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新カテゴリ・夢のあと

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夏草や兵どもが夢のあと

 松尾芭蕉の句です。奥州平泉は平安末期、鎌倉初期、藤原三代の夢のあと。この古戦場跡の静けさに、栄耀栄華の夢破れ、戦いに死んでいった古武士たちの声が聞こえる。古武士の栄華、勇気には遠く及ばなくとも、誰の人生であれ、もちろんわたしの人生にも、なにかと闘ってきた歴史がある。しかし、どんな人生であれ終わってみれば一夜の夢。あとは死ぬだけの年寄りが、芭蕉が古戦場を眺めた如く、わたしの夢のあとを眺めてみようかな、と。一仕事終われば後片付けをする。新カテゴリ・夢のあと。これはわたしの人生の後片付けです。善及

# by zenkyu3 | 2023-12-08 05:19 | このブログのこと | Comments(0)

(信心)信ぜずとも

香樹院語録 五

 尾張神尾のおこう、私は聞いても聞いても聞こえませぬから、まづ暫く帰って参ります、と申し上げたれば、行くなら行け、仏法が旱魃するぞ、と仰せあり。女、空恐ろしくなりて自然と帰る心も止まりぬ。その後、同女に対せられて、後生大事となり、骨折って聞くなら、信ぜずに死んでも、如来さまは、一度は生死を離れさせて下さるる程に。との仰せなりき。

 尾張神尾のおこう。どんな人かは大した問題ではない。おこういわく、私は聞いても聞いても聞こえませぬから、まづ暫く帰って参ります、と。この人、信楽の一歩手前の大疑団の真っ暗闇の只中にいて、ついに怖気づいた。ここで逃げたらもう二度と信心は取れない。徳龍師が励ます。行くなら行け、仏法が旱魃するぞ。おこう、逃げずに踏みとどまった。徳龍師がさらに励ます。信ぜずに死んでも、如来さまは、一度は生死を離れさせて下さるる程に、と。必ず信心は得られる。怠らず聞け。死ぬ気でやれと、徳龍師。おこうの機は熟したと見て厳しく追い込む。名前が残っているので、尾張神尾のおこう、信心をいただいたのでしょう。信心を取るための聴聞です。この法語、徳龍師の下で命がけの聴聞が行われていたことを知らせている。善及

 南無阿弥陀仏

 ※題の前の「信心」はわたしがつけました。どのようにして人は信心を取るかがわかるからです。

 ※これまで登場した信心の人(数字は章)
 5−尾張神尾のおこう

# by zenkyu3 | 2023-12-07 05:23 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

心安楽法

香樹院語録 四

 寿命は聞法のためなり。五歳で死するもあり、十五、二十で死するもあり。それにくらぶれば、後生は一大事と心づくまでの命を得て、仏法聴聞いたすことになったは、大なる喜びなり。もはや寿命の役目は相済んだと思えば心安楽。

 ※一部抜粋です。全文は真宗大谷派・念佛寺様のサイトでご覧ください。

 大学に入って最初の一年は好きな本を読んで暮らすと決めていた。わかりたいことがあった。しかし、一年が二年になっても、なにもわからない。なにがわからないかもわからなくなった。両親の離婚のごたごたや、法律が向かないとわかって大学をやめて就職した。しかし、社会人になっても誤魔化し切れない自分が残っていた。仏教だけが答えを持っているように思えて、二十代後半からは仏教だけになった。こうしてわたしの聞法生活が始まったのです。外見には会社で仕事をし、家庭で子どもたちを育てる生活者の姿であるが、心の内は仏のことしかない。善知識にも遇い、たまたま三十六で信楽をえた。幼い子どもたちはあっという間に大人になり、子をもつ親になった。わたしは馬齢七十を加え、そろそろ寿命が尽きる頃です。徳龍師いわく、後生は一大事と心づくまでの寿命を得て、仏法聴聞いたすことになったは、大なる喜びなり、と。聞き始めて四十五年、聞くべきことは聞き、書くべきことは書いたように思う。もはや寿命の役目は相済んだと思えば、心安楽。人生は終わり寿命が余った。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2023-12-06 05:50 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

香樹院語録 三

 ある人、私はいかほど聴聞いたしましても、どうも、つかまえ所がご座りませぬ、と申し上げたれば、仰せに。そうであろう。おれは、つかまえられぬように、いうておるのじゃ。

 題に、心得たと思うは心得ぬなり、とあるが、蓮如上人御一代記聞書にもこうある。いわく、心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり、と。色も形もない救いの働きは目には見えない。目に見えないが、この身に本願成就すれば、教えられずとも、弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと、それが救いであることは自ずとはっきりとわかるものです。徳龍師は、おれは、つかまえられぬように、云うて居るのじゃ、と。信心はあちらから与えられてくるものであるから、得てもいない信心をこちらから得たかのように、自らの料簡でもってわかった風なことを言う。そんな戯言はおれの前では絶対に言わせないぞと、徳龍師は厳しい。自力の心はわかった気になりたいだけで、救われたいなどとはとんと思ってもいない。そもそも救われない身であるなんて思ったことがない。善及

 南無阿弥陀仏
# by zenkyu3 | 2023-12-05 05:38 | 香樹院語録を読む | Comments(0)