仰せを持ちかえるな

  八六、江州醒ヶ井みそすり屋にて。
  師曰く。婆々、そのままの御助けじゃぞや。

  婆々曰く。難有う御ざります。
  いよいよ是のままの御助けで御座りますか。
  師曰く。いやそうではない。
  そのままの御助けじゃ。仰せを持ちかえるなよ。

  (香樹院語録) 

 師の「そのまま」とは仏の方から見せていただいた「そのまま」。婆々の「そのまま」は自分が見た自分。師と婆々では「そのまま」の言葉は同じだが見ているものが違う。竹内先生は「仏法は自己保身させるためにあるのではない。自己保身を破るためにあるのだ」と教えられた。みな「そのまま」の自分で救われたいのでしょうが、そうはいかない。一度は心に死んで「このまま」に戻って来なくてはならない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-21 06:16 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  二三、或る人、御前に参りたれば、
  酒杯を賜りて仰せに。
  さあ、一杯飲め。この酒飲んだら、
  いやでも極楽まいりせにやならぬぞよ。

  (香樹院語録)

 この法語には「「摂取とは逃ぐるものを執えておき給う」こと也 」と題がついている。二十代は「わかりたい、わかりたい」の一心でしたが、それから四十年、いくら聞いても、いくら聞いても飽きるということがないのは不思議です。仏さまから色んなことを教えていただきましたが、それでもまだ肝心なことを教えていただいていないような感じがして、なにを教えていただけるのだろうと思うとワクワクします。最後まで仏さまはわたしを手放さないということなのでしょう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-20 08:38 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

他力信心他力信心

  二四五、ある時の仰せに。
  他力信心他力信心と聞かせて頂けば誤りはない。
  此方は誤りばかりなれども、
  如来より御與えと思われるならば、
  我れしらず疑いは晴れる。

  またの仰せに。
  皆々は助けたまう御慈悲が、
  他力とまでは聞くけれども、
  信ずる信が他力とは思わぬ。
  それ故、ただ願いぶり、信じぶり、勤めぶりばかりに、
  心を引かれて難儀をするのじゃ。

  又曰く。
  信心を得ることばかり他力のように思う故、
  己が心をもり立てて、とかくの計いがやまぬ。

  (香樹院語録) 

 仏とは「無我」ですから「わたし」(我)がある限り他力(無我)にはならない。信仰とは「無我」(仏)を経験する、この一点です。「ただ願いぶり、信じぶり、勤めぶりばかりに、心を引かれて難儀をする」のは「わたし」に執着しているのです。「無我」とは「わたしがない」ことの確認で、「わたし」がないと知るから「仏」になるのです。

 「わたし」がないからあらゆる罪悪が洗い流される。ない「わたし」に執着するから「ただ願いぶり、信じぶり、勤めぶりばかりに、心を引かれて難儀をする」ので、「わたし」を離れて「わたし」を見る信心の智慧をいただけば、業だけがあって、そこに「わたし」なる主体はないと知る。これが「わたし」から救われるということです。「わたし」がなければ、すべてが「他力」(仏)です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-19 06:40 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

読書法

  二八二、師曰く。信心を得るには、
  あれこれと、種々の書をよまずともよい、
  懇ろに読むなら、『御文』一通でも必ず信は得られる程に。
  其時、秀存曰く。然らば、我は疫癘の『御文』にて信を得て、
  往生を遂げしめ給わんことを決択せん、と。

  (香樹院語録)

 信心とは仏のお心と心が通じ合うことだから(理屈ではなく)経験である。仏書はすべからく「仏とはどのようなお方か」「仏を経験するにはどうしたらいいか」が書かれている。書いた人が伝えたい仏のお心、この一点に集中して読むことが大切です。しかも、数千回読んだくらいでは足りない。同じ文章をそれこそ何万回何十万回と読むうちに感じることが出てくる。言葉を覚えてはいけない。書いた人が伝えたい仏のお心を感じるのです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-18 21:35 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

罪の沙汰無益なり

  二二二、往生の一段について、
  罪のありなしの沙汰は無益なり。
  御恩を喜ぶときは、罪深き身と思いしらば、
  いよいよ喜ばるべき仏恩なり。

  (香樹院語録)  

 人の心が見る世界を「世間」といい、仏のお心が見せてくださる世界を「浄土」という。「罪」とは人が人に与える(マイナス)評価で、世間で生きている限り(功罪の功も含め)評価から逃げることはできない。われらは人の評価に縛られて苦しみ、評価をして人を苦しめる。しかし、浄土には「人」がいないので評価(罪)がない。よって、「往生の一段について、罪のありなしの沙汰は無益なり」という。人がいない、よって評価のない浄土を知ってわれらは罪から救われる。それを「心の往生」という。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-06-17 06:50 | 香樹院語録を読む | Comments(0)