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人生の意義

  一五八、命は法の宝とは、
  かねてお聞かせに預って居たれども、
  今日までさほどに思わなんだ。
  いま命の危さをお聞かせに預ってみれば、
  まことに一日一日が大事の命じゃ。

  (香樹院語録)

 世間でいう「一日一日を大切に」とは汚い生への執着である。信心とは一度は心が死ぬのである。死んで新しい心で生き返るから「今日までさほどに思わなんだ」というのである。新しい人生になるのである。どんな人生か。すなわち、仏のお心の中で仏になる修行をさせていただくから「一日一日が大事の命じゃ」となる。「一度っきりの人生だから大切にしましょう」などという欲ぼけた話ではない。ちなみに、弟子の香山院師が釈をつけている。「私に曰く。其の大事の命を今日もまた一日くらしたが、若し法を聞くまいならば宝ではない。かえって罪を造るばかりじゃ」と。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


  ※2016-11-15より通算172回


by zenkyu3 | 2017-05-31 06:52 | 香樹院語録を読む | Comments(5)

  一五一、家内が和合をするには、先づ我が心が我が心と和合せねばならぬ。
  しかるに、我が心が我が心と中あしくて、
  人に物をやろうとすれば否とおもう、堪忍しようとすれば否とおもう、
  人に負けておこうとすれば否とおもう、右え行こうとすれば左のことを思う。
  かかる心と心とを和ぐるは、我が知恵分別では行きかねる。
  それは如来様の御心にて和げ給う。
  いろいろさまざま道に背ける事をなさんとすれども、
  如来様の御慈悲を思うて今宵も知れぬ命とおもい、
  是れは恥かしやとおもうて心の中で打ち消してもらう故、
  出す手も引き込む心になる。
  何事に就いても、かように心と心とが和合せねば家内が和合する道理はない。

  (香樹院語録)   

 前回の法語「善悪は我が心上の影なり」は外なる事実を受け入れないという話でした。今回の話は内側の話です。わが心の事実を受け入れない、わが心を分別するという話です。わが心を分別しないことを「無分別智」といいます。頭の中に湧いてくる思いは放って置くと自然と消えてなくなる。これを知るだけが悟りです。

 文中の「かかる心と心とを和ぐるは、我が知恵分別では行きかねる。それは如来様の御心にて和げ給う」とは、頭の中の思いに手を突っ込んで掻き回すようなことはするなということです。「是れは恥かしやとおもうて心の中で打ち消してもらう」のが智慧の働きで、騒々しい思いが消えてなくなるので「涅槃」といいます。この話は仏法の核心中の核心です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-30 06:46 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

善悪は我が心上の影なり

   一五二、凡夫の身の間は種々の災禍もあり、
  自身に罪はなくとも人に難題うくることもあらん。
  かかることは己が過去よりの業と思わば、
  たとい針の筵に坐っておれと云われても、
  御恩に向えば否と云われぬ也。
  他人を鬼じゃ鬼じゃと思うは人が鬼にあらず、
  人を鬼にするは、我が方より鬼とするなり。

  (香樹院語録) 

 この法語には「善悪は我が心上の影なり」と題がついている。いま起きていることが仏が与えてくださった仏の御いのちだから「たとい針の筵に坐っておれと云われても」、与えられてくるすべてが仏の「御恩」、そうわかれば「否と云われぬ」。われらはいま起きている、ありのままの事実が受け入れられなくて苦しんでいる。外なる境遇、内なる心、仏の御いのちでないものはない。好き嫌いを言わずに事実をありのままに受け入れられたら救われる。こんな簡単なことがなかなかできない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-29 06:30 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  一九五、仰せられ候。
  如来さまから一大事になる心をおあたえ下さると、
  我が心が一大事になる。
  その心でなけねば、仕おおせずばおくまいの心は起らぬ。
  仕おおせずばおくまいの心が起れば、
  仕遂げぬさきに死んでもむだ事にはならぬ。

  (香樹院語録)

 どのようなお話か。一つは「如来さまから一大事になる心をおあたえ下さる」。二つは「仕遂げぬさきに死んでもむだ事にはならぬ」。まず一つ目。仏が与えるのは仏の心です。仏の心は涅槃ですから、煩悩がなくなった心の状態がどんなものかを知る。これで煩悩を洗い落とす仏への道、仏道が成り立つ。つまり、仏に成る道を始めて歩み出す。これは「即得往生」(十八願成就)の話です。

 二つ目は、仏に成る道の途中で死んでも、仏が仏になる修行をするのであるから、仏に成れないということはない。そのようなことが書いてある。これは「必至滅度」(十一願成就)の話です。信の一念に仏心をいただく。心はすでに仏であるからいつ死んでも成仏である。これを「現生不退」といいます。信に始めがあり終わりがある。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-28 06:26 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

活仏を一体御造り申した

  一〇八、或る時に仰せに。
  生涯の間に一人信者が出来たら、
  活仏を一体御造り申したと同じ事じゃで、
  教導の本分もたち、
  仏祖えの申しわけも充分に立つ事じゃぞ。

  (香樹院語録)

 竹内先生からはなにを教えていただいたというより、信心を正しくいただいた"生き仏"を目の当たりに見たというだけで十分でした。先生からは「念仏者が生まれた」と喜んでいただきましたが、先生に認められたことより、先生に喜んでいただいたことの方が嬉しかった。実なき世間に信仰の光を見つけられたことは尊い人生でした。竹内先生にお会いさせてくださった仏の御はからいに感謝いたします。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-27 06:04 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

めでたく往生せり

  四六、越後大地震の時、
  かねて師の御教化を受けし老婆、
  鍋を持ちて門口を出でんとする時、
  家倒れて其の下になり、
  いよいよ今かいなと云いて死す。
  師是れを聞き給い、芽出度往生せり、
  と仰せありき。

  (香樹院語録)

 仏教は出家であれ在家であれ世間を捨てる。竹内先生は「仏法を世渡りの杖にしている」といつも弟子を叱っておられた。信心の人は身はまだ世間にあるが心は世間を捨てている。それを「即得往生」という。身はまだ世間にあるから「往生」とはいわない。往生は即ち成仏、修行の終わりであり、完成であるから「めでたい」という。死んでどこかに生まれて、なにかをしようという話ではない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-26 06:57 | 香樹院語録を読む | Comments(5)

香樹院師の遺教に接し

  香樹院師曰く。
  きく御本願も不思議なれば、
  かかる御法きく身になりしは、なお不思議なり。
  
  (前略)たとえ「信ずる」という自証的なものはないながらも、
  香樹院師の遺教に接し、これこそ真宗の活きたおみのりであり、
  祖師の獲得、歓喜された体験内容そのままの伝統であると
  知らされたことは今生またとなき歓びであった。

  ともかくもこの私に聞法の道筋は明瞭に示された。
  その後香樹院師の法語をくり返しくり返しするあいだに、
  ぼうぼうとして大洋を望むが如き祖師の信心獲得という体験界の風光も
  おのずからこの聾せる耳に聞こえるようになった。
  香樹院師の指南がなかったならば、
  祖師のいたられた境地は全く窺い知らぬままで終わったことであろう。
  その香樹院師の尊き御指南の一がこの法語である。

  (櫛谷宗則編・松原致遠著「わが名を称えよ」柏樹社1989年刊より)

 松原致遠師の「わが名を称えよ」は現在絶版となっていますが古書としては手に入るようです。二十の半ば、内山興正老師の著書に出会い仏教を学び始めましたが、行としての禅にはついに縁づかず、十年ののち機が熟したのでしょうか、この本に出会って念仏をしようと決心しました。この本の編者である櫛谷宗則師は内山老師の直弟子です。

 さて、それから二十七年、真宗大谷派・念佛寺さんのホームページにたまたま「香樹院語録」を見つけました。思いもかけないことに今では香樹院語録を拝読する毎日です。読んでも読んでも飽きるということがありません。松原致遠師の「わが名を称えよ」で香樹院語録を知り、竹内先生から加藤智学編集の「香樹院講師語録」をいただくこともありましたが、この語録を拝読するには今が一番よかったということなのでしょう。ありがたいことです。

 南無阿弥陀仏


※2016-11-15より通算166回


by zenkyu3 | 2017-05-25 06:52 | 松原致遠の文章 | Comments(0)

法門に狎るる人

  三九、妙念の話に、

  寺に住むものと、顔の古き同行とは、
  皆な鬼の喰い物なりと、
  時々仰せられたりと。

  (香樹院語録)

 世間は人が共存するために造った人為的な空間ですから、この中で生きるには実に細かなルールがある。道徳といって心までコントロールする。順応できない者には牢獄のような場所だ。出家であれ在家であれ仏教は"世間"を捨てる。信心の人は“身”こそ世間にあるが“心”は世間を捨てている。しかし、「寺に住むものと、顔の古き同行」は身も心も世間を生きている。お寺は仏様のおられる浄土であるのに、お寺を世間にして恥ずかしくない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-24 06:25 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

これ仏法の盗人なり

  二、法話を聞く僧に盗人あり、また俗にも盗人あり、
  其の故は、高座の傍に居ながら、
  信心の方をおしのけて、面白き言葉あれば、
  我が身法談の得分にしようとかかる。是れ盗人なり。
  俗人は初に諸人をだまし、次に僧をだまし、次に仏をだます。
  その故は、仏法者らしき顔して参詣し、
  諸人にほめられようと思うは、是れ諸人をだます也。
  僧の前に出で、口に綺麗に云いならべるは、僧をだます也。
  しかしてその心中は、みな仏をだまして居る也。
  これ仏法の盗人なり。

  (香樹院語録)

 この法語には「表裏の不相応」と題がある。自分一人の救いのための信仰であるはずなのに、一方に「我が身法談の得分にしよう」と法を聞く僧があるかと思えば、一方には「諸人にほめられよう」とばかり参詣する門徒がいる。いずれも仏法を"世渡り"にしている。香樹院師は「盗人」と厳しい。竹内先生はよく「親鸞には嘘がない」と言われた。親鸞に嘘がないのは仏をお相手として生きているからです。

 人を相手に生きるためには嘘をつかなければならない。ましてや人に心の中を見せるのは愚かなことです。しかし、仏と二人だけのところでは嘘はいらない。「こんなお粗末な者です」と心の隅々までさらけ出してなんの心配もない。そんなことは仏はとうにお見通しですが、わたしたちが自分から心を開いて見せるのを待っておられるのです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-23 06:18 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

我等は苦痛に恩を負う

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  一二三、「梅痩占春少、庭寛見月多」
  (梅やせて春を占むるは少なけれど、庭ひろくして月を見ること多し)。
  人間は苦と楽とある故、成仏がなるなり。
  然れば苦は嘆くべからず、我等が出離のもとでなり。

  (香樹院語録)

 思い通りが「楽」、思い通りでないことを「苦」という。誰かにとっての「楽」は必ず誰かにとっての「苦」であるし、昨日は「楽」だったのに、同じことが今日は「苦」であるということもある。だから、この世に固定した苦楽はなく、思い通りにしたい心が苦楽を造って、苦楽は外にあるとだまされている。苦楽は外ではなく内側からやって来るというのが人生の正しい理解である。外に花満開の人生は内側にある永遠の仏心に触れる機会を奪う。この世のことしか知らずに死んでいくのである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-05-22 07:08 | 香樹院語録を読む | Comments(0)