一六九、江州湖北の某寺にて御法話の節、
  一人の老媼、一座をさし出でて高慢顔に自得のままを述ぶ。
  師きびしく呵して曰はく、顔見るも厭やじゃ、 と。
  老媼恐れ入りながらも渋き顔して退出せんとす。
  師再び呼び返して仰せらるるよう、
  汝よく聞け。己ればかりが嫌うでないぞ。
  十方の諸仏も菩薩も、皆な忌み嫌い給うが驕慢心じゃ。
  其のあらゆる仏菩薩に忌み捨てられたるものを殊に憐れと思召して、
  我慢の和ぐように照らして下さるのが、弥陀の光明じゃ程に、と。
  老媼、感涙して改悔せりと。

  (香樹院語録)  

 この法語には「光觸れんもの身心柔軟ならん」と題がついている。光とは智慧、智慧は自分の心が見える。浅ましくも醜い心、よくぞ、恥ずかしくもなくこんな心を隠して生きてきたものぞと驚き入る。自分を知らないから偉そうにしていられたが、ありのままの自分を見せていただいたら頭の上げようがない。驕慢の角を折って素直な心を与えようというのが「触光柔軟の願」です。


すなわち、智慧が生じて「思い」が見えれば、思いに縛られて「思い通り」にしたい貪欲が和らぐ。貪欲が和らげば「思い通り」にならない瞋恚(怒り)が和らぐ。怒りが心を固くするから怒りの少ない心は明るく軽く柔らかになる。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-07 06:22 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

二つの「大切の証文」

  ①弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとえに親鸞一人がためなりけり。
  されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
  たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。

  ②善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。
  そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
  よきをしりたるにてもあらめ、
  如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
  あしさをしりたるにてもあらめど、
  煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
  よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、
  ただ念仏のみぞまことにておわします。

  (歎異抄・後序)


 歎異抄の著者・唯円は「大切の証文ども、少々ぬきいでまいらせそうろうて、目やすにして、この書にそえまいらせてそうろうなり」といって、真実信心をいただいた親鸞の心境を端的に示す言葉二つを記録に残している。これによって、あなたの信心が正しいか正しくないかを判断する「目やす」にせよというのです。歎異抄は刃物のように鋭い。大様に読んではいけない。

 さて、最初の証文。如来とは光であり、光は智慧であり、智慧とは「そくばくの業をもちける身にてありける」という自覚です。無量劫より積みし悪業の蓄積としての宿業の身との自覚が起こったのは「たすけんとおぼしめしたちける本願」による。煩悩は煩悩を見ない。それゆえ煩悩である。見えないはずの煩悩が見えたことが智慧をいただいた証拠になる。最初の証文はそういう教えです。

 二つ目の証文。煩悩とは「思い通りにしたい心」です。それがどんな思いであろうと「思い通り」が善で、「思い通りにならない」ことが悪です。だから、煩悩には善悪がある。善悪がないと煩悩は成り立たない。しかし、善悪を区別するのが人間の頭だから、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」とは、善悪の煩悩をなくすことはできないが、存知せず、すなわち善悪に縛られない、と親鸞は表明しているのです。善悪に縛られないとは善悪に縛られてもいいということも含んでいます。これが心が自由になった証拠です。

 最後に、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界」とは「俗」です。「念仏」(智慧)は「聖」です。現代は「聖と俗」の区別がわからなくなった時代ですが、聖とは「まこと」、俗とは「そらごとたわごと」です。唯一絶対の真実があると信じ、真実を求め、真実に近ずく仏道という生き方、信仰態度があることがここに示されています。あなたの人生は仏道になっているか、との厳しいご化導です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-06 06:17 | 歎異抄の読み方 | Comments(2)

ただ仰ぐばかりなり

  一二一、摂取して捨てぬとある大悲の実が聞こえて見れば、
  助かりたいがいらず、堕ちまいがいらず、
  なろうがいらず、仕あげることがいらず、
  ただ実言のはたらきを仰ぐばかり也。

  (香樹院語録)

 これは信心をいただいた心境を述べている。仏のお心の中に生まれてみれば、自分の心が見える。見えるとは離れている。離れるとは執着が切れている。自分の心に執着がないから自分の心がどんな状態であろうと構わない。心は色んなことを思いにしてわたしを動かそうとするが、仏にお任せした身は「助かりたいがいらず、堕ちまいがいらず、なろうがいらず、仕あげることがいらず」。心を相手にしない。放っておけば仏がよいようにしてくれる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-05 06:16 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

讃仰

  一〇二、百千倶胝の劫をえて、百千倶胝の舌をいだし、
  舌ごと無量の声をして、弥陀をほめんに猶つきじ。
  この『和讃』の御こころを仰せらるるときは、
  いつもいつも、身を揺り動かし、
  立ちあがるようにして、仰せられけると。

  (香樹院語録)

 仏は色も形もない。五感で認識するわれらは五感で捉えられないものは認識できない。 存在しないことになっている。仏を語る善知識は仏を知っているのである。色も形もない仏をどうやって知ったか。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-04 06:11 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

常照我身

  五三、此の弥陀が守って居る程に、疑うなよ疑うなよ、
  十方諸仏の御請け合、天が地になっても、
  念仏行者が浄土に参らぬと云うことなしとの仰せなり。

  (香樹院語録)

 この法語は「常照我身」と題がついている。「わが身を照らす」とは、わが身が見える。無量劫より積みし悪業の蓄積の結果としての「宿業」が見える。見えることが「智慧」です。煩悩の眼には見えない宿業を仏が見えるようにしてくださった。見えることが救い、見えるようにして救うのが仏のお慈悲です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-03 06:05 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

鎮西の風下

  四一、見臺たたいて講釈する大学者でも、
  名高い道心堅固の念仏者でも、
  大概鎮西の風下に居ると仰せられき。

  (香樹院語録)

 自力とは自分の心、他力とは仏の心。自力の人は心と言えば自分の心しか知らない。仏の心は知らないから、知らないことを信じるのが信仰だと思う。人間に知らないことを信ずる能力などあるだろうか。経験したこともない仏を信じ、経験したこともない浄土に生まれさせてもらうのだという。宗教以外の分野なら変わった人だと思われるに違いない。

 他力の人は仏の心を経験する。経験すると智慧が生ずる。智慧は心が見えるという証拠があるので、具体的に、仏の心を説明することができる。経験したことを説明するのに難しい学問はいらない。三歳の子供でもできる。仏の心は一つであるから経験した者同士はその経験が本当かどうかがわかる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-02 06:24 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

仏とうしろ合せの生活

  七二、江戸のさる同行、
  一人の巡拝者を止宿せしめたるに
  仏檀の方へ足を投げ出して寝て居るを見て、
  ああ、私が昔のさまを見せて下さることとて喜ばれしを、
  師聞き給いて、おれはかえさまなり。
  おれは現在仏に足をなげ出し、
  仏とうしろ合せの日暮しをして居る。
  と仰せありき。
  先の人之を聞きて驚き入り、
  私が今まで仏と差向い気どり、
  うぬぼれの心の誤りを御知らせ下さるるは、
  香樹院さまならではと、
  慚ぢ入りて深く喜ばれける。  

  (香樹院語録) 
 

 われらは救われるだけの身である。なにか行いが立派で救われたわけではない。一方的に、なにもせずに救っていただいただけであるから、いつだって、ありのままでいて、なにも不都合はない。そもそも仏さまに不都合などない。「おれは現在仏に足をなげ出し、仏とうしろ合せの日暮しをして居る」。仏はわが実家、なんの気兼ねもいらない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-01 06:17 | 香樹院語録を読む | Comments(0)