信は聞思に局る

  二七〇、江州長浜御坊にて或る人に対せられて、  
  後生大事になると、念仏申す所までは行けるが、
  それから先きえは、中々容易に行かれぬ。と仰せられける。
  然らば如何致すべきや、と尋ね上げたれば、
  心にかけて聞き聞きすると、御慈悲から、
  きっと聞きつけて下さるる程に。との仰せなりき。

  (香樹院語録) 
   

 この法語には「信は聞思に局る」と題がついている。「聞思」とは聞いてよく考える。法を学ぶのではなく自分の心の問題として聞く。勉強するように法を聞くから「それから先きえは、中々容易に行かれぬ」となる。結局、「念仏申す所までは行けるが」信に届かない。これが念仏するが信がわからない人の姿である。

 どんな人も時々に「人生問題」を抱える。一生背負って歩く重い問題もある。これが法を聞く材料になる。人生問題は"外"の問題であるが、問題をつくる「自分の心」に着目すれば"内"なる「生死の問題」になる。「心にかけて聞き聞きする」と仏法がずっとわかりやすく、聞き方も深くなる。信とは心の問題の決着である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


# by zenkyu3 | 2017-08-13 06:43 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

仏法は聴聞にきわまる

  二九、ある人の尋ねに。どうも薄紙隔てたようで御座ります。
  仰せに。そうじゃ。おれが身でもお前でも、薄紙どころじゃない、
  渋紙ほど厚い。それを破ってくだされるのが御化導じゃ程に。

  (香樹院語録)

 信心とは仏の心をいただく。とてもとても「薄紙隔てた」程度のことではない。その大変さがわからぬから「どうも薄紙隔てたようで御座ります」となる。すかさず「薄紙どころじゃない、渋紙ほど厚い」と香樹院師は注意する。この法語には「仏法は聴聞にきわまる」と題がついている。聴聞とは仏心をいただいた善知識のお姿から生きて働く仏心の脈動を直に感じさせていただく機会である。勉強の場ではない。勉強している限り「わかりそうでわからない」で終わる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


# by zenkyu3 | 2017-08-12 06:47 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

命がけで聞けば聞こえる

  一一一、或る人、御面倒さまながら、
  御一言御聞かせ下されと申し上げたる時、仰せられ候。
  仏になるほどの事、一口や二口で聞かせられようか、
  自力の修行なさるる御方は、無量永劫御修行なされても、
  證られぬ證られぬと御嘆きなされるに、
  今五日や七日聴聞して、仏になろうと云うは、
  横着な心ゆえ信が得られぬのじゃ。
  なんでも、命がけで聞けば聞こえる。別なことを聞くのでない。
  同じことを聞き聞きすると、聞こえて下さるるのじゃ。
  ちやうど、染物にするに、藍壺のなかへ
  幾度も幾度もよく染めた所で上紺になる。
  よく染め揚げたが信心じゃ。

  (香樹院語録)

 この話の「或る人」は、尊い善知識とも知らず「御面倒さまながら、御一言御聞かせ下され」と、実に非礼なことに、なにも聞きたいことがない。信仰上の疑問を晴らすための聴聞である。疑問がなければ聴聞の場に来る必要がない。疑問に答えられない先生なら別の先生を探すべきである。「別なことを聞くのでない。同じことを聞き聞きすると、聞こえて下さるるのじゃ」。信仰上の疑問とはそうない。つきつめれば一つである。「なんでも、命がけで聞けば聞こえる」。一つの疑問を晴らすために、ようやく人に生まれさせていただいたのである。あなたが本当に聞きたいことはなにか。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


# by zenkyu3 | 2017-08-11 06:54 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

親子の愛はひたひたする

  二〇四、とうとむ人より
  とうとがる人がとうといと法敬房のいわれたを、
  蓮如上人は面白きことを云うと仰せられた。
  まことの信を得ぬ人は、
  これが報謝じゃと云うて
  なにか極楽えまいらせくださるる御礼を、
  如来さまに進ぜ申すように思うて居る。
  そこでどうやらひたひたとせぬ。
  まことの信を得た人は、
  如来さまに助けられた身体じゃもの、
  大悲の心に納めとられた身体じゃものと思うて居る故に、
  何を云うても唱えてもひたひたとするは、
  親子の愛のあるしるしじゃ。

  (香樹院語録) 
 

 仏のお心と心通じ合うことを「感応道交」という。信心は仏のお心を経験することであるから理屈をいくら覚えても仏と心通じ合うことはない。仏は求める心に応じて現れてくださるからである。あなたが本当に救われたいと願えば必ず救ってくださる。だから、仏を経験した人の言葉からは仏のお心がちゃんと伝わってくる。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


# by zenkyu3 | 2017-08-10 06:56 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

一生造悪のものなり

  四二、五善五常を守りたとて、善人となれるにはあらず、
  一生造悪のものなり。死ぬるまで貪瞋煩悩は絶えぬなり。
  この悪人を助けようの本願なり。
  少し身の嗜みが出来れば、はや善人になりた様な驕慢の起るは、
  まだ己が胸の明かならぬ也。

  (香樹院語録) 
 

 憎い人は心がつくる。問題は外にあるようだが問題をつくるのは心である。これが信仰の据わりである。外に求めれば諸行無常、終わりがない。内に求めれば涅槃がある。内なる無明を破れば苦悩の終わりがある。命の帰る場所がある。この身と心は久遠劫よりの宿業でできている。五十年、百年でどうなるものではない。「一生造悪」「死ぬるまで貪瞋煩悩は絶えぬなり」。貪瞋煩悩が生きる姿である。その醜さ、浅ましさに耐えなくてはならない。事実を事実と受け入れるのが正しい信仰の姿である。事実を受け入れると失うものがある。それがあなたが執着しているものだ。身への執着はいましばらく耐え、心への執着は今すぐ捨てられる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


# by zenkyu3 | 2017-08-09 10:43 | 香樹院語録を読む | Comments(0)