一 実如上人、さいさい仰せられ候う。
  「仏法のこと、わがこころにまかせず、たしなめ」と、御掟なり。
  こころにまかせてはさてなり。
  すなわち、こころにまかせずたしなむ心は、他力なり。

  (蓮如上人御一代記聞書54条)


 実如上人は蓮如上人の五男。その実如上人が蓮如上人の教えだとして、たびたび仰せになった。「仏法というのは、自分の心の言いなりになるのではなく、自分の心を楽しむ位にならなくてはならない」と。自分の心の言いなりになっていてはならない。自分の心を自分だと思って執着するものだから、逆に、すっかり自分の心に縛られてしまっている。

 これを「我執」というが、我執を断ち切って自分の心から自由になる。自由になって、逆に、自分の心を楽しむ位になれたら、それは他力というに相応しい。自分の心を主(あるじ)とするのではなく、自分の心の主(あるじ)になれ、と教えるのが仏法です。(「たしなむ」という言葉の意味を取り違えている訳を見たので、老婆心ながら。)

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-30 19:34 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

掛橋

  四九、「掛橋や、いのちをからむ蔦かづら」。
  芭蕉が夜のあけぬうちに宿を起ち、
  眠り眠り木曾の掛橋をとほりかかった時、
  ほのぼのと暁近うなったから、谷をのぞいて見たれば、
  やれやれ恐ろしや、千丈もある山の腰の掛橋であった。
  ようも躓かなんだとの意。
  今も其の如く後生大事の明るみが出て方角が知れ、
  後生知らずに今日まで暮したことを思うて見れば、
  まことに千丈の谷の上で、目が醒めたような心地じゃ。

   (香樹院語録)

 智慧を光に喩えるは「見えないものが見える」ようになるから光という。眼がよくて見えるのではなく光があるから見える。智慧の光はなにを見えるようにするかといえば「自分の心が見える」ようにしてくださる。なぜ仏はわれらに智慧を与えてくださるのか。「見えるとは離れること」だからです。心の思い通りにしたい貪欲と、思い通りにならない瞋恚にボロボロになっているが、「心のいう通りにしなくていい」と教えるために仏は智慧を回向してくださるのです。あなたを苦しめている“自分の心”から自由になる。これにまさる喜びはない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-29 06:46 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  二五、たのむ謂れも知って居る。
  悪人じゃと云うをも知っている。
  後生大事も呑み込んでいる。
  頑是なきわけ知らぬ子には教えよい。
  なにもかも合点して、悪事やめぬには仕方がない。
  浄土真宗の門徒、多くは皆この通り。
  御化導も呑み込み切って居ながら、
  我が身の地獄を何とも思わぬは残念也。

  (香樹院語録)

 仏法は心を映す鏡である。智慧の鏡に曇りはない。法を聞いて心を見ない者は法を聞いていないのである。ただ言葉を覚えただけである。念仏の真似事をしただけである。心を見ないのは心を見るのが恐いのである。心が少しはましになったら鏡を覗いてみようと思っているが、死ぬまで心が見られない。浄土真宗の門徒、多くは皆この通り。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-28 19:54 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

不思議

  二九六、安政四年十二月二十七日、
  秀存師、師の病床をたづねられたれば。
  仰せに。誰れにも人に尋ねずに、唯だまって念仏を申しなされ。
  存曰く。左様ならば、ただ御不思議におまかせ申して、
  念仏を称える計りで御座りますか。
  師曰く。不思議と云えば、
  今まで命ながらえたのがはや不思議じゃ程に。

  (香樹院語録) 

 秀存師は香樹院師の直弟子。死の床にある師に対するに、師の亡き後、誰かを師にしなくてはならないかと尋ねた。まだ自分に自信がなかった。師は弟子に対するに「唯だまって念仏を申しなされ」と。すでにあなたは信心の人、智慧が涅槃へと導いてくれるのだから、なんで新しい師が必要かと。
 
 すると秀存師、「左様ならば、ただ御不思議におまかせ申して、念仏を称える計りで御座りますか」と、少しばかりくどい。香樹院師、聞き流して「今まで命ながらえたのがはや不思議じゃ程に」と。信心の智慧を与えて、ここまでお育てくだされた仏のお慈悲がありがたいと、死を前に仏恩報謝のお気持ちを述べられた。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-27 06:04 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

山が見える

  七四、船に乗って、向いの岸が近づけば、
  さあ、向いの山が見えたと云うことは、
  十が七八仕おおせたことじゃ。
  各も生死の大海はてのないのに、
  我が疑いさえ見えたら、
  もう仕おおせたものじゃ。
  もう一山ここで越さにやならぬ。

  (香樹院語録)    


 「船に乗って」とは信心をいただいた。「向いの岸」とは彼岸、涅槃の境地のことです。煩悩具足の凡夫は仏ではないが如来回向によって涅槃の一分を経験させていただくことができる。経験させていただいたからこそ涅槃の境地(彼岸)が分かり、そこを目指して修行ができる。信の一念にいただいた「向いの岸」に渡る船を「智慧」という。

 智慧は人間の知恵(はからい)を照らす光であるから人間の知恵を超越している。超越していなければ人間の知恵を照らす光にはならない。智慧を得てはからい分別(煩悩)を始めて見せていただいた体験を信の一念というが、信後も最初のうちは自力と他力の間を言ったり来たりする。何年もの間、智慧がまだまだ身につかない。どこか自信がないが、それが信心が深まって行くプロセスであるのは間違いはない。

 信心の深まりとともに「各も生死の大海はてのないのに、我が疑いさえ見えたら」と、智慧とはなにか、仏とはなにか、今一つ不審が晴れずにいたが、「我が疑い」が見えて、自力がなくなる。他力だけになる。仏を疑う訳ではなかったが、最後まで残っていた不審がようやく晴れる。そのことを香樹院師は「我が疑いさえ見えたら、もう仕おおせたものじゃ」と教えて下さっているのです。

 願力自然(智慧)の働きにより、智慧が自由に働いてくる自然法爾の境地に入ったのです。「もう一山ここで越さにやならぬ」の一山を越えたのです。それなので、師いわく「もう仕おおせたものじゃ」と。さて、「山が見える 」と題のあるこの法語は相手がない。これを聞かせた「各も」とは誰であったろうか。というのも、ここまで来る人は稀であろうから。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-26 14:55 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

願力自然

  ①信心さだまりなば、
  往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、
  わがはからいなるべからず。

  ②わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、
  自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。

  ③すべてよろずのことにつけて、
  往生には、かしこきおもいを具せずして、
  ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、
  つねはおもいいだしまいらすべし。
  しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。

  ④わがはからわざるを、自然ともうすなり。

  (歎異抄・第16章)

 最初に「①信心さだまりなば」とある。「往生」とは仏に成る。無為自然の悟りへと心を開くのが智慧の働きです。智慧の働きを「願力自然」という。願力自然のことを「信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず」と教えてくださった。「わがはからい」とは“我”というちっぽけな有限差別の世界をつくる。差別は苦しみに向かう。安楽に向かう念仏とはまったく方向が反対だ。

 次に「②わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし」とある。願力を仰ぐには願力を一度は経験しなくてはならない。願力を最初に経験するを「信心さだまりなば」という。「柔和忍辱のこころ」とは仏心のことです。煩悩を仏心へと転ずる働きが「自然のことわり」だと教えてくださった。「転悪成善」ともいう。悪の煩悩を善の仏心に転ずる働きこそが智慧(念仏)の働きです。

 最後に「③すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして」とは、人の頭は「かしこきおもい」で出来ている。賢くないのに賢いと思うから愚かという。それを「具せず」とは頭に湧いては消えるだけの思いを相手にしない。それが「智慧の念仏」であると教えてくれています。実に親切です。

 「④わがはからわざるを、自然ともうすなり」。これはまとめの言葉です。「わがはからわざる」とは無我のこと、「自然」とは全体として働く働き、そこには個がない。個のない無我へと心を開いていく。それが「念仏」であると教えて下さった。親鸞の「自然法爾章」に通じる唯円のすばらしい文章です。自らの経験に基づいていることは言うまでもない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-25 12:15 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

回心ということ

  一向専修のひとにおいては、
  回心ということ、ただひとたびあるべし。
  その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、
  弥陀の智慧をたまわりて、
  日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、
  もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、
  回心とはもうしそうらえ。

  (歎異抄・第16章)

 智慧は心が見える。心が見えるようにして救う。知らなかった智慧(仏)を始めて知るから「弥陀の智慧をたまわりて」という。智慧を与えて救う、これが仏のお慈悲。心は心に執着しているからいつだって心の求めることをしたい。心に夢中になっている。いつも執着の火だるまになっているが、火だるまになっていることがわからない。

 心から出てきた「思い」の通りにしなくちゃと、いつも心に支配されて自由がない。こんな心に智慧が働く。火だるまになっている姿を見せる。火に水をかける。心ははっとして心を見る。これが「弥陀の智慧をたまわりて」という体験だ。智慧を一度いただけば、火だるまになっては、はっと気づいて心を離れる。これが出来るようになる。この繰り返しが一生涯続く。これが智慧、これが仏道になる。

 生きることが煩悩、煩悩あるかぎり智慧の救いは働き続ける。煩悩は無量、無辺だから、煩悩の火が消えるまで智慧の救いの活動は続く。これがこの胸の中で起きていることだ。そして、この身が滅するとき、この身に起きていた智慧の救いの事業、衆生済度も終る。この身を救い終わって成仏する。この身に現れた仏が成仏する。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-23 19:59 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

  二九五、安政四年十二月三日、
  了信、御枕許にて申し上ぐるよう。

  先年長浜にての御聞かせ、
  あら恐ろしや恐ろしやあら嬉しや嬉しやの思いの起らぬは、
  無宿善じゃとの御意で御座りましたが、
  今私もようよう其処えとどかせて頂きました。
  これは私が罪造りながら知らずにいることを、
  御知らせ下さるることで御座りますか。

  仰せに。そうじゃ。
  凡夫と云うものは生れ落ちるから死ぬるまで、
  三塗の業より外に仕事はせず、
  毛のさき程も身を知らずに居るが凡夫じゃ。

  申し上げて曰く。有難う御座ります。
  善知識様の御化導によりまして、
  火の坑の上の綱渡りは、
  私が日々の所作と思い知らせて頂き、あら恐ろしや、
  かかるありさま見込んでの御呼びかけとは、あら嬉しや、
  国に一人郡に一人の仕合せものと喜びまする。

  (香樹院語録)

 この法語は信心というものがどのようなものか、実にわかりやすい。了信という人、臨終の床にある師に対して、「これは私が罪造りながら知らずにいることを、御知らせ下さるることで御座りますか」と領解を述べれば、香樹院師、言下に「そうじゃ」と認可する。「凡夫と云うものは生れ落ちるから死ぬるまで、三塗の業より外に仕事はせず、毛のさき程も身を知らずに居るが凡夫じゃ」。人はみな自分が誰かがわからずに迷うのであると、まことに単刀直入、仏法の核心に斬り込む。

 自分が誰かを知らないから、欲望や煩悩に簡単に騙される。自分の心に騙されていることにも気づかず一生を終る。これは悲しくも、多くの命の、まぎれもない現実である。よくよく心して聞くがよい。さて、信心は必ず二種深信である。「私が日々の所作と思い知らせて頂き、あら恐ろしや」が機の深信、「かかるありさま見込んでの御呼びかけとは、あら嬉しや」は法の深信、まことにわかりやすいご化導である。信心の人は稀であるから「国に一人郡に一人の仕合せものと喜びまする」と了信は喜んだ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-22 06:26 | 香樹院語録を読む | Comments(3)

  源信、広く一代の教を開きて、
  ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
  専雑の執心、浅深を判じて、
  報化二土、正しく弁立せり。

  極重の悪人は、ただ仏を称すべし。
  我また、かの摂取の中にあれども、
  煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、
  大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり。

  (正信偈・源信讃)

 「我また、かの摂取の中にあれども」とは、身は娑婆にあれども心は摂取の心光の中(浄土)にある。「煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども」とは、煩悩身についている肉眼では仏を見ることはできない。如来廻向の仏眼で仏を見させていただくのである。「大悲倦きことなく」とは、わたしが憶念しようとしまいと、「常に我を照らしたまう」。常に仏の方から見られている。

 智慧を光に譬えるのは、闇を破って見えないものを見えるようにしてくれるから光というのです。眼がよくて見えるのではない。だから、自分の心が見えたら、それが智慧をいただいたことです。煩悩は煩悩を見ることはできないからです。それを「煩悩、眼を障えて見たてまつらず」といいます。如来廻向の智慧をいただいて自分の心を見せていただくのです。(この段の間違った解釈を見たので、老婆心ながら。)

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-21 07:01 | 教行信証のこころ | Comments(0)

助からぬ心

  一七五、或る人、師に参りて、
  私の心は微塵も助かりそうな所は御座りませぬと申し上ぐ。
  師の仰せに。その心苦にするな、
  微塵も助からぬ心を、助けて下さるが誓願の不思議じゃ。
  それが他力の御不思議じゃ。

  (香樹院語録)  
  

 この人、名前は残っていないが、「私の心は微塵も助かりそうな所は御座りませぬ」と、よくぞここまで聞き遂げた。しかし、まだ仏のお心の中に生まれていない。だから、師いわく「その心苦にするな」と。自分の心に絶望しただけでは信心ではない。まだ仏のお心を知らない。未来に光がない。いつ信の一念が訪れてもよい。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-20 06:36 | 香樹院語録を読む | Comments(0)