仏法は内心に深く蓄えよ

  一 「王法は額にあてよ。仏法は内心に深く蓄えよ」との仰せに候う。
  仁義と云う事も、端々あるべきことなるよしに候う。

  (蓮如上人御一代記聞書141条)

 親鸞は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(歎異抄・後序)と言った。「念仏」(信心の智慧)という「まこと」を見つけたから、人の心も人の世も「まこと」がないとわかった。「まこと」を見つけられた人生と、生存だけで終わる人生とでは比較にもならない。

 「王法は額にあてよ」とは世間を捨てる。法を聞くためだけの人生であるから、常識的に生きて世間とは争わない。外ではなく、内に向かう。「仏法は内心に深く蓄えよ」と。信仰の生活とは仏との一対一の対話だから、他人の介在する余地がない。仏を知らない不信の人は信仰が理屈にとどまる。理屈は賛同を求めるから必ず争いとなる。信心の人は他に賛同を求めない。内心深くに信仰を隠して一人楽しむ。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-11-20 06:20 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 「今生の事を心に入るるほど、仏法を心に入れたき事にて候う」と、人、申し候えば、
  「世間に対様して申す事は、大様なり。ただ、仏法をふかくよろこぶべし」と云々

  (蓮如上人御一代記聞書279条)

 聴聞の場で、ある人が「人生と同じくらい仏法も大切にしたい」と言った。それを聞いた蓮如上人が「生きるために仏法を学ぶのではない。仏法を学ぶために生きているのである」と言った。超意訳するとこんな感じでしょうか。ここのところがみなわからない。命が大事なのは命より大事な目的があるからです。念仏者は生存を楽しむために生きているのではない。

 ちなみに、親鸞は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(歎異抄・後序)と言った。歎異抄を読む人はこれを心に入れなくてはならない。人の心、この世には「まこと」はないと、はっきりと言い切っている。価値がないもののために大切な命を使っていいのかと容赦なく迫ってくる。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-11-19 06:11 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

歎異抄・第八章の読み方

  一 念仏は行者のために、非行非善なり。
  わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。
  わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。
  ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、
  行者のためには非行非善なりと云々

  (歎異抄・第8章)

 「わがはからいにて」とは「自分の意志で」ということです。だから「他力」とは自分の意志ではないということです。自分の意志に関係なく、この身に働く「他力」というものがある。自分の意志に関係なく働くから「自然」ともいう。第八章は、自分の意志とは関係なく働く「他力」というものがある、と教えている。頭で考えても「他力」はわからない。経験すれば、一瞬に疑いが晴れる。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-11-18 06:30 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

  一 仏法には、万事、かなしきにも、かなわぬにつけても、
  何事に付けても、後生のたすかるべきことを思えよ。
  よろこびたきは、仏恩なりと云々

  (蓮如上人御一代記聞書300条)

 われらは受け入れられない事実に苦しむ。「かなしきにも、かなわぬにつけても」「何事に付けても」ありのままを受け入れて、なんの疑いもなければ「なぜ」の苦しみはないが、不都合な事実はなかなか受け入れられない。「前向き」な理由を見つけて受け入れようと努力するが、いつもいつも都合よく理由が見つかるわけではない。

 生老病死を「四苦」という。思い通りにならない事実を拒否して自ら苦しむから「苦」という。あなたは思い通りにしたい「我」を捨てられない。回りの人もあなた同様、思い通りにしたい「我」を捨てられない。あなたは自分の「我」に苦しみ、回りの「我」との闘争をやめられない。自分を諦め、人生を諦め、人の世を諦めるを「後生のたすかる」というが、あなたはきっと死んでも諦めない。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-11-17 06:03 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 万事に付けて、よき事を思い付けるは、御恩なり。
  悪事だに思い付きたるは、御恩なり。
  捨つるも取るも、何れも、何れも、御恩なりと云々

  (蓮如上人御一代記聞書298条)

 親鸞は「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」(歎異抄・後序)と仰いました。煩悩具足の凡夫に善悪の本当の区別はつかないものであるとの独白です。つかないのにあれこれと善悪を区別しては好き嫌いをいう。好き嫌いを言っては自ら苦しんでいる。凡夫のわれらにはなにもわからないのであるから、すべてを仏さまの御はからいに任せて、なんの疑いもない。それを「何れも、何れも、御恩なり」というのでしょう。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-11-16 14:26 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)