仏法のこと、世間のこと

  一 蓮如上人の御掟に、
  「仏法のことをいうに、世間のことにとりなすひとのみなり。
  それをたいくつせずして、また、仏法のことにとりなせ」と、おおせられ候うなり。

  (蓮如上人御一代記聞書56条)

 仏法とは心への執着を捨てることです。執着を捨てるとは自分の心を相手にしない。相手にすれば自分の心に巻き込まれて、迷いの心が感得する六道を引摺り回されて苦しむ。心を相手にするなと言われているのに、心をよくしようとするのは自分の心に未練がある。心を捨てるが仏法、心をよくしようというのが世間、すなわち世渡り。この違いがわからない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-31 06:41 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

詮あるところをきけ

  一 法慶、もうされそうろう。
  「讃嘆のとき、なにもおなじようにきかで、
  聴かば、かどをきけ」と、もうされそうろう。
  詮あるところをきけとなり。

  (蓮如上人御一代記聞書50条)

 「詮あるところ」も「かどをきけ」も今は使わない言葉ですが「眼目」とか「結局のところ」とかいった意味であろうか。仏法を聞く目的を忘れて聴聞しても意味がないと言うのでしょう。われらは「自分の心に決着をつけたくて」法を聞いている。この一点しかないはずです。そうではありませんか。散々、自分の心に振り回されて、自分の心にうんざりしている。

 うんざりしているが、すぐ自分の心に巻き込まれる。巻き込まれまいとするがどうにもできない。巻き込まれないでいるにはどうしたらいいか。みなが知りたいのは「このこと」でしょう。知識がつくとみな脇道にそれるが、自分の心に巻き込まれなくなること、聴聞の目的はこの一点しかない。知識はむしろ邪魔だ。聴聞の目的を忘れて耳学問になってはいけない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-30 06:09 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 弥陀をたのめば、南無阿弥陀仏の主になるなり。
  南無阿弥陀仏の主に成るというは、信心をうることなりと云々 
  また、当流の真実の宝と云うは、南無阿弥陀仏、これ、一念の信心なりと云々

  (蓮如上人御一代記聞書239条)

 信心とは仏心が明らかになることです。仏心とは摂取不捨といって煩悩を内に収める。いままでは煩悩しか知らなかった。煩悩しか知らなかったから、正確には、煩悩ということすら知らなかった。仏心が明らかになって、初めて、煩悩がわかった。仏心が明らかになって初めて、仏心が主で煩悩が従という関係が成り立つ。これを「信心をうる」という。

 煩悩は体の働きで、生きていく上で必要だから煩悩がある。だから、命ある限り煩悩の働きが止まることは瞬時もない。常に煩悩は働いているが、仏心が生じれば、煩悩は常に仏心の中にある。仏心の中にあるから、煩悩が感じとる六道に振り回されない。六道に超然とするから仏心は平和である。これを「南無阿弥陀仏の主になる」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-28 06:42 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

弥陀をたのみて

  一 仰せに、「弥陀をたのみて御たすけを決定して、
  御たすけのありがたさよとよろこぶこころあれば、
  そのうれしさに念仏もうすばかりなり。
  すなわち仏恩報謝なり。」

  (蓮如上人御一代記聞書14条)

 念仏とはなにか。これ以上ないほど簡略にまとめられている。さらに縮めれば「たのむ」だけでしょう。われらに出来るのは「たのむ」だけ。あとは仏がよいようにしてくれる。その証拠に仏はたのんだ人に「よろこぶこころ」を与えてくれる。心は目に見えない。仏法を広めるために仏は喜んだ人に「念仏」を称えさせる。念仏を見て、見た人がまた念仏を称える。こうして念仏の歴史ができてきた。

 われらにできるのは「たのむ」ことだけ。仏はわれをたのめと声をからしておられる。「たのむ」は崖をよじ登る難行ではない。崖から飛び降りる易行だ。飛び降りるのは簡単だが、死ぬのが恐い。下で仏が呼んでいる。「ここへ落ちてこい」と。努力はいらない。信じて身を捨てるだけだ。しかし「たのむ」ところ、崖っぷちまでたどり着く人がいない。自分にたっぷりと未練があるからだ。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-26 06:42 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(2)

後生の一大事

  一 凡夫の身にて後生たすかることは、ただ易きとばかり思えり。
  「難中之難」とあれば、輒くおこしがたき信なれども、
  仏智より、得易く成就したまう事なり。
  「往生ほどの一大事、凡夫のはからうべきにあらず」といえり。
  前住上人、仰せに、「後生一大事と存ずる人には、御同心あるべき」よし、
  仰せられ候うと云々

  (蓮如上人御一代記聞書152条)

 竹内先生は平易な日常語で信心を伝えようと努力されていたように思います。そのため伝統的な真宗教義の言葉使いは曽我量深師の本で学びました。たとえば、竹内先生は「死の事実に立て」と口癖のように言っていましたが、真宗ではそれを「後生の一大事」というのです。「わたしは死んだと言った人はいない」ともたびたび言われました。死は人間の知性を通さないという意味です。知性の届かない処があると知ることが信仰の基本でしょう。

 仏教は死後の話をするから「体の死」を問題にしていると思われがちですが、まったく違っていて、「心の死」だけを問題にする。「体の死」は問題ではない。われらは生しか経験しないが、死があって命です。生を超え死もまた超えたところ、知性のまったく届かないところから届くのが「不思議の仏智」です。生と死をともに超えた命の源初から届く仏の声を聞くと心が死ぬ。心の死が「往生」です。人の心に死んで仏の心に生まれ変わるのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-25 06:22 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 三河の教賢、伊勢の空賢とに対して、仰せに、
  「南無というは帰命、このこころは、御たすけそうらえとたのむなり。
  この帰命のこころ、やがて発願回向のこころを感ずるなり」と、おおせそうろうなり。

  (蓮如上人御一代記聞書7条)

 「助けて」と心から頼むことができたら、仏のお心と心が通じ合う。そういうことが書いてある。「救われない者を救うのが仏である」と竹内先生は言われたけれど、「救われない者だとわかったら、それが救われたことだ」という意味です。あなたは一体、なにから「助けて」ほしいのだろうか。「救われない」とはどういうことだろうか。仏のお心を感じるとなぜ救われるのだろうか。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-24 06:04 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

安心決定

  一 聖教をよくおぼえたりとも、
  他力の安心をしかと決定なくは、いたずらごとなり。
  弥陀をたのむところにて往生決定と信じて、
  ふたごころなく臨終までとおりそうらわば、往生すべきなり。

  (蓮如上人御一代記聞書11条)

 なぜ信を得たら、必ず仏になるといえるのか。「いま、ここ、このまま」が涅槃であると知っているからです。ありのままの事実を涅槃という。われらは事実を生きていながら、生の事実ではなく、解釈された事実を生きている。頭が自動的に事実を自分に都合よく解釈する。それを煩悩という。煩悩の隙間から一瞬だけ生の事実を垣間見ることがある。一度でも涅槃を見れば、われらは涅槃から一度も出たことはなかったと知る。だから、信の一念に仏になる身に定まる。いつでも仏になれる。これを「安心決定」という。死後の話ではない。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-22 06:23 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 「一念の信心をえてのちの相続というは、さらに別にあらず、
  はじめに発起するところの安心に相続せられて、
  とうとくなる一念のこころのとおるを、
  「憶念の心つねに」とも、「仏恩報謝」ともいうなり。
  いよいよ、帰命の一念、発起すること肝要なり」と、おおせそうろうなり。

  (蓮如上人御一代記聞書30条)


 心が心を離れて心を見る。これが信体験の内容です。信の一念に、心が見る心と見られる心に分れる。見る心を仏心、見られる心は凡心。一つの心が二つに分れ、二つのままに一つ。一つであるがはっきり二つに分かれている。仏心に立てば仏であり、凡心に立てば凡夫であるが、凡夫に立つのが往生の道です。一念の信心は一度でも経験すれば二度と忘れない。

 行住坐臥、なにをしていても、「憶念の心つねに」して、いつも仏心とともにあるから、生涯にわたり、煩悩に巻き込まれては離れ、離れては巻き込まれてを繰り返す。繰り返すままに、段々、煩悩から離れていられるようになる。煩悩は体の機能であるから、体ある限り煩悩は働き続ける。煩悩に巻き込まれて悪をなさないように仏心が守ってくれる。これが仏のお育てで、お育てを喜ぶから「仏恩報謝」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-21 06:31 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

空善に御掟なり

  一 四月九日に、仰せられ候う。
  「安心をとりて、ものをいわば、よし。
  用ないところをば、いうまじきなり。
  一心のところをば、よく、ひとにもいえ」と、
  空善に御掟なり。

  (蓮如上人御一代記聞書20条)

 信心は如来回向である。あちらから与えられてくる。こちらで考えついたことではない。「安心をとりて、ものをいわば、よし」。与えられたことのない人にはわからない。「用ないところをば、いうまじきなり」。信心に関係のないことは言うな。これ以上に厳しいご指示はない。日付の記録が空善の覚悟を物語っている。「一心のところをば、よく、ひとにもいえ」。経験するも容易ではないが、それを人にも経験させる。これはさらに困難である。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-20 06:40 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

仏智の心をうるゆえに

  一 人の身には、眼・耳・鼻・舌・身・意の六賊ありて、善心を奪う。
  これは諸行のことなり。念仏はしからず。
  仏智の心をうるゆえに、貪・瞋・痴の煩悩をば、仏の方より、刹那にけしたまうなり。
  故に、「貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」(散善義)と、いえり。
  『正信偈』には、「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」と、いえり。

  (蓮如上人御一代記聞書136条)

 蓮如上人はここで信心のお徳を述べている。自力の人は自分の心をよくして仏になろうとするから「六賊ありて、善心を奪う」と、心が汚れることを気にする。自分の心に執着するから自分の心に縛られる。自分の心に縛られて、自分の心が造る六道を引摺り回されて、ありとあらゆる苦しみを受ける。自力の人はこのことがわからない。

 「念仏はしからず」。他力は自分の心を捨てる。自分では捨てられない。信の一念に自分の心が見える。見えたことが自分の心を離れた証拠です。この信心獲得の体験の核心を蓮如上人は「仏智の心をうるゆえに、貪・瞋・痴の煩悩をば、仏の方より、刹那にけしたまうなり」と述べている。きっと、ご自身の信体験でもあったに違いない。

 「貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」とは仏心が花開いたことを現し、「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」というは智慧の光の中にいる信心の人の(闇きこと無き)心境を示している。仏に煩悩はないが、宿業の身には煩悩は生命力です。煩悩はなくならないが仏のお心の中にいるので煩悩に巻き込まれずにいられる。これが信心のお徳です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-19 06:27 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)