかもそれは月の光すらない夜道を手探りで歩いていくようなもので、どこへ行くのかも、いまどこを歩いているかも知らない、まったくの闇です。一生涯、迷妄の夜道を歩いて信仰の日が開けるのを見ることもなく、闇からまた闇へと渡って行く。そのことを臨終に知るのです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」



# by zenkyu3 | 2017-06-08 06:36 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  六六、人なみの事を人なみに思わぬは、火事、地震、困窮。
  人並みでない事を人並みに思うは、後生なり。
  何故なれば、もとが後生の大事が、
  しみじみと身に引き受けられぬ故のこと也。

  (香樹院語録)

 火事、地震、困窮は世渡りである。どう生きるかの苦労である。世間の人の一大事はここまでである。どんな世渡りであれ、生老病死、みな死で終わる一生である。しかし、後生が一大事になれば、死で終わる世渡りのことなど大事ではない。何色の服を掛けようが服掛けるだけの体はみな宿業の身である。生きているときこそ、幸せだ不幸だと騒いでいるが、死ぬときは、そんなことはみな忘れて、死ぬことだけで頭が一杯だ。死んで行く先が地獄しかない事実に直面して、なんのための生涯だったかと嘆いても間に合わない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-07 11:29 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

後生願わぬ四因

  五五、後生に心のふり向かぬは、
  四の因縁ありと仏説きたまえり。
  一には、放逸の故に。
  二には、大地獄あることを信ぜざるが故に。
  三には、業異熟を知らざるが故に。
  四には、まさに死すべき事を知らざるが故に。

  (香樹院語録)  

 誰しも死んだ後が心配だ。なぜ生まれて来たかがわからないから人生に満足して死んで行けない。われらは過去世も未来世もわからないと思っているがそうではない。現在の自分のありさまを見ればどんな過去世であったかはわかる。同じように、いましていることがそのまま未来である。とても仏になるような所業ではない。現在の自分のありさまに自信がないから心の深い所で未来を恐れている。その恐れが地獄となるのである。「後生に心のふり向かぬ」のは内心深く死後を恐れているから見ようとしないだけである。

 われらは死後の恐れを心底に深く隠すためになにをしているか。一つは「放逸」、欲望の満足だけが人生だと決めてしまう。二つは「大地獄あることを信ぜざる」、自分の心の中の底なしの闇を見ないようにする。三つは「業異熟を知らざる」、因果応報ということを忘れて犯した罪を考えない。四つは「まさに死すべき事を知らざる」、いつまでも死なないかのように生きる。しかし、いくら死から逃げ回っても誰しも臨終を前にする。その時になって後悔しても遅い。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-06 06:35 | 香樹院語録を読む | Comments(7)

一念往生

  二三九、仰せに、臨終ほど大切なることはなし。
  人間世界の人、みな極月晦日のみに苦しむ。仏法また然り。
  然るに、我祖一人、その臨終のことは、心にかけるなとのたまう。
  みなみな味うべし。
  或人問うて云はく、平生業成の心にて候か。
  秀存師曰く、一念往生の心にて候か。
  師曰く、然り。

  (香樹院語録) 

 人生の終わりに、われらは人生の総決算を迫られる。死ぬにあたって「生まれてきたことの理由がわかったか」と問われるのです。生まれてきた理由がわかればこそ、やるべきことをやり終えた人生だったと満足して死んで行ける。「我祖一人、その臨終のことは、心にかけるなとのたまう」。親鸞の仰せは、死に臨んで「生まれてきた理由」を考えなくてはならないようではもう遅い。いまが臨終の思いで「生まれてきた理由」をはっきりさせなくてはならないというのです。信の一念にそれがわかる。だから、いつ死んでも往生する。臨終を待つことなし。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-05 06:35 | 香樹院語録を読む | Comments(0)