回心ということ

  一向専修のひとにおいては、
  回心ということ、ただひとたびあるべし。
  その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、
  弥陀の智慧をたまわりて、
  日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、
  もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、
  回心とはもうしそうらえ。

  (歎異抄・第16章)

 智慧は心が見える。心が見えるようにして救う。知らなかった智慧(仏)を始めて知るから「弥陀の智慧をたまわりて」という。智慧を与えて救う、これが仏のお慈悲。心は心に執着しているからいつだって心の求めることをしたい。心に夢中になっている。いつも執着の火だるまになっているが、火だるまになっていることがわからない。

 心から出てきた「思い」の通りにしなくちゃと、いつも心に支配されて自由がない。こんな心に智慧が働く。火だるまになっている姿を見せる。火に水をかける。心ははっとして心を見る。これが「弥陀の智慧をたまわりて」という体験だ。智慧を一度いただけば、火だるまになっては、はっと気づいて心を離れる。これが出来るようになる。この繰り返しが一生涯続く。これが智慧、これが仏道になる。

 生きることが煩悩、煩悩あるかぎり智慧の救いは働き続ける。煩悩は無量、無辺だから、煩悩の火が消えるまで智慧の救いの活動は続く。これがこの胸の中で起きていることだ。そして、この身が滅するとき、この身に起きていた智慧の救いの事業、衆生済度も終る。この身を救い終わって成仏する。この身に現れた仏が成仏する。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-07-23 19:59 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

  二九五、安政四年十二月三日、
  了信、御枕許にて申し上ぐるよう。

  先年長浜にての御聞かせ、
  あら恐ろしや恐ろしやあら嬉しや嬉しやの思いの起らぬは、
  無宿善じゃとの御意で御座りましたが、
  今私もようよう其処えとどかせて頂きました。
  これは私が罪造りながら知らずにいることを、
  御知らせ下さるることで御座りますか。

  仰せに。そうじゃ。
  凡夫と云うものは生れ落ちるから死ぬるまで、
  三塗の業より外に仕事はせず、
  毛のさき程も身を知らずに居るが凡夫じゃ。

  申し上げて曰く。有難う御座ります。
  善知識様の御化導によりまして、
  火の坑の上の綱渡りは、
  私が日々の所作と思い知らせて頂き、あら恐ろしや、
  かかるありさま見込んでの御呼びかけとは、あら嬉しや、
  国に一人郡に一人の仕合せものと喜びまする。

  (香樹院語録)

 この法語は信心というものがどのようなものか、実にわかりやすい。了信という人、臨終の床にある師に対して、「これは私が罪造りながら知らずにいることを、御知らせ下さるることで御座りますか」と領解を述べれば、香樹院師、言下に「そうじゃ」と認可する。「凡夫と云うものは生れ落ちるから死ぬるまで、三塗の業より外に仕事はせず、毛のさき程も身を知らずに居るが凡夫じゃ」。人はみな自分が誰かがわからずに迷うのであると、まことに単刀直入、仏法の核心に斬り込む。

 自分が誰かを知らないから、欲望や煩悩に簡単に騙される。自分の心に騙されていることにも気づかず一生を終る。これは悲しくも、多くの命の、まぎれもない現実である。よくよく心して聞くがよい。さて、信心は必ず二種深信である。「私が日々の所作と思い知らせて頂き、あら恐ろしや」が機の深信、「かかるありさま見込んでの御呼びかけとは、あら嬉しや」は法の深信、まことにわかりやすいご化導である。信心の人は稀であるから「国に一人郡に一人の仕合せものと喜びまする」と了信は喜んだ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


# by zenkyu3 | 2017-07-22 06:26 | 香樹院語録を読む | Comments(3)

  源信、広く一代の教を開きて、
  ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
  専雑の執心、浅深を判じて、
  報化二土、正しく弁立せり。

  極重の悪人は、ただ仏を称すべし。
  我また、かの摂取の中にあれども、
  煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、
  大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり。

  (正信偈・源信讃)

 「我また、かの摂取の中にあれども」とは、身は娑婆にあれども心は摂取の心光の中(浄土)にある。「煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども」とは、煩悩身についている肉眼では仏を見ることはできない。如来廻向の仏眼で仏を見させていただくのである。「大悲倦きことなく」とは、わたしが憶念しようとしまいと、「常に我を照らしたまう」。常に仏の方から見られている。

 智慧を光に譬えるのは、闇を破って見えないものを見えるようにしてくれるから光というのです。眼がよくて見えるのではない。だから、自分の心が見えたら、それが智慧をいただいたことです。煩悩は煩悩を見ることはできないからです。それを「煩悩、眼を障えて見たてまつらず」といいます。如来廻向の智慧をいただいて自分の心を見せていただくのです。(この段の間違った解釈を見たので、老婆心ながら。)

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-07-21 07:01 | 教行信証のこころ | Comments(0)

助からぬ心

  一七五、或る人、師に参りて、
  私の心は微塵も助かりそうな所は御座りませぬと申し上ぐ。
  師の仰せに。その心苦にするな、
  微塵も助からぬ心を、助けて下さるが誓願の不思議じゃ。
  それが他力の御不思議じゃ。

  (香樹院語録)  
  

 この人、名前は残っていないが、「私の心は微塵も助かりそうな所は御座りませぬ」と、よくぞここまで聞き遂げた。しかし、まだ仏のお心の中に生まれていない。だから、師いわく「その心苦にするな」と。自分の心に絶望しただけでは信心ではない。まだ仏のお心を知らない。未来に光がない。いつ信の一念が訪れてもよい。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


# by zenkyu3 | 2017-07-20 06:36 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

歎異抄・第九章の読み方

  念仏もうしそうらえども、
  踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、
  またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、
  いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん。

  (歎異抄・第9章)


 著者・唯円には「踊躍歓喜」の信体験があった。だから「踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと」と訴えることができる。無明に小さな穴が開いて心に智慧の光が差した。最初は法悦の中にある。それから数年、暫くはわかった気になっていられたが、やがて「踊躍歓喜のこころ」がわからなくなる。智慧に慣れ、智慧を私物化するからである。

 親鸞もまた「親鸞もこの不審ありつるに」と言っているから、親鸞も一度はこれを経験した。信心が深まっていくプロセスであり、ここを越えなければならない。どう越えるか。越えさせるのもまた仏のお育てであると気づかされるということです。「よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり」。親鸞は弟子の唯円にこう答えた。

 救われない宿業の身との自覚をいただいて、わたしたちは仏のお心の中に生まれさせていただけた。それをも忘れて、信を得たことでなにか偉い者にでもなったように思ってしまっているんですね。わたしは今もそうですよと、このように親鸞は答えた。この経験があるからこそ、さらに深く本願力の手強さに身も心も任せていかれるようになる。このようなことが何度も何度も繰り返されつつ自然法爾の境地に深まっていく。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-07-19 06:29 | 歎異抄の領解 | Comments(2)