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無上涅槃のさとり

歎異抄・後序(3) 74

 聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそおおせはそうらいしか。(真宗聖典640ページ) 

 尊号真像銘文にいわく、即横超截五悪趣(正信偈)というは、信心をえつればすなわち、横に五悪趣をきるなりとしるべしとなり。即横超は、即はすなわちという、信をうる人は、ときをへず、日をへだてずして正定聚のくらいにさだまるを即というなり。横はよこさまという、如来の願力なり。他力をもうすなり。超はこえてという。生死の大海をやすくよこさまにこえて、無上大涅槃のさとりをひらくなり。信心を浄土宗の正意としるべきなり。このこころをえつれば、他力には義なきをもって義とすと、本師聖人のおおせごとなり。義というは、行者のおのおののはからうこころなり。このゆえに、おのおののはからうこころをもったるほどをば自力というなり。よくよくこの自力のようをこころうべしとなり、と。長いが引用した。法然の、他力には義なきをもって義とす、とは無上大涅槃のさとりをひらくなり。無上涅槃の悟りから出て来た言葉です。二つ目の大切の証文、善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。これは法然の言葉とまったく同じ意味です。他力が働きを現し、自力がすっかりなくなった。本願力を見て無上涅槃のさとりをひらく。浄土での修行が終われば、浄土を出て衆生済度に出かける。往還の回向は他力に由る。往相が極まれば還相に転ずる。これを親鸞は現生正定聚と教えた。死後の話ではない。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2023-11-29 05:11 | 歎異抄を読む | Comments(0)

信楽まことにうるひと

歎異抄・後序(2) 73

 聖人のつねのおおせには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐そうらいし。(真宗聖典640ページ)

 唯円がわざわざ特記してまで残した大切の証文ですが、なんの目安かと言えば、正しい仏道を歩んているかどうかをこれでチェックにしなさいということです。まず、最初の大切の証文です。聖人のつねのおおせには、と。つね、とあるのがポイントです。和讃にいわく、弥陀の尊号となえつつ 信楽まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもいあり、と。親鸞の身に本願が成就して、信心をいただいたときの喜びが生涯、親鸞の心から離れることがなかった。また、目には見えない本願他力の働きの中に生きて、その喜びがいかに深かったか。それが、ひとえに親鸞一人がためなり、という述懐になっている。繰り返し述べてきたことですが、本願が成就するとは、至心、信楽、欲生の三心をいただくことです。至心とは仏のお心がわたしに届いたことであり、信楽とは心への執着が落ちて涅槃を垣間見たことです。ここに始めて無碍の一道なる仏道が開け、開けた仏道を無上涅槃を目指して歩み始めることを欲生という。よって、最初の大切の証文は、仏道の始めを明らかにしているのです。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2023-11-28 05:03 | 歎異抄を読む | Comments(0)

古親鸞のおおせごと

歎異抄・後序(1) 72

 これさらにわたくしのことばにあらずといえども、経釈のゆくじもしらず、法文の浅深をこころえわけたることもそうらわねば、さだめておかしきことにてこそそうらわめども、古親鸞のおおせごとそうらいしおもむき、百分が一、かたはしばかりをも、おもいいでまいらせて、かきつけそうろうなり。(真宗聖典641ページ)

 第十八条を最後に歎異抄の全編を読み終わりました。親鸞の言行録である前半の御物語十か条と、上人のおおせにあらざる異義どもを批判した後半の異義八か条とで歎異抄は構成され、前半の親鸞の言葉を根拠に、後半で念仏指導者の間に流布する異義の数々を批判するというのが歎異抄の基本的な構造です。とくに、第一条と第十一条、第二条と第十二条、第三条と第十三条にははっきりとした対応関係が見て取れます。さらに、前半の第一条から第六条までは仏教の四法、教行信証に則って構成され、第七条から第十条までは十八願の信楽で開かれる仏道を明らかにしている。このような著者の構成の意図がわかれば歎異抄がより深く理解できるでしょう。また、第九条と第十三条には、唯円坊、と親鸞が親しく呼びかけるエピソードがあります。唯円が信心をいただいた時と、七地沈空の難を超えた時のことで、どちらも仏道の重要な節目であることからこの二つのエピソードは選ばれているのです。このように歎異抄は実によく考えて構成されていることがわかります。さて、最後に、大切の証文ども、少々ぬきいでまいらせそうろうて、目やすにして、この書にそえまいらせてそうろうなり。唯円が仏道の基準にしろと特記した二つの大切の証文を読んで、このシリーズを終わります。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2023-11-27 05:52 | 歎異抄を読む | Comments(0)

不退のくらいすみやかに

高僧和讃・龍樹讃(4) 4

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 不退のくらいすみやかに
 えんとおもわんひとはみな
 恭敬の心に執持して
 弥陀の名号称すべし

 十住毘婆沙論にいわく、もし人、疾く不退転地を得んと欲わば、恭敬心をもって執持して、名号を称すべし。もし人、善根を種えて、疑えばすなわち華開けず、信心清浄なれば、華開けてすなわち仏を見たてまつる、と。不退転とは涅槃に始めて触れて、無上涅槃という仏道のゴールが見えた。ゴールが見えて始めて歩き出す。ゴールに向けて歩き出すことを不退転という。ゴールがわからずに歩き出す人はいない。だから、不退転地という。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2023-11-26 09:26 | 高僧和讃のこころ | Comments(0)