二四四、天保五年十月十日の夜なりき。
  或る人、師の御前に出でて、うつくしく領解を述べたれば、仰せに。
  述べた口上には間違いはないが、その言葉を便にするな。
  言葉さえ云いならぶれば、信心を得たものとするのではないか。
  それでは他力回向とも、仏智より獲得せしむるとも仰せらるる所と相違する。
  御教化の御言葉に隙のない様になったが実の信心じゃと思うても、
  それでは言葉は他力でも、心が自力の執心じゃ程に。

  (香樹院語録)  

 仏のお心を伝えたい。得たという確信があるからこそ、仏のお心がどういうものか、どのようにすれば信を得られるかを伝えたい。しかし、いくら言葉にしても言葉はどこまでも言葉、経験そのものではない。聞法の場では、聞くのは仏のお心であって言葉ではない。言葉が伝えようとしている仏のお心を直感しなくてはならない。たとえば、水を求めてコップを渡されたら中に水が入っていると思うものである。あなたが求めているのはコップではなく水である。渡されたコップに水が入っているかどうか、よく確認したほうがよい。法を説く人に伝えるものがないからである。この法語には「文字や言葉の穿鑿ばかりでは御慈悲は味えざる也」という長いタイトルがついている。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-04-15 21:46 | 聴聞の実際 | Comments(0)

我が料簡を捨てる

  二二五、江州草津合羽屋に対せられての仰せに。  
  往生を願うについて、二の関所がある。
  一には世を捨てて願い、二には疑網をすてて願わねばならぬ。
  この二を捨てねば極楽まいりは出来ぬ。
  初めの世をすてて願うと云うは、
  望みさえあれば随分世をすてて願うと云う人がある。
  しかし後の疑網の関所には、番人がいる故我が料簡ではゆかれぬで、
  我が力すてて唯仏智のおはからいで往生させていただくのじゃ。

  (香樹院語録)

 我が料簡を捨てる。無我ともいって、これが仏教の眼目でしょう。我が料簡で生きていけると思ったのに我が料簡では立ち行かなくなった。そこで我が料簡を建て直したくて仏教を学ぼうと思い立ったのでしょう。しかし、いくら学んでも仏教がわからない。やがて飽きてしまう。我が料簡を建て直したところで、いずれまた行き詰まる人生ではありませんか。仏教は我が料簡を捨てなさいというのだから、我が料簡を立て直そうとして聞いても、そもそも向いている方向が西と東ほど違う。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-04-14 22:30 | 聴聞の実際 | Comments(0)

仏の心を賜わるなり

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  一二二、仏のこころを知る者は、
  仏の心を賜わるなり。
  故に大悲の御心を聞かねばならぬ。

  (香樹院語録)

 煩悩がない悟りの境地を涅槃という。仏教ではそう教えているのに、真宗では「煩悩を断たずに涅槃を得る」という。悟るのではなく、信ずる心一つで、煩悩をもったまま悟りの境地である涅槃に入るというのです。こんなことはありえないことだが、実際に起こることだから「誓願不思議」という。

 仏の心を涅槃という。だから仏の心と感応道交すると涅槃に入る。煩悩の身をもって仏になることはないが、煩悩の身をもって涅槃に入ることはできる。自分の心より高次の心、仏の心の中に「摂取不捨」される。涅槃に入ると無我になる。無我になると仏の声が聞こえる。自分の心以外に仏の心があると知った。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-04-13 23:18 | 真宗の眼目 | Comments(0)

心が何と思うとも

  一〇六、ある人、今にも死のうと思えば、
  もう一度御目にかかりてと云うような、心で御座りますと述ぶれば、仰せに。
  それが肝要の所で、それが疑いの根じゃ。それで、よく聞けよく聞けと云う事じゃ。
  能く能く聞くと、今迄は何を疑うて居りましたやらと、如来様に御縋り申す心が信心決定じゃ。
  是一つさえ訳が分ったら、日本国がひっくり返っても、浄土参りに間違いはない。
  世上で信心安心の訳聞いて、此処でこう聞いた彼処でああ聞いたが、
  どちらが真実やらと云う様な詮索沙汰をやめにして、
  誰がどう云うとも、心が何と思うとも、
  阿弥陀様の助くる助くるの御呼声を、頂いた身じゃものをと思えば、
  こんなたしかな事はないではないか。

  (香樹院語録)   

 この法語には「心が何と思うとも」というタイトルがついています。われらの心は肉体に附属している心なので心に従うということは肉体の欲求に従うということです。肉欲に縛られてわれらはありとあらゆる苦悩を受ける。このことを知らずに苦しんでいる。そのような姿を仏教は「無明」と教えている。「心が何と思うとも」心の相手をしない。心に振り回されない。心の主人となって奴隷にならない。心を離れれば離れるほど苦しみはなくなっていく。これが仏教です。

 自分の心を一度離れる経験を「即得往生」といい、自分の心に支配されない生活を「往生」といいます。「阿弥陀様の助くる助くるの御呼声を、頂いた身じゃもの」、なにから助けていただいたか。自分の心から助けていただいた。長い間だまされ続けてきた自分の心から助けていただいた。今まで心にどれ程だまされてきたか。「心が何と思うとも」もう心の相手にはならない。信仰とは、仏のお心と自分の心と、どちらを信じますかという話です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-04-12 21:53 | 真宗の眼目 | Comments(0)