一五九、聴聞したお謂れの覚えられたか覚えられぬかを、
  吟味するには及ばず。

  (香樹院語録)

 この法語には「語を聞かずして意を体せよ 」と題がある。聴聞の秘訣は言葉ではなく言葉が伝えようとしている心を感じることだというのでしょう。信心は「感応道交」といいますから、仏さまのお心とつながるように、仏さまのお心を感じるように聴聞することが大切です。心は形がないから心を感得した人が言葉で心を伝えてきました。いわば、水(心)は器(言葉)に入れて運ばれる。器は水を容れるだけの用ですから、器に気を取られてはいけない。コップを渡されたらコップを眺めていないで、すぐに中の水を飲むことです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-09-23 06:21 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

宿善

  一四三、鷹には経緒と云うものを付けておくゆえ、
  何処え飛びまわっても、つづまるところは鷹匠の拳えとまるように、
  我等には宿善と云う経緒が十劫正覚の古から付けられてある故、
  遂には手繰とられて、平等施一切の御回向によって名号の宝珠をもらい、
  御助け候えの帰命の信心が起るなり。

  (香樹院語録) 
  

 「救われる」というが、なにから救われるかといえば、「自分の心」から救われるのが仏道である。「自分の心」を価値とも意味ともするわれらにとり「自分の心にだまされるな」と言われても、なかなか聞けるものではない。そんな仏法を生涯かけて聞かせようというのである。どこからそんな力が出て来るのか、まこと不思議である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-09-22 06:34 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

断見、常見

  七三、断見ー因果業報を知らず。地獄極楽をなしと執ず。
  常見ー無常迅速を知らず。他力の方便を知らず。

  (香樹院語録)

 「断見」は死ねば終わり。過去も未来もない。しかし、現世は前世の結果であり、現世は来世の原因である。過去と未来を否定すれば現在もわからなくなる。よって、ただ生まれてただ死ぬだけの虚無である。信仰も道徳も成り立たない。「常見」とは魂は死なない。身と心を区別し、心は魂となって生まれ変わるから死はない。魂は自我の変形態で心への執着によって妄想される。心への執着が苦悩の根本原因であるから、仏教は魂を否定する。

 よって「断見」も「常見」も仏教ではない。仏心はすべてを受け入れるから「無我」(無霊魂)であり、この身に蓄えた宿業に縛られた人の心に超越するから三世に縛られない。因果を明らかにした上で、因果にも縛られない。仏教は人の心が造る迷いの境地を「六道」と示し、六道を超越した悟りの境地を「涅槃」と教えている。この身は死ぬ。しかし、永遠不変の仏心に触れた心は不死を得る。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-09-21 06:26 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

綾五郎の臨終

  一七、綾五郎、命終に臨んで尋ねて曰く。
  私、生涯御法を聞き、此頃は日夜に六万遍の念仏を申して日課にいたし、
  本願を心にかけ居り候えども、信心なくば、
  空しく三悪道へ帰ると仰せらるるを思えば、誠に歎かわしく候、と。

  予、是れに答えて云う。
  念仏を多く申して仏に回向するさえ、仏しろしめして辺地の往生を遂げしめ給う。
  まして念仏申し本願に心をかけ、そのうえ信の得られぬ事を悲んで、加被をまつ。
  是れ辺地の往生疑いなしと。 (以下略)

  (香樹院語録) 

 信を得たと信を得ぬとの区別は仏さまにはおありにはならない。仏さまは区別されているのではないかとの僻み心が取れぬゆえの「辺地の往生」ではないか。綾五郎、「私、生涯御法を聞き」と言うがすでに驕慢心である。それゆえ「日夜に六万遍の念仏」を仏さまに押し付ける。仏さまからすればすでに救ってある。われらからすれば救われてないと思う。無条件の救いに「日夜に六万遍の念仏」の条件をつけるのが疑いの心である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-09-20 14:29 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

愚者になりて往生す

  故法然聖人は、
  「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、
  たしかにうけたまわり候いしうえに、
  ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、
  往生必定すべしとてえませたまいしをみまいらせ候いき。
  ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、
  往生はいかがあらんずらんと、たしかにうけたまわりき。

  (末燈鈔・第六通)

 文応元(1260)年、弟子の乗信に宛てた親鸞八十八歳の手紙です。「ふみざたして、さかさかしきひと」に言い惑わされてはいけないとの手紙の主旨です。学者や学僧は物知りだが信心がない。われらは知識が欲しいのではない。救いが欲しい。救いを必要としたことのない物知りの話をいくら聞いても救いはない。物知りになって救われるわけではないからだ。仏のお心と心通じ合うこと、これだけがすべてである。信をいただけば、あとは仏のお育て、後生のためにすることはなにもない。ただ、ありがたい、ありがたいで往生する。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-09-18 06:18 | 御消息集を読む | Comments(0)