道は恕恩にあり

  四、道は恕恩にあり。恕恩と云えば想いやること也。
  人の心の食い違いは常のことなり。
  男と女と、年寄と若者と、賢いものと愚なものと、
  達者なものと病人と終に食い違うべし。
  向うの方え尤もをつけて想いやりてみれば、腹は立たぬ也。
  この想いやると云う一つを以って、あらゆる道をつらぬくと云うは、孔子様の教なり。
  我が心かなはずとも、向うの身になれば、尤もじゃと思えば心安楽。

  (香樹院語録)

 世間という処は自分の思い通りにしたい心と心が猛スピードで行き交い、いつでも、どこでも交通事故を起こしている。死者もけが人も出る。「向うの方え尤もをつけて想いやりてみれば、腹は立たぬ也」とは安全運転の秘訣でしょう。思い通りにできたことだけが人生の財産、思い通りにできた自分だけが価値がある。そんな人生観を見直さない限り、怒りから自由にはなれない。

 

南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-05-20 06:54 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

いやでも引きよせられる

  二七九、助かりたいと思う我等の心は疎なれども、
  助けたいの大悲の念力に引きよせられて、
  必ず必ず疑いは晴るるほどに。
  危げなく此世を暮し、御称名を励まっしやれ。

  (香樹院語録)  

 いま起きている"ありのまま"の事実を"如来"という。自分に不都合だからといって心が事実を受け入れられない。それを"疑い"という。事実を拒否することは如来を拒否する。だから苦しむ。どんな事実も誰かに都合よく、誰かに都合が悪い。事実はただ事実で"如"であるが心が"如"になれない。しかし、いま、ここで起きていることだけが"如来"であるから"あるがまま"になれと「大悲の念力に引きよせられて」、いつか事実を心に受け入れることができる。"あるがまま"を受け入れることを「疑いは晴るる」という。心の不都合を捨てて"無我"になることを"南無"といい、事実を事実と受け入れることでわれらは救われる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-05-19 06:21 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

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  六一、ああ、地獄え堕ちそうでどうもなりませぬが、
  それはいかがと申し上げたるとき、
  我れも心が悪い、と仰せあり。
  又のとき、ああ早う迦陵頻迦の声がききたい、と仰せありき。

  (香樹院語録)  
  

 同じ「心が悪い」でも、ある人は「地獄え堕ちそうでどうもなりませぬ」と未来を心配し、香樹院師は「早う迦陵頻迦の声がききたい」と未来を楽しみにしている。心は問題ではない。信仰があるかないか、それだけです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-05-18 06:59 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

ただ聞くばかりと喜べ

  二九一、願力無窮にましませば、
  罪業深重もおもからず。
  仏智無辺にましませば、
  散乱放逸もすてられず。

  一生罪を造れども障りになるとも仰せられぬ。
  思い切って罪の沙汰無益なり。
  十方浄土中、唯有一乗法、無二亦無三。
  聖道の人々は一衣一鉢の身となりて、
  生々世々難行苦行してさえ悟られぬ悟られぬと歎き給うに、
  この私は愛妻愛子の我がままながら、
  心つくして聞くばかりで往生すると思わば、
  今日より仏法三昧になるべし。
  三昧とは、それに心を止めて余のことを思わぬこと。
  余人のよしあしを心にかけず、
  我が後生ばかり安堵せば、
  この世ばかりにあらず無量劫の本懐満足なり。

  (香樹院語録)   

 仏法は事実に立つ。事実とは"いま""ここ"のことです。"いま"は"いま"にいては見えない。"ここ"は"ここ"にいては見えない。"いま"を見る眼は未来にあり、"ここ"を見る眼は彼岸にある。"いま""ここ"を見る眼を仏眼といい、"いま""ここ"にあるわれらの眼ではないから、"いま""ここ"が見えたら「如来回向」というのです。仏の眼に見えるわれらの事実を「罪業深重」「散乱放逸」といい、ありのままの事実を見せていただいたから、われらは事実を事実と受け入れて、もうジタバタしない。聖道の人はこれを「悟り」というが、われらは「心つくして聞くばかりで往生する」から、これを「信心」という。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-05-17 06:17 | 香樹院語録を読む | Comments(0)