法門に狎るる人

  三九、妙念の話に、
  寺に住むものと、顔の古き同行とは、
  皆な鬼の喰い物なりと、
  時々仰せられたりと。

  (香樹院語録)

 世間は人が共存するために造った人為的な空間ですから、この中で生きるには実に細かなルールがある。道徳といって心までコントロールする。順応できない者には牢獄のような場所だ。出家であれ在家であれ仏教は"世間"を捨てる。信心の人は“身”こそ世間にあるが“心”は世間を捨てている。しかし、「寺に住むものと、顔の古き同行」は身も心も世間を生きている。お寺は仏様のおられる浄土であるのに、お寺を世間にして恥ずかしくない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-24 06:25 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

これ仏法の盗人なり

  二、法話を聞く僧に盗人あり、また俗にも盗人あり、
  其の故は、高座の傍に居ながら、
  信心の方をおしのけて、面白き言葉あれば、
  我が身法談の得分にしようとかかる。是れ盗人なり。
  俗人は初に諸人をだまし、次に僧をだまし、次に仏をだます。
  その故は、仏法者らしき顔して参詣し、
  諸人にほめられようと思うは、是れ諸人をだます也。
  僧の前に出で、口に綺麗に云いならべるは、僧をだます也。
  しかしてその心中は、みな仏をだまして居る也。
  これ仏法の盗人なり。

  (香樹院語録)

 この法語には「表裏の不相応」と題がある。自分一人の救いのための信仰であるはずなのに、一方に「我が身法談の得分にしよう」と法を聞く僧があるかと思えば、一方には「諸人にほめられよう」とばかり参詣する門徒がいる。いずれも仏法を"世渡り"にしている。香樹院師は「盗人」と厳しい。竹内先生はよく「親鸞には嘘がない」と言われた。親鸞に嘘がないのは仏をお相手として生きているからです。

 人を相手に生きるためには嘘をつかなければならない。ましてや人に心の中を見せるのは愚かなことです。しかし、仏と二人だけのところでは嘘はいらない。「こんなお粗末な者です」と心の隅々までさらけ出してなんの心配もない。そんなことは仏はとうにお見通しですが、わたしたちが自分から心を開いて見せるのを待っておられるのです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-23 06:18 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

我等は苦痛に恩を負う

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  一二三、「梅痩占春少、庭寛見月多」
  (梅やせて春を占むるは少なけれど、庭ひろくして月を見ること多し)。
  人間は苦と楽とある故、成仏がなるなり。
  然れば苦は嘆くべからず、我等が出離のもとでなり。

  (香樹院語録)

 思い通りが「楽」、思い通りでないことを「苦」という。誰かにとっての「楽」は必ず誰かにとっての「苦」であるし、昨日は「楽」だったのに、同じことが今日は「苦」であるということもある。だから、この世に固定した苦楽はなく、思い通りにしたい心が苦楽を造って、苦楽は外にあるとだまされている。苦楽は外ではなく内側からやって来るというのが人生の正しい理解である。外に花満開の人生は内側にある永遠の仏心に触れる機会を奪う。この世のことしか知らずに死んでいくのである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-22 07:08 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

信ぜずとも

  五、尾張神尾のおこう、
  私は聞いても聞いても聞こえませぬから、
  まづ暫く帰って参ります、と申し上げたれば、
  行くなら行け、仏法が旱魃するぞ。 と仰せあり。
  女、空恐ろしくなりて自然と帰る心も止まりぬ。
  其の後、同女に対せられて、
  後生大事となり、骨折って聞くなら、
  信ぜずに死んでも、如来さまは、
  一度は生死を離れさせて下さるる程に。
  との仰せなりき。

  (香樹院語録 ) 

 信心がわかろうとわかるまいと仏のお心の中である。空気ということを知っていようが知るまいが空気を吸って生きている事実に変わりはない。信心は如来回向であるから、信心がこの身に成就するかしないかはわたしのはからいではない。わたしが努力するように思うが、努力するのも仏のはからいである。得られるなら努力するが得られないなら努力しない。そんなことではない。やむにやまれず聞くのである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-21 06:37 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

道は恕恩にあり

  四、道は恕恩にあり。恕恩と云えば想いやること也。
  人の心の食い違いは常のことなり。
  男と女と、年寄と若者と、賢いものと愚なものと、
  達者なものと病人と終に食い違うべし。
  向うの方え尤もをつけて想いやりてみれば、腹は立たぬ也。
  この想いやると云う一つを以って、あらゆる道をつらぬくと云うは、孔子様の教なり。
  我が心かなはずとも、向うの身になれば、尤もじゃと思えば心安楽。

  (香樹院語録)

 世間という処は自分の思い通りにしたい心と心が猛スピードで行き交い、いつでも、どこでも交通事故を起こしている。死者もけが人も出る。「向うの方え尤もをつけて想いやりてみれば、腹は立たぬ也」とは安全運転の秘訣でしょう。思い通りにできたことだけが人生の財産、思い通りにできた自分だけが価値がある。そんな人生観を見直さない限り、怒りから自由にはなれない。

 

南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-20 06:54 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

いやでも引きよせられる

  二七九、助かりたいと思う我等の心は疎なれども、
  助けたいの大悲の念力に引きよせられて、
  必ず必ず疑いは晴るるほどに。
  危げなく此世を暮し、御称名を励まっしやれ。

  (香樹院語録)  

 いま起きている"ありのまま"の事実を"如来"という。自分に不都合だからといって心が事実を受け入れられない。それを"疑い"という。事実を拒否することは如来を拒否する。だから苦しむ。どんな事実も誰かに都合よく、誰かに都合が悪い。事実はただ事実で"如"であるが心が"如"になれない。しかし、いま、ここで起きていることだけが"如来"であるから"あるがまま"になれと「大悲の念力に引きよせられて」、いつか事実を心に受け入れることができる。"あるがまま"を受け入れることを「疑いは晴るる」という。心の不都合を捨てて"無我"になることを"南無"といい、事実を事実と受け入れることでわれらは救われる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-19 06:21 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

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  六一、ああ、地獄え堕ちそうでどうもなりませぬが、
  それはいかがと申し上げたるとき、
  我れも心が悪い、と仰せあり。
  又のとき、ああ早う迦陵頻迦の声がききたい、と仰せありき。

  (香樹院語録)  
  

 同じ「心が悪い」でも、ある人は「地獄え堕ちそうでどうもなりませぬ」と未来を心配し、香樹院師は「早う迦陵頻迦の声がききたい」と未来を楽しみにしている。心は問題ではない。信仰があるかないか、それだけです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-18 06:59 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

ただ聞くばかりと喜べ

  二九一、願力無窮にましませば、
  罪業深重もおもからず。
  仏智無辺にましませば、
  散乱放逸もすてられず。

  一生罪を造れども障りになるとも仰せられぬ。
  思い切って罪の沙汰無益なり。
  十方浄土中、唯有一乗法、無二亦無三。
  聖道の人々は一衣一鉢の身となりて、
  生々世々難行苦行してさえ悟られぬ悟られぬと歎き給うに、
  この私は愛妻愛子の我がままながら、
  心つくして聞くばかりで往生すると思わば、
  今日より仏法三昧になるべし。
  三昧とは、それに心を止めて余のことを思わぬこと。
  余人のよしあしを心にかけず、
  我が後生ばかり安堵せば、
  この世ばかりにあらず無量劫の本懐満足なり。

  (香樹院語録)   

 仏法は事実に立つ。事実とは"いま""ここ"のことです。"いま"は"いま"にいては見えない。"ここ"は"ここ"にいては見えない。"いま"を見る眼は未来にあり、"ここ"を見る眼は彼岸にある。"いま""ここ"を見る眼を仏眼といい、"いま""ここ"にあるわれらの眼ではないから、"いま""ここ"が見えたら「如来回向」というのです。仏の眼に見えるわれらの事実を「罪業深重」「散乱放逸」といい、ありのままの事実を見せていただいたから、われらは事実を事実と受け入れて、もうジタバタしない。聖道の人はこれを「悟り」というが、われらは「心つくして聞くばかりで往生する」から、これを「信心」という。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-17 06:17 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

心持の悪い時は

  七九、秀存講師、尋ね申して曰く。
  信には疑いなけれども、
  それでも心持の悪い時がありますが、
  そんな時は、いかが致せばよろしきにや。
  師の仰せに。そんな事は他に云わいでもよい。
  ただ御念仏をしていらっしやれのう。

  (香樹院語録)

   
 信心をいただくとは心を離れて心を見る体験です。離れるから見える。"ここ"にいて"ここ"は見えない。"ここ"が見えたのは"ここ"を離れたからです。自分の心を一度は離れても、気づかないうちにまた自分の心と一体化してしまう。心への執着はしぶとくて、何度も何度も、延々と、繰り返し繰り返し、念仏して心を離れなくてはならない。秀存師は「それでも心持の悪い時があります」と。自分の心への執着を残している。香樹院師のご指導は簡単で「そんな事は他に云わいでもよい」。ただ念仏していなさい。自分の心に振り向くなと教えている。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-16 06:35 | 香樹院語録を読む | Comments(5)

地獄あることなし

  一二六、幕府の儒官林大学、
  守山駅に逗留の際、永願寺に師の講演ありと聞き、
  参詣して親り問うて曰く、地獄は実にありや。
  師曰く。必ずあることなし。
  林曰く。それは自語相違ならずや。
  師曰く。罪なきものにはこの世の獄屋もなし、
  罪の軽重によりては、無量無辺の地獄あり、と。
  林大学、則ち大に感ずる所あり。
  其の後、日毎に参詣聴聞す。
  後に至りて師、よき弟子を設けたりと仰せあり。

  (香樹院語録) 
 

 「地獄は実にありや」と聞く林大学頭には「死後の地獄」の心配があった。それを見透かして「必ずあることなし」と。案の定、林大学頭、香樹院師の言葉の罠にかかる。「それは自語相違ならずや」。香樹院師答えて「罪なきものにはこの世の獄屋もなし」と。信の一念に罪消えて仏のお心の中に生まれた念仏者に「死後の地獄」はない。しかし「罪の軽重によりては、無量無辺の地獄あり」。罪を造れば因果の道理で、自ら地獄を造って、そこへ自ら堕ちていく。当然ではないか、と。「林大学、則ち大に感ずる所あり」。林大学頭、自らの地獄行きを悟ったか。師のご化導を仰ぐことになった。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-15 06:00 | 香樹院語録を読む | Comments(0)