(異義条々 その三)

  一 弥陀の本願不思議におわしませばとて、
  悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、
  往生かなうべからずということ。
  この条、本願をうたがう、
  善悪の宿業をこころえざるなり。

  (歎異抄・第13章)

 三番目の異義は「本願ぼこりは往生しない」というものです。異義者は「本願ぼこり」が気に入らない。罪を畏れない「造悪無碍」になって道徳が乱れると心配するからです。「本願ぼこり」は本願を頼りにするのはいいが懺悔がない。よって、正しい信心ではない。一方、「造悪無碍」を批判する異義者は罪を畏れる。自分の心をよくして仏になりたいから罪悪で心が汚れることを畏れている。しかし、自力の道徳主義者は自分がどれ程の罪悪を造りながら生活しているかの自覚が根本的に欠けている。欠けているから自分の心が成仏の種になると思っていられる。

 この章には「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」という親鸞の言葉がある。生まれたときに得た体は何度生まれ変わってきた体だろうか。生まれ変わり死に変りする間に蓄積された罪悪は無量で、この体は罪悪でできた体だとわかる。罪悪でできた体から罪悪が出てくるのは自然のことで、身口意の三業すべてが罪悪に汚れている。こんな体から出てくる心をもって仏になろうとしても無理な話だとわかることが「宿業」というのでしょう。

 さて、「本願ぼこりは往生しない」という「自力」の異義を批判した上で、唯円は「他力」とはなにかを最後に示します。「願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ」。仏になる見込みのない自分の心を相手にすることはもうやめて、われを救うとお約束してくださる仏のお心を思いなさいとのご化導です。この言葉の通りでありたい。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-10-05 06:20 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

(異義条々 その二)

  一 経釈をよみ学せざるともがら、
  往生不定のよしのこと。
  この条、すこぶる不足言の義といいつべし。

  (歎異抄・第12章)

 前章は「念仏」についての異義。この章は「学問」についての異義です。文字が読めない庶民がほとんどの時代、こんなことを言う僧がいても当然すぎるほど当然とも思うが、唯円は「法の魔障なり、仏の怨敵なり」と口を極めて批難している。信心のわからない指導者には伝えるべき「仏心」がない。仏心がわからないから知識しか伝えるものがない。「学問」を誇って僧としての地位と名誉を守ろうとする。それは現代も変わらない。むしろ、僧だけでなく御同行までが信仰してるようでみな学問の真似事をしているのではないか。

 歎異抄には親鸞の信仰告白がある。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(後序)。信仰とは仏のお心と直に心がつながることだとわかります。仏心はこの身に一つずつ埋め込まれている。埋め込まれた仏心を花開かせることが信仰に出会うことです。外ではなく内にある。すべての人が持っている。内なる仏心からの呼び声を「本願」といただく。学問は外に向かう。信仰は仏の声に呼ばれて内に向かう。内に向かうのに「学問」はいらないということでしょう。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-10-04 06:35 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

(異義条々 その一)

  一 一文不通のともがらの念仏もうすにおうて、
  「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、
  また名号不思議を信ずるか」と、いいおどろかして、
  ふたつの不思議の子細をも分明にいいひらかずして、
  ひとのこころをまどわすこと、
  この条、かえすがえすもこころをとどめて、
  おもいわくべきことなり。

  (歎異抄・第11章)

 唯円は念仏グループの指導者であったでしょうから、それが具体的に誰だったかは別にして、いずれは指導者になるであろう後進のために「歎異抄」を書いている。他の念仏グループの指導者たちが唱えている八つの「異義」を取り上げ批判するのが執筆の動機です。当然かもしれないが、最初に取り上げた異義は「念仏」に関するものです。内容は誓願と名号、信と行を二つに分けて、どちらを信じて念仏するのがいいのかと「一文不通のともがら」に迫る異義者の態度を批判しています。

 異義者はおそらく「信がなければ念仏しても意味がない」と言いたいに違いない。理屈好きな人はたいてい念仏が嫌いだから、信心があれば念仏はいらないと思っている。しかし、そのように主張することが異義者に「信心がない」ことを暴露してしまっている。そもそも、信心とは真心であり、信の一念に仏のお心をいただく。仏のお心をいただいた喜びが念仏になるのだから、信には必ず念仏が伴う。念仏のない信はない。

 また、念仏は念仏させようの仏のお心の現れであるから、信がなくとも、口を突いて念仏が出てくるのです。信なくして出てくる念仏は気づけよの仏のおさとしです。だから、信と行は二つで一つ、どちらか、ではない。異義者は心素直に念仏して仏の心につながろとしている御同行の念仏が仏のお働きであることを知らない。念仏の指導者たらんとするなら、まず自らが信を得なくてはならないでしょう。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-10-03 14:46 | 歎異抄の読み方 | Comments(2)

  上人のおおせにあらざる異義どもを、
  近来はおおくおおせられおうてそうろうよし、
  つたえうけたまわる。
  いわれなき条々の子細のこと。

  (歎異抄・中序)

 歎異抄には前序、中序、後序と三つの「序」があります。中序は前半の「師訓篇」(第一章~第十章)と後半の「歎異篇」(第十一章~第十八章)の間、「歎異篇」の序の位置にあるのが「中序」です。第十章までの前半に「上人のおおせ」を示した上で、これからの後半で「上人のおおせにあらざる異義ども」を批判する構成になっています。「右条々はみなもって信心のことなるよりおこりそうろうか」(後序)とあるように、唯円が批難する異義者たちは真実信心のない宗教指導者(僧侶)たちで、他力がわからない。お慈悲を受けがたくしている異義者たちの心の障りを考えてみたい。


 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-10-02 06:05 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

一心というなり

  一 一心とは、弥陀をたのめば、
  如来の仏心と一つになしたまうが故に、
  一心というなり。

  (蓮如上人御一代記聞書161条)

 「たのむ」心にならない。「弥陀」を外において、自分のためになにかをしてくれると思えば、それは「たのむ」ではない。自分を残すための交渉事である。なにを、どうたのむか。どうぞ、この惨めな心の生活から救ってくださいと、身を捨てて謝る。すぐに、仏のお心の中に引き入れて、惨めな心の生活から救い出してくださる。そういうお約束である。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-10-01 06:26 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)