御正忌の御文

  「南無」という二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、
  うたがいなく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
  さて「阿弥陀仏」という四つの字のこころは、
  一心に弥陀を帰命する衆生を、ようもなくたすけたまえるいわれが、
  すなわち「阿弥陀仏」の四つの字のこころなり。
  されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、
  信心をとるとはいうなり。(以上、一部抜粋)

  (御文・第五帖・第十一通)

 南無とは「たのむ」わたし。阿弥陀仏とは「たすける」仏。わたしと仏が二つで一つ、仏とわたしが心通じ合うことを南無阿弥陀仏といいます。「うたがいなく一心一向に阿弥陀仏をたのむ」とは無我になることです。心が空(から)になると、空になった心を仏の心が満たす。仏の心が顕になる。わたしを離れて仏はなく、仏を離れてわたしもない。仏とわたしの、一つで二つ、二つで一つの関係を南無阿弥陀仏という。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2018-01-18 06:17 | 御文を読む | Comments(0)

聖人一流の御文

  聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候う。
  そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、
  不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまう。
  そのくらいを「一念発起入正定之聚」(論註意)とも釈し、
  そのうえの称名念仏は、如来わが往生をさだめたまいし、
  御恩報尽の念仏と、こころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ。

  (御文・第五帖・第十通)

 信心とは真心、真(まこと)の心、真とは仏。すなわち信心とは仏の心のことです。よって、「信心をもって本とせられ候う」とは、仏の心を本として生きるという意味です。いままでは自分の心しか知らなかった。だから、自分の心を主人として仕え、自分の心を喜ばす、満足させるためだけに生きてきた。しかし、いまは仏の心を知った。これからは仏の心を主人として生きることができる。

 では、真心はどうやって獲得するか。蓮如上人は「一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまう」と示してくださった。一心帰命とは無我になることです。心が空(から)になると、そこに仏の心が入ってくださる。「一念発起入正定之聚」、自分の心を捨てた瞬間に仏の心が顕れる。仏の方からわたしが見えるから「仏のかたより往生は治定せしめたまう」という。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2018-01-17 06:48 | 御文を読む | Comments(0)

末代無智の御文

(御文を読む・第一回)

  末代無智の、在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして、
  阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、
  一心一向に、仏たすけたまえともうさん衆生をば、
  たとい罪業は深重なりともかならず弥陀如来はすくいましますべし。
  これすなわち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。
  かくのごとく決定してのうえには、
  ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、
  称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

  (御文・第五帖・第一通)

 竹内先生は、お勤めの最後にときどき「白骨の御文」を読まれましたが、先生が蓮如について語ったのを聞いたことがありません。大谷派では蓮如があまり好きではないのだろうと思っていた程です。それはそれとして、蓮如もまた信心の人で、教科書のごとき御文の簡潔明瞭さの背景には信心に育てられた深い信仰生活があります。そこのところに触れられるように読んでみたい。〈御文を読む〉の基本方針です。さて、最初に読むのは『真宗大谷派勤行集』に収められている「末代無智」「聖人一流」「御正忌」「白骨」の四通の御文です。

 竹内先生の口癖だったように思いますが、「仏は救われない者を救う」とよく言われました。どう言うことかというと、救われないという罪の深い自覚があればこそ「仏たすけたまえ」と一心一向に救いを求めるのであるということです。「仏たすけたまえともうさん衆生をば、たとい罪業は深重なりともかならず弥陀如来はすくいましますべし」。読み方によってはいかにも型通りになってしまいますが、「罪業は深重なり」との自覚を掘り起こす作業が聴聞なのでしょう。善人面こそしているものの、その実、内心深くにみな罪業を隠しているからです。善人でいられなくなったら、仏の助けが必要になるが、なかなかそこまで聞けない。


 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2018-01-16 13:40 | 御文を読む | Comments(0)

  一 聖人の御一流は、たのむ一念の所、肝要なり。
  故に、たのむと云うことをば、代々、あそばしおかれそうらえども、
  委しく、何とたのめと云うことを、しらざりき。
  しかれば、前々住上人の御代に、『御文』を御作り候いて、
  「雑行をすてて、後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめ」と、
  あきらかにしらせられ候う。
  しかれば、御再興の上人にてましますものなり。

  (蓮如上人御一代記聞書188条)

 「弥陀をたのむ」となぜ仏になるのか。「たのむ」とは、主人とする、頼りにして仕える、つき従う、という意味です。なにをたのむかというと「弥陀をたのむ」、阿弥陀仏に南無する南無阿弥陀仏です。いままでは自分の心を主人として、自分の心に仕えてきた。自分の心と完全に一体となって、自分の心を満足させるためだけに生きてきた。自分の心に南無する南無・自分の心です。心に二つあるとは知らなかった。仏の心を主人とするを他力、自分の心を主人とするを自力というが、どちらを選んで南無するかはあなたが決める。


 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2018-01-15 06:06 | 特集「蓮如上人御一代記聞書」 | Comments(0)

  一 いたりてかたきは、石なり。
  至りてやわらかなるは、水なり。水、よく石をうがつ。
  「心源、もし徹しなば、菩提の覚道、何事か成ぜざらん」といえる古き詞あり。
  いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、
  御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。
  ただ、仏法は、聴聞にきわまることなりと云々

  (蓮如上人御一代記聞書193条)

 試みに現代語訳。蓮如上人の言葉。最も硬いものは石である。その硬い石を最も軟らかい水が穴をあける。「心の源まで深く深く降りて行けば仏に遇う」という古い言葉がある。いかに仏の声が聞こえずとも、岩を打つ一滴のしずくのように、ただひたすら生涯かけて聴聞すれば、いつかきっと、あなたの心に仏のお心が届くのである。だから、命懸けで聴聞しなさいと、蓮如上人は言われました。


 生涯、聴聞している。真実に引かれて聴聞しているだけだから聴聞することに理由は求めなくてよい。信心を得ていようと得ていまいと、聴聞することが最も人らしい生き方ではないか。我を超えた大きな心に、これでよいですかと、問い続ける。仏のお心がわからずとも仏はあなたのことをよく知っている。信心は宿善の開発で、信心は与えられてくるものだから、あなたが求めたから得られるという理由はない。聴聞する。お念仏する。みな仏のお育てであるから、信を得ようと得まいと、真実に引かれるままに、お念仏もし、聴聞もする。


 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2018-01-14 06:02 | 特集「蓮如上人御一代記聞書」 | Comments(2)