心に着すれば邪に同じ

  二二〇、『摩訶止観』の破法篇に、
  「觀法雖正着心同邪」
  (観法は正といえども心に着すれば邪に同じ)
  とのたまいて、正しき観念の法を以って思惟しても、
  その観念に於て執着の念が生ずると邪に同ずるゆえに、
  破してしまわねばならぬとあり。

  今も、ただ聖教によりて伺えども、
  一文に偏執し一理に固執する時は、
  その学問より其の執着に種々の道理をつけて、
  まことの聖教の真面目を失い、
  雖正同邪の風勢になり行くとすれば、
  相互の我が非を人より改めてもらい、
  共に共に相談すべきこと也。

  (香樹院語録)   

 われらは執着するものに縛られる。執着するものに繋がってしまう。求めて得られないことを「苦」というが、苦の原因は執着である。結果としての苦だけを問題にして原因としての執着が見えていないから「無明」である。「自業自得」といって、自分で造った苦であるから自分で解決できるのである。自力であれ、他力であれ、内なる執着を破ることを教えるのが仏道である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-04-20 06:25 | 真宗の眼目 | Comments(0)

これなりで助けられる

  七〇、新井の妙意、御病中に参り申し上げて云うよう。
  いよいよこれなりで、助けられるので御座りますか。師の曰く。
  そうじゃそうじゃ、勧めるものも其処をよく教え、
  聴聞するものも其処をよく聞かねばならぬことじゃ。

  (香樹院語録)  

 なにから救われるかといえば、自分の心から救われる。心あるゆえに苦しむ。どんな心か。事実を受け入れられずにあれこれ理由を探す心だ。事実を疑い納得できる理由を探す。しかし、納得できる理由はない。事実を受け入れない心は事実に苦しめられ続ける。苦しみから救われるには納得したい心を捨てる。

 事実を疑う心を捨てる。理屈ではない。理屈に立った心からすれば「なにもわからない」となったところが救いである。わかりたい心が捨てられた。「わかろう」が自力のはからい。「わからなくていい」が他力のはからいなし。頭の中の妄念妄想を捨てて事実に立つ。事実は大地、こぼれ落ちようがない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-04-19 10:07 | 真宗の眼目 | Comments(0)

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  八一、或る人、後生と云うことを存じませぬ、
  と申し上げたるとき、仰せに。
  それ知らるるまで容易でない。

  (香樹院語録)  

 後生は仏である。色も形もない一如になる。汚れも穢れもない空である。空から一切が生じ、一切は空に還る。還るところがわからずに迷っている。安心して死ぬことができない。後生とは生の後ろ、生の背景である。背景がわかってこそ今がわかる。還るところがわかるから安心して迷える。最後はそこに還る。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-04-18 22:55 | 念仏のすすめ | Comments(0)

  三三、みな人は、信をとらんと思い、
  また、たのみ心にならんと思えり。
  それはあんまり、欲が深すぎると云うもの也。
  取ることばかりに骨折って、
  自力を捨てることに骨を折ることを知らぬの也。
  碁をうつにも捨石が大事なり。
  信を得るにも、雑行をすてることが大事也。

  香樹院語録)

 「自力を捨てる」とは具体的には自分の考えを捨てる。主義主張、信念、価値観、正義といった尺度を捨てる。起きていることに"いい悪い"を言わない。起きたことに"好き嫌い"を言わない。起きていること、起きたことは"わたしに関係なく"起きている。起きていることになにか影響を与えられると考えるなら傲慢である。環境を支配できるという考えは滑稽ですらある。わたしに出来ることは起きたことに対応することだけで、なぜ起きたかなどと理由を考えてもわからない。起きたことをそのまま頂いて、とくになにもない。それを「自力を捨てる」という。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-04-17 21:52 | 真宗の眼目 | Comments(0)