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2007年を振り返る

  一 法敬坊、申され候う。
  「仏法をかたるに、志の人を前におきて語り候えば、
  力がありて、申しよき」由、申され候う。

  (蓮如上人御一代記聞書282条)

 このブログも一年が経ちました。読んでくださっているみなさんの「力がありて」ブログ更新ができております。今年は真宗大谷派・念佛寺さんのホームページを拝見する機会がありました。ホームページ所収の「香樹院語録」を引用させていただきながら、一月から九月まで、計161回「香樹院語録」を読ませていただきました。時期がまいりまして、今は主に「蓮如上人御一代記聞書」を読んでおります。

 日々、お聖教をいただきながら、いただいたままを書いているだけのブログですが、ここがわたしの「聴聞の場」です。コメントやお便り、あるいは記事ごとのアクセス数などから、みなさんにどのように読んでいただいているかを考えるのも楽しいことです。なお、旧ブログ「聞其名号信心歓喜乃至一念」は今もこのブログ以上に読まれているようですので、そのままにしております。今年も一年、ありがとうございました。善及

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-31 22:02 | このブログのこと | Comments(0)

これ、不退の密益なり

  一 前々住上人、仰せられ候う。
  「一心決定のうえ、弥陀のおんたすけありたりというは、
  さとりのかたにて、わろし。
  たのむ所にてたすけたまい候う事は、歴然にも候えども、
  御たすけあろうずと云いて、しかるべき」の由、仰せられ候う云々
  「一念帰命の時、不退の位に住す。これ、不退の密益なり。
  これ、涅槃分なる」由、仰せられ候うと云々

  (蓮如上人御一代記聞書204条)

 試みに現代語訳。蓮如上人の言葉。いわく、信心决定の一念に「救われた」というのは、あたかも現在に悟りを開いたかのようでよくない。確かに、たのむ心の起きたとき、仏のお心が少しばかり明らかになるから「救われた」と喜ぶこともあるが、教えの上では「必ず救われる」と言った方がいい。というのも、現在に仏のお心をいただき、未来に仏になるというのが現生不退の教えの基本だからです、と。このように蓮如上人は言われました。

 さて、「これ、不退の密益なり。これ、涅槃分なる」について。信心とは、わたしの心に智慧が生じた事実であるから「救われた」という一面がある。また一方では、始めて無碍の一道が開け、ここから仏への道を歩み始めることができるようになったという一面があるわけです。つまり「必ず救われる」未来は「すでに救われた」という現在によって成り立っているということです。因位の信心が涅槃の一部なら、果位の悟りは涅槃の全開でしょうけれども、一部も全開も涅槃は涅槃、光には違いはない。だから、いつ死んでも仏と言える。これが救いの内容、不退の密益です。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-27 09:53 | 特集「蓮如上人御一代記聞書」 | Comments(0)

善及に改めます

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2004年4月、ネット上で文章を書き始めたのは五十才、
そのときの名は濁川(だくせん)でした。
今使っている全休(ぜんきゅう)に改めたのは2010年9月です。
七年が経過しました。
今日から「善及」(ぜんきゅう)に名を改めることにしました。
とくに意味はありません。

南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-26 06:04 | このブログのこと | Comments(2)

無明のさけにえいふして

  もとは、無明のさけにえいふして、
  貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ、
  このみめしおうてそうらいつるに、
  仏の御ちかいをききはじめしより、
  無明のえいも、ようようすこしずつさめ、
  三毒をもすこしずつこのまずして、
  阿弥陀仏のくすりをつねにこのみめす身となりて
  おわしましおうてそうろうぞかし。

  (親鸞聖人御消息集・広本・第一通)

 試みに現代語訳。かつて、まだ仏法を聞く前のみなさんは、自分の心がどのようかの反省もなく、ただ、心にまかせて、これが欲しい、あれが嫌いと、放佚無慙な生き様で、決して心の内側に目が向くことはありませんでしたね。それが仏の御促しにより法を聞くようになってからは、自分の心を見ることが少しはできるようになり、欲しい心や、怒り腹立ちの心とも少しは距離が取れるようになってきたのでした。法を聞く楽しみもわかりかけてきたところです。

 さて、無明の酒に酔うということ。無明とは心を見て自分だと思うことです。心は貪瞋煩悩でできているから、あなたは心にたえまなく命令されて、ああなりたい、こうしたいと欲張り、そうならないのは人が悪いと、怨み、憎み、嫉妬して、いつも怒りにまみれた生活に明け暮れしている。怒りに巻き込まれて、常に大小の罪悪を造り続けているが、そんな心の現実にすら気づいていない。放佚無慙な生活しか知らない。

 それもこれも元はと言えば、心を見て自分だと思う無明から始まっている。心を中心とし、心を最大の価値として、心が望むことを実現することが生きる意味だと信じ込んでいるから、心に自分をすっかり奪われてしまっている。心が主人で、あなたはただ心に命令されるだけの人でしかない。心はただの因縁生起で、思いや感情は雲のように湧いたり消えたりしているだけなのに、あなたはいつまで、そんな心を相手にしているのか。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-25 06:18 | 御消息集のこころ | Comments(0)

  一 「日比しれるところを、善知識にあいてとえば、徳分あるなり。
  しれるところをとえば徳分ある、といえるが、殊勝のことばなり」と、
  蓮如上人、仰せられ候う。
  「知らざる処をとわば、いかほど殊勝なることあるべき」と、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書82条)

 試みに現代語訳。いつも聞いているからよく知っていると思っていることほど、信心の人に会って改めて聞いてみると、その味わい方がまったく違っていて、得るところが多いのであると、そういう言葉がある。知っていることをさらに深く掘り下げて聞くことの大切さを教えていて、とてもいい言葉だと思う。聴聞は勉強ではない。知らないことを聞いて知識が増えたからといって、それがなんだろうと、蓮如上人は言われました。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-24 06:33 | 特集「蓮如上人御一代記聞書」 | Comments(0)

『宝号経』にのたまわく

  『宝号経』にのたまわく、
  弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、
  ただ仏名をたもつなり。
  名号はこれ、善なり、行なり。
  行というは、善をするについていうことばなり。
  本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、
  善にあらず、行にあらざるなり。
  かるがゆえに、他力ともうすなり。

  (末燈鈔・第二十二通)

 試みに現代語訳。『宝号経』にこうあります。いわく、弥陀の本願にかなうような行もなければ善もない。ただ仏のみ名を称えるだけでいい。み名を称えることにまさる善もなければ行もないからです。というのも、往生の業はさとりの智慧に裏づけられた大行でなければならない。仏から回向された大行をもって始めて往生の業といえる。さとりの智慧の裏づけのない凡夫の称える念仏では往生になんの役にも立たない。だから、本願にお約束された信と行をもって往生しなさいというのです、と。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-23 06:34 | 御消息集のこころ | Comments(0)

  一 信心というは、弥陀を一念、御たすけそうらえとたのむとき、
  やがて御たすけあるすがたを、南無阿弥陀仏ともうすなり。
  総じて、つみはいかほどあるとも、
  一念の信力にて、けしうしないたまうなり。(以上、一部抜粋)

  (蓮如上人御一代記聞書3条)

 蓮如上人の言葉。「御たすけそうらえとたのむとき」信心が得られる。「やがて(すぐに)御たすけある」という。なにから「助けてほしい」のか。それはあなただけしか知らない。「たのむ」のは助ける力があるからです。すでに仏は助けるとお約束している。「たのむ」だけでいい。無始劫以来、無量無数の衆生が救われてきた。いま、現に在(ましま)す。あなたを助けない、あなたを助ける力がないということはない。たのむだけなのに、なぜ、あなたはたのまないのか。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-22 09:19 | 特集「蓮如上人御一代記聞書」 | Comments(0)

無生の生とは

  一 無生の生とは、極楽の生は三界をへめぐるこころにてあらざれば、
  極楽の生は無生の生というなり。

  (蓮如上人御一代記聞書36条)

 三界を経巡るには経巡る主体が必要だが、そもそも主体がないから生まれたということがない。生まれたということがないから死ぬということがない。すべては因縁が因縁し、因縁が結び、因縁が解(ほど)けるだけのことだ。このように知ることを無生法認という。無生法認は信心の智慧だから、信心の人は(心は)すでに無生無滅の涅槃(浄土)の中にいる。いまさら死んで生れる処などない。死んで生れる処がないので「無生の生」という。極楽に生まれるとも、仏になるともいう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-21 06:15 | 特集「蓮如上人御一代記聞書」 | Comments(0)

  如来の誓願を信ずる心のさだまる時と申すは、
  摂取不捨の利益にあずかるゆえに、
  不退の位にさだまると御こころえ候うべし。
  真実信心さだまると申すも、金剛信心のさだまると申すも、
  摂取不捨のゆえに申すなり。
  さればこそ、無上覚にいたるべき心のおこると申すなり。
  これを、不退のくらいとも、正定聚のくらいにいるとも申し、
  等正覚にいたるとも申すなり。

  (御消息集・善性本・第二通)

 我は闇であり、闇を破る光は外からやって来る。自力は自分の心が光を発すると勘違いする。光は外からやって来るから必ず他力である。我が見えることを智慧といい、我が見えたことが救われたことである。それゆえ智慧を光といい、光を阿弥陀仏とお呼びする。光の中に闇はない。光は照らすものを選ばないから摂取不捨という。

 我が見えたら、それが光である。我が見えたのは光が届いたからである。闇の中で針の先ほどの光でも光は光である。光の方向を目指して歩き出すから不退転といい、光だけの世界を信じるから「無上覚にいたるべき心のおこると申すなり」という。未来とは光を見つけて、そちらに向かって歩みだすことをいう。あなたに未来はあるか。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-20 09:15 | 御消息集のこころ | Comments(0)

  一 蓮如上人、兼縁に対せられ、仰せられ候う。
  「たとい、木の皮をきるいろめなりとも、なわびそ。
  弥陀をたのむ一念をよろこぶべき」由、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書110条)

 蓮如上人が息子の蓮悟に言った言葉。「たとえ木の皮を着るような貧しい生活でも侘しく思うことはない。信の一念を経験した身であることを喜ぶべきである」と。生まれたら死ぬだけの命です。経済的な豊かさを誰もが当たり前の様に求めているが、生きるためにしたことは生きるためにしたことでしかない。命が大切なのは命より大切なことをするための命だからです。命より大切なことがない人生は空しい。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-19 06:12 | 特集「蓮如上人御一代記聞書」 | Comments(0)