歎異抄・第九章の読み方

  念仏もうしそうらえども、
  踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、
  またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、
  いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん。

  (歎異抄・第9章)


 著者・唯円には「踊躍歓喜」の信体験があった。だから「踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと」と訴えることができる。無明に小さな穴が開いて心に智慧の光が差した。最初は法悦の中にある。それから数年、暫くはわかった気になっていられたが、やがて「踊躍歓喜のこころ」がわからなくなる。智慧に慣れ、智慧を私物化するからである。

 親鸞もまた「親鸞もこの不審ありつるに」と言っているから、親鸞も一度はこれを経験した。信心が深まっていくプロセスであり、ここを越えなければならない。どう越えるか。越えさせるのもまた仏のお育てであると気づかされるということです。「よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり」。親鸞は弟子の唯円にこう答えた。

 救われない宿業の身との自覚をいただいて、わたしたちは仏のお心の中に生まれさせていただけた。それをも忘れて、信を得たことでなにか偉い者にでもなったように思ってしまっているんですね。わたしは今もそうですよと、このように親鸞は答えた。この経験があるからこそ、さらに深く本願力の手強さに身も心も任せていかれるようになる。このようなことが何度も何度も繰り返されつつ自然法爾の境地に深まっていく。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-19 06:29 | 歎異抄の読み方 | Comments(2)

心は内に向かない

  四三、このたび我等が一大事の後生、
  助かるも己が心、助からぬも己が心。
  我が家を出で足を東へふりむけたと西へふりむけたとは、
  一足のふりむけようでも、大きに方角がちがう。
  地獄へふり向くも我が心なり、
  極楽へふり向くも我が心なり。
  その今迄地獄へふりむけておく心をば、
  此度はふり向けなおして、
  極楽へふり向け給う善知識の御化導。

  (香樹院語録)

 心が外に向けば「地獄」への道。心が内に向けば「極楽」への道。仏はわれらの心の中におられるのである。だから、内に向かうことが「極楽」への道である。しかし、心は内に向かない。心を見て心に絶望すれば生きていられないことを本能的に知っているからである。心より金とか仕事、家族や恋のことを考えた方がずっと楽しいと信じている。臨終の床で結論が待っている。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-18 06:15 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

赤尾の道宗

  一四四、長崎の同行、
  はるばると越後まで来りて、御前え参りたる時、
  その顔に、六七十日もかかり、万里の遠路を凌ぎ来て、
  法を求むる道心者なりとの色見えたり。
  則ち師の仰せに曰く。
  赤尾の道宗は、唐天竺まで行きても、
  如何にしても法を求めんと云う志じゃったに、
  今やすやすと居ながら聞かるるとは、
  只事ではないと喜ばっしゃれ。

  (香樹院語録) 
 

 生まれれば死ぬ。始めから分かっていることだが、いざ死ぬとなると「初めて聞いた」みたいな顔をする。死に方は選べず、そもそも、どんな死も死は死、死の事実があるだけだ。一つの命からすれば死はすべての終わりだが、全体の命からすれば大河の一滴、死んだということすらない。そんな命がワイワイと無意味に騒いだ挙げ句、最後は、死んでいく先もわからず「死にたくない死にたくない」と死んでいく。死ぬまではみな死なないと思っているのである。真っ暗闇に頭を下にして堕ちていくだけなら、なんのための人生だったか。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-17 05:08 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

心の病としての孤独

  三六、伊勢進士妙念の話に、
  或る同行、私は御恩が知れませぬと申し上げたれば、
  五劫永劫五劫永劫と、独りごとに云うておれ。
  と、仰せられたりと云云。

  (香樹院語録)

 この宇宙に自分一人しかいないことを「孤独」という。仏のお心はこの宇宙に遍満しているが、仏のお心とともにないことが「孤独」である。仏のお心に出会うこと以外に孤独は癒えない。「五劫思惟の願」はわたし一人のためである。わたしのことをわたしの知らない遠い過去からずっと思いづめに思ってくださっていたお心がようやくわたしに届いたのである。わたしはずっと一人ではなかった。それが「信心歓喜」である。孤独という恐ろしい病が癒えた喜びである。心の深いところにみな孤独を隠している。自ら知らず、孤独を癒すために人の愛を求めているが、人の愛では孤独は癒されない。われらはみな一人で死んでいくからである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-15 06:23 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

邪見な心がやみませぬ

  一二、或る人、私は邪見な心が止みませぬ、
  と申し上げたれば、仰に。
  邪見な心が止められぬと思いつめて、
  かかる邪見な奴を御目当てに
  起してくだされた御本願と喜んでおれ。


  (香樹院語録)

 「私は邪見な心が止みませぬ」とは、自分の心が見えてきた。智慧が生じたのでしょう。信の一念の一歩手前です。「邪見な心が止められぬと思いつめて」「御本願と喜んでおれ」とは、自分の心をいじらずに、ただ眺めていなさいというご指導です。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-14 09:02 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

歎異抄・第七章の読み方

  念仏者は、無碍の一道なり。
  そのいわれいかんとならば、
  信心の行者には、天神地祇も敬伏し、
  魔界外道も障碍することなし。
  罪悪も業報も感ずることあたわず、
  諸善もおよぶことなきゆえに、
  無碍の一道なりと云々

  (歎異抄・第7章)

 「無碍」とは影響を受けない。自分の心の影響を受けない。「天神地祇」も「魔界外道」も自分の心の影です。だから、自分の心から、ありがたそうな心が起きてきても、あるいは反対に、恐ろしくも浅ましい思いが湧いてきても、どちらも相手にしないでいられる。これを「無碍」といいます。自分の心が見えることを「智慧」といいますが、見えるのは「離れている」から。離れて見ている。これが仏の目差しです。歎異抄・第七章は「無碍」を端的に示した。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-13 06:36 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

三種の慈悲

  一九一、慈悲に三種あり。
  小悲、中悲、大悲これ也。

  小悲と云うは凡夫の慈悲にして、
  親子、兄弟、六親眷属のものにはなさけをすれども、
  他人が如何ほど難儀しても救いやる心なき故、
  これを衆生縁の慈悲と云う。

  中悲と云うは、声聞、縁覚、菩薩の三乗の慈悲なり。
  これは我れに法の因縁あるものには慈悲をなせども、
  一切衆生のためになし給わぬ故、
  これを法縁の慈悲と云う。

  大悲と云うは仏の慈悲なり。
  怨、親、中の三を離れて一切衆生に慈悲を施し給う。

  (香樹院語録) 


 竹内先生から一番最初に教えていただいたのは「仏とは智慧を与えて救うという救いの働きです」という仏の定義でした。救うのは仏、われらは救われるだけの身です。だから、親鸞は「小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもふまじ」(正像末和讃)とはっきり教えてくださっています。では、なにから「救われる」かといえば「自分の心」から救われる。どんな状態を「救われる」というのかというと、自分の心を離れて、自分の心の影響を受けない。これを「救われる」という。

 救われなくては救われるということがどういうことかはわからない。つまり、救わんとした仏のお心がわからない。「仏とは智慧を与えて救うという救いの働きです」から、仏は自分の心が見えるように智慧を回向してくださいます。だから、自分の心が見えたら、それが仏に救っていただいたということです。われらはどこまでも「救われる身」であって、決して「救う身」ではない。これを親鸞は「小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもふまじ」(正像末和讃)とはっきり教えてくださったのです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-12 06:31 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

「慈悲」の三つの章

  ①浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、
  大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。

  (歎異抄・第4章)

  ②一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
  いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。

  (歎異抄・第5章)

  ③ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、
  わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。

  (歎異抄・第6章)

 歎異抄の第4章から第6章の三つの章は「慈悲」についての教えです。慈悲とは「救いの働き」のことです。救うのは仏であり、われらは救われるだけの身です。決して救う身ではない。仏とわたしとの関係がはっきりすることが「救われる」ということですから、救う救われるの関係をはっきりさせるために「慈悲」についての三つの章がここにまとめてあります。

 まず、第4章は「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」。聖道門は人間の心を磨いて仏の心にしようとする。くず石はいくら磨いてもダイヤモンドにはならない。人間の心への期待を捨てなさいと教えています。仏の心と人間の心、この区別をはっきりさせなくてはならない。仏の心を経験するということがあるから「仏々相念」といって、仏とわたしとの間に心の対話が成り立つ。

 第5章は「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」。父母兄弟、わが妻、わが子も、この生でたまたま縁を結んだとはいえ、無量劫以来の積みし悪業の結果としての宿業の身をもって生まれてきた「無間の罪人」どうしであることに変わりはない。いずれも仏の救いを待つ身で、わたしが救うことなどできない。親鸞は「小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもふまじ」(正像末和讃)とはっきりしています。

 また、第6章は「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」。世の習いで師と弟子ということはあるが、ともに念仏を称える身にまで育てていただいた尊い仏弟子であるから、間違っても師匠が救ったなどということはない。「救う」仏と「救われる」わたし、この区別がはっきりすることが「救われる」ことです。このように読めば「慈悲」の三つの章が領解できる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-11 12:09 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

  三五、五人七人の子を持ったる親が、
  その子がみな首の落ちるような悪事をしたを、
  並べて眺めている親の心はどう云うものであろう。
  ただ涙こぼして、見るより外はあるまい。
  在家も出家も、男子も女人も、
  彼尊の御膝元にならべて、天眼の御まなこより、
  御眺めあらせらるるのに、
  首一つ斬らるる位のことではない。

  無量劫の永の間、又再び人間に生れ出させて、
  爰までに育てるは、並大抵の御骨折ではない。
  それをば是れも無間の罪人じゃ、あれも無間の罪人じゃと、
  御眺めあらせらるる御慈悲の思召は、どのようであろう。
  それを思えば、我身は勿論のこと、我妻も子も、
  同じ御前に並ぶ彼尊の子じゃと思わば、
  たとい親は子にあやまり、夫は妻にあやまりてなりとも、
  この御法を聞かせ、御法義相続せねばならぬ。

  (香樹院語録)

 無量劫の過去よりの悪業の蓄積としてのこの身をいただいて、ここに、わたしの現在がある。わたしの親も、わたしの妻も、わたしの子らも、みな「無間の罪人」としての過去がある。この世で一時の縁を結んだがいずれ解ける縁である。親鸞は「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」(歎異抄・第5章)と言ったが、一切の有情は仏に救われるのであり、わが子であろうと、わが妻、わが親であろうと、今生ですれ違ったが、わたしが救うのではない。いずれも仏の救いを待つ身である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-09 06:42 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

解脱の耳をすまして聞く

  八四、聞くと云うに二あり。
  一には、無名無実に聞く。唯おおように聞く。名聞人並に聞く。
  二には、解脱の耳をすまして聞く。

  (香樹院語録)

 「聞く」とは自分の意見を持たない。心の器を空っぽにして、一言も聞きもらすまいぞと覚悟を決めて、言葉の奥にある善知識の本意に鋭く迫る。聞くうちに、やがて心が空っぽになる。なにを聞いているのか。なにが聞きたかったのか。なにもわからなくなる。空っぽになった心に仏心が入ってくださる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-08 06:25 | 香樹院語録を読む | Comments(0)