竹内先生の思い出

  はじめまして、****と申します。
  現在、定年退職して、九州の***に在る「**寺」というお寺で、
  寺男の一人として生活している者です。
  ことの始まりは、貴殿のウエブサイト「ZENKYU」を拝見したことに始まります。

  この国の基をつくられた聖徳太子の言葉「世間虚仮 唯仏是真」について勉強している時に、
  貴殿のサイトに出会いました。

  その中で、貴殿が師と仰がれている方が、
  竹内維茂先生、浄土真宗 崇信教会 東松山市とあったからです。
  実は、私は五十四年前、崇信教会に高等学校、大学を通して学生7人で数年間お世話になり、
  竹内維茂先生からはいろいろ教えを頂きました。
  思い出深い学生生活でした。

   (中略)

  貴殿のことは、竹内定ご住職の話で、
  二十年以上前、*****出版社勤務されている時に、
  編集の仕事に悩んで、突然、崇信教会に来られたと聞きました。
  その貴殿が、一人でも多くの方がお念佛を申されるようにとの願いを以って、
  一角を照らす者として、御活動されていることに、大変、共鳴いたしました。
  大変ありがとうございました。

   **** 合掌

   平成二十六年八月十七日


 人が悩むというのは“問い”をもつことだろうと思う。どのような問いか。それは「わたしはなぜ生まれてきたのか」という根本的な問いです。このような問いは生きるための技術しか知らない世間の人にはとうてい答えられない問いで、仏法だけが答えられるものです。

 このような問いをもった者に対して真摯に向き合える人は世間に多くはいない。自ら問いをもったことのない者は言うに及ばず、問いをもっていても自らがまだ闇の中にいては他に光明を示すことができないからです。同じ問いをもった者として真摯な態度で向き合ってくれた人、それが竹内先生でした。ただ一人の人です。

 南無阿弥陀仏

  
  仏教ブログ〈聞其名号信心歓喜乃至一念〉
  2014年10月1日付けの記事「竹内維茂先生のこと」よりの再録です。
  竹内先生を知っている方からお便りをいただいのはこの方だけです。
  大切なお便りですので、ここに再録しました。


# by zenkyu3 | 2016-12-27 20:17 | このブログのこと | Comments(0)

念仏の歴史

  教えというものは、やはり目覚めた人を通して、この世の中に生きてくる。
  そうして、目覚めた人があって、
  その目覚めた方が「自分はこうやって目覚めた」とおっしゃることによって、
  我々も、自分自身の身の事実を知らされ、
  そして「真実はなにか」ということに目覚めていくことができるんだ。

  (竹内維茂著「称名念仏の大悲」より)


 わたしは善知識となれる方を探していた。やがて、遇うべくして竹内先生にお遇いした。念仏は現代にも脈々と生きており、本の中だけでしか知らなかった念仏だが、生きた仏として先生が目の前で説法されていた。自然と手が合わさる。わたしにとって竹内先生は生きてそこにおられる仏だった。一方で、最近、とくにそう思うようになったが、竹内先生もまた、わたしを待っていただろうと。先生はすぐにわたしに気づいた。気づくだろか、いつ気づくだろかと思っていたが、すぐに気づいてくださった。初めて先生のご自宅を訪ねたのは三十六になったばかりの十月だった。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2016-12-26 08:32 | 竹内維茂先生の言葉 | Comments(0)

無義をもって義とす

  念仏には無義をもって義とす。
  不可称不可説不可思議のゆえにとおおせそうらいき。

  (歎異抄・第10章)  

  義とは、はからいである。
  上の義は人間のはからい、凡夫のはからい。
  下の方の義は、字は同じであるが、
  これは仏智、如来の御はからいである。

  (曽我量深著「歎異抄聴記」より)

  本当の信心は、自分がどのような不幸になっても、
  仏様のおたすけ、仏様のおまもりを疑わない。
  仏の本願の不思議を信じる。仏智不思議、仏法不思議を信じる。
  不思議は計らいを捨てること。
  本願の不思議を南無阿弥陀仏と申す。
  如来の御計らいを南無阿弥陀仏という。
  一切の自分の計らいを捨てて、
  一切を如来の本願の計らいにおまかせする。
  未来のことも現生のこともすべて如来の本願に一任する。
  自分は一切お祈りすることをしない。
  本当のぎりぎりの信仰は、
  一切の計らいを如来の御はからいにおまかせする。
  これが公明正大なる南無阿弥陀仏ということである。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)


 歎異抄の九章までをまとめる言葉が「無義為義」です。竹内先生は「はからいがない」ということを水練に喩えてこう説明された。溺れまいとするから溺れる。なにもしなければかえって体は水に浮く。浮くコツがわかると、あとは、どこまでも泳いでいける、と。仏の御はからいで“浮く”一度の体験を「信の一念」という。この体験を忘れないようにするために念仏する。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2016-12-25 22:46 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

死の不安

e0361146_20375696.jpg  おのおの十余か国のさかいをこえて、
  身命をかえりみずして、
  たずねきたらしめたまう御こころざし、
  ひとえに往生極楽のみちを問いきかんがためなり。

  (歎異抄・第2章)

 わたしたちが本当に知りたいこと、心の底から本当に知りたいと願っているのは「なぜ、生まれてきたのか」ということです。人間だけがこの問いを持つ。六道輪廻して、ようやく人間に生まれたのも前世に宿題を残していたからです。このたびの生で再びこの問いに答えがなかったら、死に臨んで、やるべきことをし残したと、取り返しのつかない後悔を残す。この後悔が成仏を妨げる。わたしたちが死に臨んで死を恐れるのは、やるべきことをやらなかった人生だったことを思い出すからです。身命にかえても聞きとげなくてはならないことがある。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2016-12-24 07:33 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

e0361146_09505421.jpg  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとえに親鸞一人がためなりけり。
  されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
  たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。

  (歎異抄・後序)

  この一句でご開山聖人は永遠に生きていられる。
  ご開山聖人の面影はこの一句でつきる。それほどに感銘深いものである。
  この一句を伝えているだけでも『歎異抄』は不滅のものであるといえる。

  (曽我量深著「歎異抄聴記」より)


 信仰とは何か。仏さまとの一対一の関係に入ることが信仰です。難しくはない。仏さまに見つけていただいた時から、いつも仏さまと一緒に暮らしている。仏さまといつも心と心が通じ合っている。仏さまのお心の中だから、仏さまの方からわたしが見える。仏さまの眼でわたしを見せていただける。見えることが救いです。見えるようにしていただいたお心は、もう二度と迷うなよの親心、迷わせないとのお慈悲です。守っていただいているのです。

 わたしを見る仏さまと見られるわたしは別々ですが、別々であっていつも一緒に暮らしている。いつも仏さまのお心を抱いて眠り、仏さまのお心の中で目が覚める。いつも仏さまの眼の先にわたしがいる。わたしは仏さまの一人っ子で、転ぶかな、転ぶなよの親心がヨチヨチ歩きの赤子の如きわたしを眺めている。親さまに見ていただいている安心があるから一人で立ち、一人でも生きていかれる。だから、一人でいてもいつも二人、二人だから寂しくない。孤独ではない。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2016-12-21 15:56 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)