心を師とせざれ

  九八、後生も知らず、地獄極楽も疑うて居る者が、
  我が心にだまされて居るのではない。
  後生を願えば願うにつけて、何処までも我が心にだまされて、
  法を聴聞すれば、早や我れよきものになり、
  少し善事をすれば、己れなればこそと思い、
  少し報謝を勤むれば、先づこれでよいと腰をすえる。
  これは皆な夢みるのじゃ。
  少しの隙にも慢心が出て、我れと我が身をだますのじゃ。

  (香樹院語録)

 この法語には「『涅槃経』に曰く「心を師とせざれ」と」と題がついている 。わたしたちは自分の心の下僕と成り果てているから、心が望み心が喜ぶことならなんでもしようと思っている。生まれたときから心にこきつかわれて、心のためにありとあらゆる悪業を為すが、それになんの疑問も持ったことがない。これを「我が心にだまされて居る」という。騙されていることに気づけば「わが心」から自由になる。わが心の下僕だった者がわが心の主(あるじ)になる。これが仏法の端的です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-16 08:46 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

聞かせに来たのか

  二四六、越後にてのことなり。
  ある時師の御法話終りし後、
  両三名の同行のうちつれて師の御前に出で、
  品々進上して有難い有難いと、各々領解を述ぶ。
  師は之を黙して聞き給いしが、
  みなみな退散の後傍の人を顧み給いて、
  今の人等は己れに聞かせに来たのか、なにしに参ったのじゃ。
  と仰せありきと。

 (香樹院語録) 
 

 ここで描かれている「両三名の同行」こそ多くの門徒の姿でしょう。「品々進上して有難い有難いと、各々領解を述ぶ」ることはしても、自らの内心を糺してもらおうとはしない。まことに「なにしに参ったのじゃ」。竹内先生は「仏法は自己保身させるためにあるのではない。自己保身を破るためにあるのだ」と教えられましたが、これがお弟子さんたちにはわからない。

 自分の心が一番大切で、自分の心が傷ついたり、鬱々してしまうと、さぁ大変だとなる。なんとか心が明るくなるようにしなくてはとあわてふためく。これを「自己保身」というのです。自分の心にすっかり縛られて、自分の心の奴隷に成り下がっているのは、あたかも、子を溺愛するあまり子に振り回され、かえって子をダメにする過保護の親の姿です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-15 06:27 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

弘誓の船

  二二六、弘誓の船は弥陀の成就したまう所なり。
  弘誓の船を知らずにいるもの。
  弘誓の船を見て乗る気のいまだ起らざるもの。
  乗りたいと思い種々に分別して乗り得ざる者。
  乗らずして乗ったと思うもの。
  喩の方でわかりてあれども、法の方ではまぎれている。
  乗りて歓喜するもの。

  (香樹院語録)
 
 「乗らずして乗ったと思うもの」がいるが念仏がない。念仏するフリはできるが智慧がないので懺悔と讃嘆がない。「乗りて歓喜するもの」は煩悩の闇黒を照らす智慧の光をいただく。光があるので煩悩がよく見える。見えることによって煩悩が浄化されていく。無量劫より蓄積された無量の業垢が果てしもなく出てくる。煩悩の闇黒を見せられる苦しみがあるが、仏のお心に護られているので、どこまでも煩悩の闇黒と闘うことができる。煩悩が浄化される中で罪の深さを何度も何度も知らされて、そのたびに新しく救われていく。それが念仏相続であり、懺悔と讃嘆の念仏です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-14 12:23 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

帰去来

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  一八〇、法然聖人は、
  死ぬのではない極楽へ生るるのじゃ、
  と仰せられき。

  (香樹院語録) 

 生まれてきたのなら死ぬということがある。生まれたようでいて生まれたということがなければ、死ぬようでいて死ぬということがない。生死のある虚仮の世界に暮らす人は生まれたということがあるから死ぬことがある。生まれるも死ぬもない真実の世界に暮らす人は死ぬということがないからから「往生」という。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-13 06:10 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

他力とは無我のこと也

  一六二、他力と云うは、
  蓮如上人は無我になることじゃと仰せらる。
  よくよく我慢が強ければこそ、
  まことに我が身のあさましさが思われぬ也。

  (香樹院語録) 
   

 われらは仏の御いのちである。見るもの聴くもの触れるもの、ことごとく仏の御いのちでないものはない。人がつくったものなどなにもない。そもそも人がいないから、すべては仏の御いのちである。人がいないから「無我」といい、人がいないからに苦しみがない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-12 06:03 | 香樹院語録を読む | Comments(0)