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  八一、或る人、後生と云うことを存じませぬ、
  と申し上げたるとき、仰せに。
  それ知らるるまで容易でない。

  (香樹院語録)  

 後生は仏である。色も形もない一如になる。汚れも穢れもない空である。空から一切が生じ、一切は空に還る。還るところがわからずに迷っている。安心して死ぬことができない。後生とは生の後ろ、生の背景である。背景がわかってこそ今がわかる。還るところがわかるから安心して迷える。最後はそこに還る。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-18 22:55 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  三三、みな人は、信をとらんと思い、
  また、たのみ心にならんと思えり。
  それはあんまり、欲が深すぎると云うもの也。
  取ることばかりに骨折って、
  自力を捨てることに骨を折ることを知らぬの也。
  碁をうつにも捨石が大事なり。
  信を得るにも、雑行をすてることが大事也。

  香樹院語録)

 「自力を捨てる」とは具体的には自分の考えを捨てる。主義主張、信念、価値観、正義といった尺度を捨てる。起きていることに"いい悪い"を言わない。起きたことに"好き嫌い"を言わない。起きていること、起きたことは"わたしに関係なく"起きている。起きていることになにか影響を与えられると考えるなら傲慢である。環境を支配できるという考えは滑稽ですらある。わたしに出来ることは起きたことに対応することだけで、なぜ起きたかなどと理由を考えてもわからない。起きたことをそのまま頂いて、とくになにもない。それを「自力を捨てる」という。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-17 21:52 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  二四四、天保五年十月十日の夜なりき。
  或る人、師の御前に出でて、うつくしく領解を述べたれば、仰せに。
  述べた口上には間違いはないが、その言葉を便にするな。
  言葉さえ云いならぶれば、信心を得たものとするのではないか。
  それでは他力回向とも、仏智より獲得せしむるとも仰せらるる所と相違する。
  御教化の御言葉に隙のない様になったが実の信心じゃと思うても、
  それでは言葉は他力でも、心が自力の執心じゃ程に。

  (香樹院語録)  

 仏のお心を伝えたい。得たという確信があるからこそ、仏のお心がどういうものか、どのようにすれば信を得られるかを伝えたい。しかし、いくら言葉にしても言葉はどこまでも言葉、経験そのものではない。聞法の場では、聞くのは仏のお心であって言葉ではない。言葉が伝えようとしている仏のお心を直感しなくてはならない。たとえば、水を求めてコップを渡されたら中に水が入っていると思うものである。あなたが求めているのはコップではなく水である。渡されたコップに水が入っているかどうか、よく確認したほうがよい。法を説く人に伝えるものがないからである。この法語には「文字や言葉の穿鑿ばかりでは御慈悲は味えざる也」という長いタイトルがついている。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-15 21:46 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

我が料簡を捨てる

  二二五、江州草津合羽屋に対せられての仰せに。  
  往生を願うについて、二の関所がある。
  一には世を捨てて願い、二には疑網をすてて願わねばならぬ。
  この二を捨てねば極楽まいりは出来ぬ。
  初めの世をすてて願うと云うは、
  望みさえあれば随分世をすてて願うと云う人がある。
  しかし後の疑網の関所には、番人がいる故我が料簡ではゆかれぬで、
  我が力すてて唯仏智のおはからいで往生させていただくのじゃ。

  (香樹院語録)

 我が料簡を捨てる。無我ともいって、これが仏教の眼目でしょう。我が料簡で生きていけると思ったのに我が料簡では立ち行かなくなった。そこで我が料簡を建て直したくて仏教を学ぼうと思い立ったのでしょう。しかし、いくら学んでも仏教がわからない。やがて飽きてしまう。我が料簡を建て直したところで、いずれまた行き詰まる人生ではありませんか。仏教は我が料簡を捨てなさいというのだから、我が料簡を立て直そうとして聞いても、そもそも向いている方向が西と東ほど違う。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-14 22:30 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

仏の心を賜わるなり

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  一二二、仏のこころを知る者は、
  仏の心を賜わるなり。
  故に大悲の御心を聞かねばならぬ。

  (香樹院語録)

 煩悩がない悟りの境地を涅槃という。仏教ではそう教えているのに、真宗では「煩悩を断たずに涅槃を得る」という。悟るのではなく、信ずる心一つで、煩悩をもったまま悟りの境地である涅槃に入るというのです。こんなことはありえないことだが、実際に起こることだから「誓願不思議」という。

 仏の心を涅槃という。だから仏の心と感応道交すると涅槃に入る。煩悩の身をもって仏になることはないが、煩悩の身をもって涅槃に入ることはできる。自分の心より高次の心、仏の心の中に「摂取不捨」される。涅槃に入ると無我になる。無我になると仏の声が聞こえる。自分の心以外に仏の心があると知った。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-13 23:18 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

心が何と思うとも

  一〇六、ある人、今にも死のうと思えば、
  もう一度御目にかかりてと云うような、心で御座りますと述ぶれば、仰せに。
  それが肝要の所で、それが疑いの根じゃ。それで、よく聞けよく聞けと云う事じゃ。
  能く能く聞くと、今迄は何を疑うて居りましたやらと、如来様に御縋り申す心が信心決定じゃ。
  是一つさえ訳が分ったら、日本国がひっくり返っても、浄土参りに間違いはない。
  世上で信心安心の訳聞いて、此処でこう聞いた彼処でああ聞いたが、
  どちらが真実やらと云う様な詮索沙汰をやめにして、
  誰がどう云うとも、心が何と思うとも、
  阿弥陀様の助くる助くるの御呼声を、頂いた身じゃものをと思えば、
  こんなたしかな事はないではないか。

  (香樹院語録)   

 この法語には「心が何と思うとも」というタイトルがついています。われらの心は肉体に附属している心なので心に従うということは肉体の欲求に従うということです。肉欲に縛られてわれらはありとあらゆる苦悩を受ける。このことを知らずに苦しんでいる。そのような姿を仏教は「無明」と教えている。「心が何と思うとも」心の相手をしない。心に振り回されない。心の主人となって奴隷にならない。心を離れれば離れるほど苦しみはなくなっていく。これが仏教です。

 自分の心を一度離れる経験を「即得往生」といい、自分の心に支配されない生活を「往生」といいます。「阿弥陀様の助くる助くるの御呼声を、頂いた身じゃもの」、なにから助けていただいたか。自分の心から助けていただいた。長い間だまされ続けてきた自分の心から助けていただいた。今まで心にどれ程だまされてきたか。「心が何と思うとも」もう心の相手にはならない。信仰とは、仏のお心と自分の心と、どちらを信じますかという話です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-12 21:53 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

心をすてて

  一〇四、或る人申し上ぐるよう。
  心にしっかりと落ち付きとう御座ります、と。
  仰せに。それは自力のこころ。それすてて能く骨折って聞け。
  左様なれば、心をすてて、仰せに順いまするで御座りますか。
  仰せに。そうじゃ、そうじゃがそれは、我が力では順われぬ。

  (香樹院語録) 
 

 わたしの心は落ち着かない。あれやこれやととにかくうるさい。そんなことはわかりきっている。仏のお心は静かで平和だ。仏のお心を涅槃という。わたしの落ち着かない心が落ち着くのは死ぬときだから、落ち着かないわたしの心はそのままにしておいて、静かで平和な仏のお心の中に生まれようというのが真宗の修行です。正信偈に「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」と教えていただいている通りです。
 
 涅槃を(少分)経験させて涅槃を教え涅槃の完成を求めさせるのです。この涅槃の境地を「浄土」といい、迷いの心まるごとを摂取して涅槃の境地に入れてしまうのが弥陀の本願です。悟りの境地を自ら得たと思えば自力で、与えていただいたと思えば他力です。自力は悟っても悟った自分が残っているので、もう一つ他力のお助けがいるのでしょう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-11 12:53 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

無宿善の機

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  五八、『御文』に「無宿善の機は力及ばず」とあるは、
  一向きかずに地獄へ堕つるを無宿善とはのたまはず。
  聞いても聞いても驚かず、地獄へ堕つるを無宿善と云う。

  (香樹院語録)

 心の内側を見ることができなければ信仰にはならない。心が内側に向かない人を無宿善というのでしょう。仏は一人一人の心の中におられるのだから、外に仏を求め回る必要はないし、自分の心を観察するのに知識もいらない。信仰とは自分の心の奥底に降りて行く。光も音も届かないな孤独の深海に降りて行く。そこで仏に出遇う。仏に遇うか遇わないか、それだけが信仰である。仏は救うと誓っておられる。仏に遇わないのはあなたが遇いたいと思っていないからでしょう。他に理由はない。わたしが仏を見ているのではない。仏がわたしを見ているのである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-09 23:28 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

  十四、大事な後生と知りながら大事にならぬは、
  この世の愛欲貪欲の手強さゆえと、聞けども聞けども地獄も恐しからず、
  極楽もとうとまれぬは、邪見の強き故なり。
  よくよく聞けば、疑いの晴れねばならぬ浄土往生に、
  疑いのはれかぬるは、自力執心の迷いの心が手強き故のことなり。
  是れが離れねば往生すべき身とはなられぬ。
  然れども、己が心にて、是れを離るることがならぬ故に、
  御成就の他力回向の大信心なり。

  (香樹院語録)

 本願の救いは「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ことです。心から出てくる思いを「煩悩」といいます。心になにか価値があるように思うことを「自力執心」といい、心から出てくる思いを「自分」だと思うから、思いを実現しようと努力する。思い通りになったら幸せで、思い通りにならなかったら不幸と、いたって単純です。心を「なくせ」と仏教は言わない。心を「離れろ」というのです。心に使われるな、心の主人になれと言うのです。

 心を離れて心を見る。心がつくる世界を出て、仏のさとりの境地(涅槃)に入る。このことを「不断煩悩得涅槃」とも「往生」ともいいます。煩悩の身のまま涅槃の境地に生まれさせようというのが「弥陀の本願」です。ちなみに、この法語には「離れられぬを離して下さる 」とタイトルされています。心を離れると心が見える。心が見えることを「光明」といいますが、自分の力で自分の心を離れることはできない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-08 23:15 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  ①弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
  ②往生をばとぐるなりと信じて
  ③念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
  ④すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

  (歎異抄・第1章)

 仏教は涅槃の境地に入ることを目的に修行する。涅槃とは煩悩がない。煩悩のない静かで平和な心の状態を涅槃という。仏のさとりの境地です。さとりの境地を「浄土」といい、煩悩をもったままさとりの境地に生まれさせようというのが「弥陀の誓願」です。煩悩をもったまま涅槃の境地に入るので「不思議」です。

 歎異抄第一章では「摂取不捨」という言葉を使っていますが、涅槃の境地に生まれることを「摂取不捨」といいます。「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ということです。弥陀の本願、すなわち「摂取不捨」を体験することが「往生」です。第一章の冒頭の文に番号をつけましたが、①②③④は時系列に並んでいるようですが、「たすけられ」(教)るのも「念仏もうす」(行)のも「信じる」(信)のも「あずけしめたまう」(証)のも経験的にはすべて同時です。

 とくに大切なのは「往生をばとぐるなりと信じて」で、信じたのはすでに往生したからです。涅槃の境地が浄土、涅槃の境地に生まれるから往生です。すでに往生したから、涅槃の一分を経験したから必ず無上涅槃に達すると確信するのです。この経験を「摂取不捨」といいます。十八願の成就、信の一念に涅槃(仏)を経験する。仏教の結論を冒頭に示したのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-04-06 21:55 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)