久遠劫より久しき仏

  一 久遠劫より久しき仏は、阿弥陀仏なり。
  かりに、果後の方便によりて、誓願を儲けたまうことなり。

  (蓮如上人御一代記聞書100条)

 竹内先生から「仏とは智慧を与えて救う働きである」と教えていただいた。智慧とは「光」である。物理的な光線ではなく「見える」ことを光という。闇の中では見えないが光の下なら見える。だから、見えたことを「光」という。なにが見えたか。心を縛っている煩悩が見えた。煩悩に縛られていることがわかった。わかったことが煩悩から離れたことである。心が心から離れて心が自由になる。これを「救われる」という。見えるようにしてくださったのは「久遠劫より久しき仏」である。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-10-17 06:10 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

むなしく流転しけるなり

  一 「他力の願行をひさしく身にたもちながら、
  よしなき自力の執心にほだされて、むなしく流転しけるなり」
  (安心決定鈔)とそうろうを、
  え存ぜずそうろうよし、もうしあげ候うところに、
  仰せに、「ききわけて、え信ぜぬもののことなり」と、
  仰せそうらいき。

  (蓮如上人御一代記聞書8条)

 「自力の執心」とは自分の心に愛着して、心が願うことならなんでもしようと決めてかかること。その姿は好きな恋人のためなら命懸けになっている恋狂いのようなもの。みな、人生の目的は幸せになることだと主張している。幸せとは心の満足でしょうが、そう思うことが心の奴隷状態と言っていい。

 「むなしく流転しけるなり」とは心は縁に催されて意味もなくコロコロ転がる。命だから予想などできない。映画の画面が変わるように心境も転変する。生きた心地のしない地獄から精神的な高みにある天上まで、心の生活を六種に分けて「六道」という。自分の心への執着が切れると六道を離れる。このことを「出離生死」といい、この経験を得させたくて「仏道」がある。

 「むなしく流転しけるなり」とはどういうことですかと聞かれて、蓮如上人は「ききわけて、え信ぜぬもののことなり」と答えられた。長いこと聴聞に励んでも理屈を覚えるばかりで、一向に自分の心を捨てる気配がない。そういう人のことだと、お答えになったと。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-10-16 22:45 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

(異義条々 その八)

  一 仏法のかたに、施入物の多少にしたがいて、
  大小仏になるべしということ。
  この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。

  (歎異抄・第18章)

 日本という国に「個の救済」としての仏教を切り開いたのは法然と親鸞でした。「施入物の多少にしたがいて」などというのは宗教儀式としての旧仏教でしょう。親鸞の信仰とはまったく関係がない。親鸞聖人の御一流にこんな人たちが混じっていた。唯円は本当に怒っている。

 以上、異義八箇条を読んでみました。唯円は「右条々はみなもって信心のことなるよりおこりそうろうか」(後序)と総括しています。信心とはなにか。目に見えない仏のお心は心で感じることができる。仏と一対一の対話の関係ができる。それが信心です。


 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-10-15 19:26 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

辺地の往生をとぐるひと

(異義条々 その七)

  一 辺地の往生をとぐるひと、
  ついには地獄におつべしということ。
  この条、いずれの証文にみえそうろうぞや。
  学生だつるひとのなかに、
  いいいださるることにてそうろうなるこそ、
  あさましくそうらえ。

  (歎異抄・第17章)

 「辺地」とは国境の外れの地。都から遠く離れ、王様の威令すら届かない辺鄙な地。野蛮の地。そんな語感があります。浄土にも「辺地」があるというのでしょう。生涯、聴聞に励めども、心は素直ではなく、仏の声を聞こうともしない。仏の声が届かない辺鄙な田舎に住んでいても「ここも浄土の内」とばかり平気でいるのでしょう。これは喩えです。

 仏教といえば「死後」のことだとみな思っている。浄土も地獄と並べて死後の世界だと信じられている。そう信じている人のために「方便化土」が教えられている。しかし、信心とは現在に仏心をいただくことですから、浄土は現在に開ける。現在に開ける浄土を(化土に対して)「真実報土」というのでしょう。

 浄土とは仏のお心のことです。仏のお心と心が通じ合うことを仏のお心に生まれるという。大きなお心の中に摂取されて小さな心を見せていただく。このようなことを「往生」というのでしょう。死んで浄土に生まれるといっても証拠がない。生きているうちに経験するから疑いが晴れる。仏はわたしに仏を経験させて喜ばれる。仏が喜ばれるからわたしも嬉しい。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-10-14 22:20 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

(異義条々 その六)

  一 信心の行者、自然に、
  はらをもたて、
  あしざまなることをもおかし、
  同朋同侶にもあいて口論をもしては、
  かならず回心すべしということ。
  この条、断悪修善のここちか。

  (歎異抄・第16章)

 異義者はなんと言っているか。信心を得たほどの人(信心の行者)なら、身口意の三業で造る悪ごとに自ずと回心懺悔されなくてはならない。それが(親鸞の教える)「自然」ということだと、そう主張するというのです。「はらをもたて」が意業、「あしざまなることをもおかし」が身業、「同朋同侶にもあいて口論をもして」が口業に配置されている。それに対して唯円は、「回心」と「自然」の二つについて、その間違いを糺している。まずは「回心」について。

 一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし。その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ。(同・第16章)次いで「自然」について。
 
 信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします。(同・第16章)

 わたしの意志に関係なく働くから「他力」といいます。どんな働きか。心が心から離れるようにする働きです。われらの普段の心は自分の心を主人と崇め、召使のように従順だ。だから、自分の心と一緒になって、自分の心が造る六道をへ巡り、あらゆる苦悩を舐めさせられる。この苦悩を逃れる方法を「仏道」といい、苦悩のない処を「涅槃」(浄土)という。「他力」(仏)を初めて自覚する経験を「信心獲得」(初歓喜地)といい、働きを自覚するので、後はなにもしなくても仏が涅槃へと導いてくださるのがわかる。それで「自然(法爾)」といいます。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-10-11 12:24 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)