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  『和讃』にいわく
  「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 
  弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(善導讃)
  とはそうらえば、信心のさだまるときに、
  ひとたび摂取してすてたまわざれば、
  六道に輪回すべからず。
  しかればながく生死をばへだてそうろうぞかし。
  かくのごとくしるを、さとるとはいいまぎらかすべきや。
  あわれにそうろうをや。

  (歎異抄・第15章)

 「煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそうろう」で始まるこの章は、「信心」と「さとり」の違いを明らかにして、即身成仏の異義を厳しく批判している。そのせいか、引用文での唯円は「あわれにそうろうをや」とやや感情的ですらある。それというのも「信心」と「さとり」の区別もわからないのは、そもそも信心を得ていないからだ、という唯円の気分が強く反映しているからです。

 唯円は証拠を示すかのように、ここに親鸞の和讃を引用して、これが「信心」だ、「さとり」ではないぞ、と言っているのです。よって「信心」の内容はこの善導讃に明らかです。すなわち「①金剛堅固の信心のさだまる」も「②弥陀の心光摂護して」も「③ながく生死をへだてける」も、みな同じことを別々の言葉で表現していると言っていい。まず「③生死をへだて」とは「出離生死」のことで、六種の心の世界(六道)を造る「自分の心」を離れることを言います。「自分の心」を離れて「自分の心」に巻き込まれなくなる。自分の心から救われる、これが「六道に輪回すべからず」です。死んでからのことではない。

 次に、自分の心より大きな心、仏の心の中に生じることが「②弥陀の心光摂護して」であり、仏の心の中に常にいて、自分の心が見えているので自分の心に巻き込まれない。これが「①金剛堅固の信心のさだまるとき」に起こる信心の内容で、この体験は「さとり」の初めであり「さとり」の完成に向けて歩み出す一歩であるから「成仏」ではないと、唯円は教えてくれているわけです。われらはどこまでも「救われる凡夫」であり決して「救う仏」ではない。しかし、仏ではないがいつでも仏になれる。これが親鸞の「現生不退」の仏教です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-08-31 06:52 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

  一 「御たすけありたることのありがたさよと、念仏もうすべく候うや。
  また、御たすけあろうずる事のありがたさよと、念仏もうすべく候うや」と、
  もうしあげそうろうとき、仰せに、
  「いずれもよし。ただし、正定聚のかたは、御たすけありたるとよろこぶこころ、
  滅度のさとりのかたは、御たすけあろうずることのありがたさよともうすこころなり。
  いずれも、仏になることをよろこぶこころ、よし」と、仰せそうろうなり。

  (蓮如上人御一代記聞書18条)

 信の一念に「智慧」をいただく。「智慧」の人を「仏」というが、煩悩の身を持っているので一段下がって「正定聚の菩薩」「仏に等しい人」という。「順次生に仏になる」(歎異抄・第5章)といえるのはすでに「智慧」をいただいているからです。「仏になる身に定まった」ことが大事で「順次生に仏になる」ことは仏にお任せしておけばよい。

 また、信の一念にいただく「智慧」はこの身とこの心を超えて「現在」している。「現在」を超えているから「未来」という。この場合の「未来」とは「現在」を照らす光明であり、「未来」という時制で「智慧」の超越性を表すのであり、現在の延長線上に「未来」があるのではない。仏教における「未来」とは死後のことではなく、死んで仏になるなんて話でもない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-08-30 06:32 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

一信二喜

  八七、一念の信に二の喜びあり。
  六道の苦を免るる喜び、浄土の往生を期するの喜び。
  この二つの喜びを思えば、
  此世で我がなしたる悪事で必ず刑罰に逢うべき難を救わるると、
  思いもよらず長者の家のあとめになるとの、
  二つの喜びのそろうたものはない。
  然るに今は、二つの喜びを、一念の信にそなえて與え給う。
  機法二種の信心の相なり。  

  (香樹院語録)

 「六道」とは心が造る六種の世界。そういう世界は外にはないが心が造って心が住む。この六道(人の心)を超え出た処を「浄土」という。人の心を離れ出る一瞬の信仰体験を「信の一念」といい、「浄土」から六種の世界(自分の心)を照らし見るので「智慧」という。「六道の苦を免るる喜び」も「浄土の往生を期するの喜び」も信の一念に成就する。この身とこの心、すなわち「現在」を超えているので「未来」という。だから、仏教で「未来」というときは死後の話ではない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-08-29 06:21 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

厳烈なる慈誨

  二四七、後藤祐秀、かって祖跡を巡拝して越後に至り、
  無為信寺に参じて師の教を受く。
  ある日早朝に辞して帰らんとし、船場に行きしが風ありて便船出でず。
  則ち再び引きかえして事の由を師に告げ、
  今日は一日逗留して、近きあたりの名所見物をなさんと申し上げたれば、
  師の曰く。名所をみること何の益あらむ、宣しく書を見るべしと。
  秀曰く、仰せさることながら、己に行李を理めて手に読むべき書も候わずと。
  師色をかえて曰く。一日読む程の書はここにもありと。(以上、一部抜粋)

  (香樹院語録)

 信をいただく以上のことはないのに、後藤祐秀という人、信を取ろうという真剣さがない。無為信寺に参じて師の教えを受けるもただの祖跡巡拝、観光気分を師に厳しく見咎められた。たかが一日くらいの名所見物、許さぬ師ではなかろうけれど、信を求める志がなさすぎる。目の前に善知識がおられ、なんでも聞けるのに、なぜ、日ごろの不信の胸の内を聞いていただかないか。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-08-28 06:49 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

おさめ、たすけ、すくう

  二八〇、仰せに。どこにか腰ぬけがあるとみえて、
  阿弥陀の三字を、おさめ、たすけ、すくうと読むとある。
  機の造作をはなれて、ただ大悲のまことを仰ぐばかりじゃ。

  (香樹院語録)   

 「おさめる」とは内容物を選ばず、壊さず、そのまま収容する。「たすける」とは仏の心の中に引き入れて人の心から離す。心への執着を落とす。「すくう」とは仏になる道を歩ませ仏にする。「人の心」の他に「人の心」を超えた「仏の心」があることを教え、それを経験させようというのが仏教です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-27 06:43 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  八五、秀存師、ある夜、香樹院師の寮にまいり、
  御酒をいただき、師の命をうけて同席して臥し給う。
  その時秀存師は、ああ、今日も一日ありがたう御座ります。
  これから極楽の夢みましょう。 と申さる。
  香樹院師は、ああ、今日も一日淺間しや。
  これから地獄の夢みましょうか。 と申されけると。

  (香樹院語録)  

 「これから極楽の夢みましょう」の秀存師は往相(自行)にいる。香樹院師は「これから地獄の夢みましょう」と還相(化他)におられる。還相ということについて、ある時、竹内先生はこのようなことを言われました。還相というけれど、われらに還相などということはないのでしょう。どこまでも法を聞いていく。その姿を見て念仏称える人が出てくる。「わたしは還相の菩薩である」なんて言ったら変な話だ。親鸞は教える側ではなく、いつも法を聞く側に身を置いていた方だと思う、と。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-26 06:37 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

禅僧弘海との問答(2)

  七六、予(禅僧弘海)問うて云はく、法話を聞くことと、
  自ら聖教を読んで我が耳に聞くと云うこととは、有難く承わりぬ。
  但、念仏するを聞くと申すは、我れ称えて我が声を聞く事に候や。
  師大喝して曰く、汝何事をか云う。
  我が称える念仏と云うもの何処にありや。
  称えさせる人なくして、罪悪の我が身何ぞ称うることを得ん。
  称えさせる人ありて称えさせ給う念仏なれば、
  抑もこの念仏は、何のために成就して、
  何のためにか称えさせ給うやと、心を砕きて思えば、
  即ちこれ常に称えるのが、常に聞くのなり、と。(以上、一部抜粋)

  (香樹院語録)

 どうすることが聞法か。禅僧弘海にはわからなかった。聴聞し念仏するだけで、一向に信心が開けないのは聞きようが間違っている。なにをどう聞くのか。禅僧弘海は愚かなまでに率直に師に詰め寄る。わかるまで聞くぞという迫力だ。香樹院師、大いに喜んだに違いない。

 「この念仏は、何のために成就して、何のためにか称えさせ給うやと、心を砕きて思え」、それが「聞法」ということだと教えた。ただ念仏を称えるのではなく、仏はなぜ、われに念仏を称えさせるのか。考えては称え、称えては考え、「聞思して遅慮するなかれ」の親鸞の言葉通り、念仏以外になにもなくなるまで考えに考える。「常に称えるのが、常に聞くのなり」。命がけになれば仏のお心が聞こえる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-25 07:01 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

禅僧弘海との問答(1)

  七五、予(禅僧弘海)問て云わく、
  よく聞くとは如何聞くべきや。
  師曰く。骨折って聞くべし。
  予云わく、骨折るとは、遠路を厭はず聞き歩くことに候や、
  衣食も思わず聞くことに候や。
  師曰く、然り。
  予また問うて云わく、
  然らば、夫程に苦行せねば聞こえぬならば、
  今迄の禅家の求法と何の別ありや。
  師呵して曰く、汝法を求むる志なし、
  いかに易行の法なりとも、よく思え、
  今度仏果をうる一大事なり。
  然るに切に求法の志なき者は、
  是れを聞き得ることを得んや、
  ああうつけもの哉と。
  予云わく、然らば身命を顧みぬ志にて、聞くことなりや。
  師曰く、最も然り。切に求むる志なくして、
  何ぞ大事を聞き得んや。(以上、一部抜粋)

  (香樹院語録)

 疑いとは人の心の本性である。なにも信じてない。人も自分も信じてない。信じるものがないとは惨めなものである。愛とか正義とか未来とか、なにかを信じた振りをして一生を通すことはできるが、本当はなにも信じてない。信じない心は金と物を信仰する。物のように生きた者は死ねば物に帰るだけだ。この世に信じうるものがあるかどうか、心があるなら勇気を奮って自分の眼で確かめてみよ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-24 06:03 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

不動の動、不行の行

  九二、「汲水則疑山動、揚帆則覚岸移」。
  谷川の流には万峰の影落ちて、其の潭水を汲もうとすれば、
  山の影が皆動いて見ゆる故、山が動くのかと思えば、
  其の実山の動くではなくて、水の動くのじゃ。

  又帆を揚げて航ぎ行く船に乗れば、岸が移るようなれども、
  岸の移るではない、舟の動くのじゃ。

  いま我々が、妄念悪業の水の動くときは、
  是れでは如何あるらんと、疑いの心を起すものもあらうが、
  たとい妄念悪業が起ればとて、摂取不捨の御約束の山は動きはせぬ。

  また南無阿弥陀仏の帆を揚げて、御慈悲を喜ぶのは、
  我が心の岸の移るようなれども、我が心で働くのではない。
  大悲仏智の御本願の舟の働きじゃ。
  じゃから、生涯念ずれども、自の行を行ずるのではない。

  (香樹院語録) 

 「山」は摂取不捨の仏心、「水」は妄念悪業の人心の譬え。仏心は人心を映す鏡である。鏡は映すものを選ばず、映すものに影響されず、ありのままに映す。仏心に映った自分の心を見て心を解脱する。解脱した後は自分の心はどんなに動いても構わない。摂取不捨の仏心(不動)の中の動だから。また、「船」は智慧、「岸」は心境の譬え。ご本願の船に乗る。すなわち智慧をいただけば智慧のお育てにより自ずと心境が深まっていく。仏になるための努力(行)はいらない。智慧が仏への道を歩ませてくれるから。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-23 06:32 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

力なくして終わる時

  久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、
  いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、
  まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。
  なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、
  ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。

  (歎異抄・第9章)

 二十代で初めて「歎異抄」を読んだとき、ここに引っ掛かった。死ぬのが恐くて仏教か、と。しかし「歎異抄」を読むのをやめようとは思わなかった。これが縁というものだろうか。いまはこの一節が「歎異抄」の中でもとくに「いいなぁ」と思う。さて、仏の悟りを「無分別智」という。分別とは事実を評価する。無分別智は事実を評価しないで、ありのままに受け入れる悟りです。われらには都合のよい事実と都合の悪い事実があるけれど、「生老病死」の「老」も「病」も嫌だが「死」はまったく受け入れ難い。受け入れ難い「死」を親鸞は「なごりおしくおもえども」と気負いなく受け入れている。生死を離れた親鸞の心境を表しています。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-08-22 06:22 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)