善悪のふたつ存知せず

  聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。
  そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
  よきをしりたるにてもあらめ、
  如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
  あしさをしりたるにてもあらめど、
  煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
  よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、
  ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそおおせはそうらいしか。

  (歎異抄・後序)

 親鸞は「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」と言った。どういうことかといえば、なにもわかりません。なにが善でなにが悪かなど、仏でもない自分にわかるはずもありませんと、そう言った。わかろうとすることが終わった。念仏一つが残った。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-04-26 09:09 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

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  四五、秀存師ある時、「真心徹致するひとは、
  金剛心なりければ、三品の懺悔するひとと、
  ひとしと宗師はのたまえり」とある和讃の御意を尋ね給いければ、
  師はやや暫らく黙し給いて後、
  智慧第一の舍利仏でさえ、四十年の間聞いても分らぬ仏法を、
  少しばかり聞いて解了しようとは、無理なことじゃ。
  とのたまいければ、秀存師はただ、ヘイと云いて退出ありしを、
  傍見しまいらせしと、栗尾太助の話。

  (香樹院語録) 

 分別とは頭でつかむ。頭でつかんだ事実は観念であって事実ではない。仏法は分別以前の事実に立つ。この一点が仏法です。自分に都合のよい事実の解釈は頭の数だけあるが解釈以前の事実は一つしかない。考えても考えても考えている限りは事実には到達しない。いま起きていることを解釈するからです。考えを止めた一瞬がそのまま事実です。この無分別の一瞬を経験すれば求めるものなどなにもなかったと知る。これを経験させるために仏法はあるのです。われらはなに不足のない事実を生きているが心はいつも事実から遠く離れた処にあって苦しんでいる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-04-23 21:56 | 真宗の眼目 | Comments(2)

今宵死ねば今宵が極楽

  三〇、左太沖の詩に、「何必糸兼竹、山水有清音」
  (何ぞ必ずしも糸竹を兼ねん。山水に清音あり)と作りしは、
  世間の人は、糸竹音曲ばかりを楽のように思うが、
  山の奥に世を遁れた身は、世間の楽の音はなけれども松吹く風の音、
  谷の流れの音など、よくよく思えば世の塵に離れたる所は、
  糸竹に優った妙な楽であると、人の知らぬ楽みを詠んだ詩なり。

  今、念仏行者は世の人から見れば、窮屈のことと見ゆれども、
  この御信心を得た楽みは、後生知らずのものや、疑いの晴れぬものの知らぬ楽みで、
  思えば思えば露の命、明日も知れぬ、遠い極楽と思うたは我が誤り、
  今宵死ねば今宵が極楽と思えば、人の知られぬ楽しみのあるのが、念仏行者じゃ。

  (香樹院語録)

 「信心を得た楽しみ」「人知られぬ楽しみ」とはどのようなことか。「世の塵に離れたる所は」と暗示するように、「今宵死ねば今宵が極楽」、いつ、どんな死を死んでもいまが極楽、すなわち、いま、すでに心が(娑婆を離れた)極楽にあるというのです。娑婆を離れた極楽から娑婆を見て暮らす楽しみ、娑婆の景色を観光して歩く通りすがりの旅人の楽しみでしょうか。

 信心の人の心はすでに身体から解脱しているから死はまったく問題ではない。心はすでに浄土にあるのだから、あらためて、死後に浄土に生まれる必要もない。いまさら生まれる処などないから「今宵死ねば今宵が極楽」、すなわち、いまが極楽、これを「信心を得た楽しみ」「人知られぬ楽しみ」というのでしょう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-04-22 20:41 | 往生の生活 | Comments(0)

  八二、公儀ある民に我が田地なし。
  先祖ある子孫に我が家なし。
  親ある子に我が身なし。
  主人ある家来に我が命なし。
  師ある弟子に我が智慧なし。
  夫ある女に我が財なし。
  されば公儀に任せたる民に刑罰なし。
  先祖に任せたる子孫に過なし。
  親に任せたる子に不孝なし。
  主人に任せたる家来に不忠なし。
  師に任せたる弟子に迷いなし。
  夫に任せたる女に不貞なし。
  風に任せたる柳に雪折れなし。
  仏に任せたる衆生に迷いなし。

  然るに、任すまじき事ただ一つあり。
  「其のまま我が心にまかせては、
  必ず必ず誤りあるべし」と、先徳はのたまえり。
  今日の我れ人は、生々世々、我が心に任せし故、
  迷いの凡夫とはなりしぞかし。

  (香樹院語録)   

 わが心のままに生きることを放逸無慙という。わが心に騙されて、騙されていることにも気づかないほど巧みにわれらは騙されている。騙されていると気づけばわが心を疑うが、騙されているという智慧はわが心からは決して出てこない。わが心が騙しているからである。わが心を信ずるを自力、仏のお心を信ずるを他力という。わが心を捨てて仏を信ずる、これが一度の宗教的な決断である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-04-21 08:45 | 真宗の眼目 | Comments(0)