*1 獲字は因位のときうるを獲という。得字は果位のときにいたりてうることを得というなり。名字は因位のときのなを名という。号字は 果位のときのなを号という。

*2 自然というは、自はおのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむるということばなり。然というはしからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。

*3 法爾というは、この如来のおんちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。法爾はこのおんちかいなりけるゆえに、すべて行者のはからいのなきをもって、この法のとくのゆえにしからしむというなり。すべて、人のはじめてはからわざるなり。このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべしとなり。

*4 自然というは、もとよりしからしむということばなり。弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききて候う。

*5 ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。無上仏ともうすはかたちもなくまします。かたちのましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。かたちもましまさぬようをしらせんとて、はじめて弥陀仏とぞききならいて候う。みだ仏は、自然のようをしらせんりょうなり。

*6 この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。

  愚禿親鸞八十六歳

  *7 正嘉二歳戊午十二月日、善法坊僧都御坊、三条とみのこうじの御坊にて、
  聖人にあいまいらせてのききがき。そのとき顕智これをかくなり。


# by zenkyu3 | 2017-12-02 06:22 | 仏からの道・資料集 | Comments(0)

  一 人の、前々住上人へ申され候う。「一念の処、決定にて候う。
  ややもすれば、善知識の御ことを、おろそかに存じ候う」由、
  申され候えば、仰せられ候う。「最も、信のうえは、崇仰の心あるべきなり。
  さりながら、凡夫心にてはなきか。か様の心中のおこらん時は、
  勿体なき事と、おもいすつべし」と、仰せられしと云々

  (蓮如上人御一代記聞書109条)

 これもまた「信のうえ」のことです。信を得ると、得たことを誇る心が起きて「善知識の御ことを、おろそかに存じ候う」ことがある。師の信心を疑うのです。これもまた信を得た人が一度は通る道に違いない。親鸞は「自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々」(歎異抄・第6章)と、信が深まっていけば、自ずと師のお心と心通じ合うようになる、と教えている。親鸞も通った道に違いない。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-12-01 06:33 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 仰せに、「ときどき懈怠することあるとも、
  往生すまじきか、とうたがいなげくことあるものあるべし。
  しかれども、はや、弥陀如来をひとたびたのみまいらせて、
  往生決定ののちなれば、懈怠おおうなることのあさましや。
  かかる、懈怠おおうなるものなれども、御たすけは治定なり。
  ありがたや、ありがたやと、よろこぶこころを、
  他力大行の催促なりともうす」と、おおせられそうろうなり。

  (蓮如上人御一代記聞書17条)

 「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろう」(歎異抄・第9章)とは、唯円が親鸞に告げた信の上の不審であったが、「親鸞もこの不審ありつるに」と、自分もかつて同じことがあったと、親鸞は弟子の唯円に率直に応じている。蓮如の「かかる、懈怠おおうなるものなれども、御たすけは治定なり」とは、親鸞の、「いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ」と、写したように同じ心である。

 信の上の「不審」であり、不信の「疑惑」ではない。一度は喜ばせていただいたが、数年もすれば喜びの感触も忘れがちになり、やがて、信の一念のことも、わかるようなわからないような状態になる。信心が本当に「自然法爾」になるために必ず通らなくてはならない道である。信を得たからこそ味わう信仰の危機である。「信を得たのは自分である」という傲慢ゆえに信がわからなくなるが「如来よりたまわりたる信心」であったと思い出せば、今に働いている智慧の働きがまた働きだす。「ありがたや、ありがたやと、よろこぶこころを、他力大行の催促なりともうす」とは、そういうことである。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-11-30 06:28 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

時節到来と云うこと

  一 「時節到来と云うこと。
  用心をもし、そのうえに事の出で来候うを、時節到来とは云うべし。
  無用心にて事の出で来候うを、時節到来とはいわぬ事なり。
  聴聞を心がけてのうえの、宿善・無宿善とも云う事なり。
  ただ、信心は、きくにきわまることなる」由、仰せの由に候う。

  (蓮如上人御一代記聞書106条)

 聴聞の目的は信心を取ることしかない。世間には芸事にすら命を懸ける人たちがいる。われらは聴聞するためだけに生きていることを忘れてはなるまい。求めずに得たなどということはない。信心を取るとは仏のお心を聞く。親の心、子知らず。親の心がわかれば子は子であって、もう子ではない。親の心とはすべてを入れる「無我」(大悲)であるから、聴聞とは「無我」(空)を経験することに尽きる。自我を捨てた信の一念、喜びが心を満たす。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-11-29 12:38 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

思案の頂上と申すべきは

  一 思案の頂上と申すべきは、
  弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることは、なし。
  此の御思案の道理に同心せば、仏になるべし。
  同心申すとて、別になし。機法一体の道理なりと云々

  (蓮如上人御一代記聞書244条)

 妄念妄想の滅するところを「涅槃」という。妄念妄想に良いも悪いもない、ともに滅する。過熱した頭が冷やされて妄念妄想が雲の如く消えてなくなる。「弥陀如来」とは思案の滅する涅槃から降りてきた涅槃の一段下だから「思案の頂上」である。よって「機」とは思案、「法」とは思案の滅する涅槃、これが二つでありながら一つである心の状態を「信心」という。「機」にも「法」にもなるから、いつでも仏に成る。いつでも仏に成るから「此の御思案の道理に同心せば、仏になるべし」という。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-11-27 06:41 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)