疑うなよ疑うなよ

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  一八六、或る人、後生と云うことは存じませぬと申し上げたれば、
  師仰せられ候。おれも後生はしらぬ。しらぬがよいのじゃ。
  とやかく思うは凡夫の心。如来様は疑うなよ疑うなよと仰せらるる程に。

  (香樹院語録)   


 心に受け入れられない現実を前にすると人は「なぜ?」となる。自分を疑わずに事実を疑う。自分に都合のいいように解釈して事実を受け入れまいとするが、どうしても受け入れなくてはならないとなると、それが「苦悩」となる。我性と我性が闘争する世間では幸せにはなれない。生まれたら死ぬ。これが当たり前である。現実に疑問がない。ありのままの現実を受け入れて不満がない。これを「涅槃」(安楽)という。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-03-31 22:11 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

信を得て念仏する喜び

  五九、此世の喜びは人々同じからず。
  浄土を願う身には誰もかれも同じ数多き喜びあり。  
  一、三悪道をはなれて、人間に生れたる喜び。  
  一、仏法に値いまいらせたる喜び。  
  一、この弘願他力に値いまいらせたる喜び。  
  一、六根具足の喜び。  
  一、悪縁に障えられず、聴聞することの出来る喜び。  
  一、信を得て念仏する喜び。  
  この喜びを知るならば、浮世の不足は云うては居られぬほどに、
  よくよく心得られよ。

  (香樹院語録)  
  

 信仰は一人一人の内心の問題である。一人一人の内心の問題であるから他人はまったく関係ない。仏は一人一人の心の中におられるのだから、心の中で仏と心通じ合えば、それが信仰である。仏と一対一の関係に入ることを信仰というのです。仏と心が通じ合っているかどうかは誰よりも本人がわかっていることで、人は誤魔化せても自分は誤魔化せない。信を得て念仏する喜びとは、やるべきことをやり終えた安心、安堵だろうか。

 南無阿弥陀仏


 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-03-30 22:22 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

心安楽

  四、寿命は聞法のためなり。
  五歳で死するもあり、十五二十で死するもあり。
  それにたくらぶれば、後生は一大事と心づく迄の命を得て、
  仏法聴聞致すことになったは、大なる喜びなり。
  もはや寿命の役目は相済んだと思えば心安楽。

  (香樹院語録)


 法を聞くだけの人生だった。竹内先生にお会いして「念仏者が生まれた」と喜んでいただいたことが思い出といえば思い出である。先生にお会いしてから信体験があった。この逆だったら師をいただく喜びがなかった。なにかを得たと思って喜んでいた時期もあったが、そんなことももうどうでもよくなった。どのようにしたって仏のお心からこぼれ落ちることはないのであるから、心安楽。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-03-29 23:00 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

仏が仏になる

  釈迦弥陀は慈悲の父母
  種種に善巧方便し
  われらが無上の信心を
  発起せしめたまいけり

  (高僧和讃)

 わたしがわたしの持物だと思っている肉体とわたしが"わたし"だと思っている心、それはちょうど、肉体という仏壇にわたしという"本尊"が安置されているようなものなのでしょう。肉体が滅んでも本尊である"わたし"は死なない。あるいは死後仏になると思っている。"わたし"が仏になるなんて思うから邪見驕慢というのです。死んだら"わたし"が成仏すると思う信仰を十九願という。肉体の一部である心は肉体の一部だから肉体の死とともに死ぬ。

 われらの心は死ぬ心である。死ぬ心が死なない心に出遇う。個々の肉体の生死に関係ない心を不生不滅の仏心といいます。一切衆生悉有仏性といって仏心はどの肉体にも産みつけられている。産みつけられてはいるが厚い煩悩に覆われて光が現れない。光を覆い光を遮っているのが"わたし"という無明煩悩です。仏心は信心の智慧となって現れ、不生不滅の仏心が身の滅とともに成仏する。仏が仏になるから必至滅度という。わたしが仏になるのではない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-28 11:53 | 三帖和讃を味わう | Comments(0)

  親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
  よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
  念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、
  また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。
  たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
  さらに後悔すべからずそうろう。

  (歎異抄・第2章)

  「歎異抄」の一番驚くべき言葉は「念仏は、
  まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、  
  また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。
  総じてもって存知せざるなり」、あれは大変な言葉である。
  あれをよく平静に読んでいたと思う。
  ああいうことは、深い体験、自分を掘り下げて、
  深い深層意識の底の底まで掘り下げて、
  ああいう言葉が出てくる。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)

 言葉というのは心の表層にある。心の表層である意識は騒々しく薄っぺらで、物事が早く流れて行く。われらは意識のつくる小さな世界に住んでいるが、意識は心という大海原の波の上で漂流する筏のようなもので、大海原の広さも知らなければ、波の下の光も差さない深海の深さも知らない。あたかも筏の上が全世界だとばかりに思い込んでいる。大きな間違いである。意識はコップの中の嵐のような日常に明け暮れている。ときどき筏が転覆して始めて海の怖さを知る。

 いわば、信仰とは光も射さない心の深海に降りて行くような作業だ。これを内観という。深く深く降りて行けば、そこは光も音もない孤独な世界である。闇と無音の世界で一人きりになったところで自分と向き合うのである。「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり」。光も音もない世界では理屈はどうでもよい。すべての言葉が削ぎ落とされて右も左もわからなくなって、自分はなにも知らないと思い知らされる。一文不知になって、はじめて仏の呼び声を聞こうとするのである。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-23 06:18 | 歎異抄の領解 | Comments(4)

涅槃の境地に到達する

  涅槃というからと言うて、命終わらなければ涅槃の境地が解らぬことはない。
  生きている中は無上涅槃ではない。有上涅槃というか。
  無上涅槃のさとりは開けぬが、或る程度の涅槃のさとりは得る。
  現生に於て涅槃という一種の境地を得る。
  つまり無生法認というのは涅槃を知る智慧であるから、
  無生法認の智慧が開けて来れば或る程度の涅槃の境地に到達することが出来るのであることを
  教えて下さるのが浄土真宗の教えである。

  涅槃の静かな心境は、生きてる中にそういう境地がいつも自分の心の中にあって、
  どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない。
  煩悩を断ぜずして涅槃を得という静かな何ものにも障えられない境地がある。
  それを現在の生活の上に経験することが出来る。
  それが仏からたすけられたということである。

  いつ死んでも成仏間違いないのは、現生に於て既に往生している、
  現生に於て既に浄土往生の生活を営んでおるものであるが故に、
  仏様でないけれども仏様と等しい生活を他力の不思議で与えて下された。
  そういうものであるが故に、
  いつ命が終わっても大般涅槃間違いない確信確証を握っておるものである。
  こういうのが浄土真宗の教えの本当の精神である。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 煩悩具足の身をもって悟りを開くことはできない。出来ないのであるが、誓願の不思議によって「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ことが出来る。すなわち、煩悩具足の身のまま悟りの境地(涅槃)に生まれさせようというのが弥陀の本願というものです。涅槃の境地を身をもって体験し、その体験を伝えてきたのが仏教の伝統です。量深師は「浄土真宗の教えの本当の精神である」と教えている。

 量深師の教えが尊いのは「現生に於て既に往生している」「現生に於て涅槃という一種の境地を得る」と教えてくれるからです。その具体的な中身を「どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない」と明らかにしています。念仏、聴聞に励んでいる人にとって目標となることでしょう。人生でなにを経験しようと永遠の時間である「涅槃の静かな心境」を経験することに勝るものはない。
 
 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-22 06:07 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

e0361146_09203222.jpg  十方無量の諸仏の
  証誠護念のみことにて
  自力の大菩提心の
  かなわぬほどはしりぬべし

  三恒河沙の諸仏の
  出世のみもとにありしとき
  大菩提心おこせども
  自力かなわで流転せり

  (正像末和讃)

  煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。
  この条、もってのほかのことにそうろう。
  即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。
  六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。
  これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。
  来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。

  (歎異抄・第15章)

 自力の人は「観念成就のさとり」だから自分の頭で悟れると思っている。邪見驕慢だから自分の頭でわかりたい。自我意識が尖っているから自分が一番賢いと思っている。こういうのを自力というのでしょう。自力の人は歎異抄は読むが念仏はしない。頭でわかりたい人は一文不知にはなれない。学問して悟りが開けるなら学者はみな生き仏だ。しかしそうはならない。

 他力は悟らないのではない。頭でわかったようなものはやがて壊れてわからなくなる。それは悟りではないからだ。他力は仏から悟りの智慧をいただく。智慧が開く悟りの境地を仏の方から開いてくださる。自分の頭でこしらえた方便化土ではない。仏智不思議、人智を超えたところから届く悟りで、自分の頭で考えた悟りではないから「如来よりたまわりたる信心」(歎異抄・後序)という。


 人間の心を超えた高次の心に出会う体験を他力という。自分で開く悟りではないから、悟りは如来回向の信心の中に含まれている。悟らなくても悟りの境地(真実報土)を回向してくださる。それを「往生」という。「来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり」とあるように、煩悩具足の身をもって悟りを開くことはできないが、煩悩具足の身をもって今生に「往生」(信心決定)することはできる。煩悩具足の身のまま悟りの境地に生まれさせようというのが弥陀の本願です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-21 06:15 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

たとへば千歳の闇室に

  たとへば千歳の闇室に、
  光もししばらく至れば、
  すなはち明朗なるがごとし。
  闇、あに室にあること千歳にして
  去らじといふことを得んや。

  (教行信証・信巻 「浄土論註」引用)


 例えば、映画のスクリーン。スクリーンに映っている世界は映写機が映している。映写機という自分の心が映したものをわれらはスクリーンという外に見ている。スクリーンを見るうちにスクリーンの中の世界が外界に実在すると錯誤する。錯誤した上、自分の心が映したものに執着する。元々"ない"ものを見て"ある"と執着するから「迷う」という。外に見ているのは内にあるものの影でしかない。さて、「千歳の闇室」とは自分の心のこと、「光至れば」とは自分の心が見える。自分で自分の心を見ることはできない。仏の我を見る眼をいただく。だから、自分の心が見えたら、それが「千歳の闇室に、光もししばらく至れば」です。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-20 07:29 | 教行信証のこころ | Comments(0)

わが身の事実

  聖人のつねのおおせには、
  「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとえに親鸞一人がためなりけり。
  されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
  たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と
  御述懐そうらいしことを、いままた案ずるに、
  善導の、「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、
  つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」
  (散善義)という金言に、すこしもたがわせおわしまさず。
  されば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、
  われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず、
  如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよえるを、
  おもいしらせんがためにてそうらいけり。
  まことに如来の御恩ということをばさたなくして、
  われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。

  (歎異抄・後序)

 機の深信とは「わが身の事実」です。わが身の事実に立たせるのが智慧です。智慧とは光、光に遇えば事実が見える。見えなかった自分を見えるようにしてくれるのが光明であり、光に照らされれば自分が見える。自分が誰かがわかる。わかれば自分に満足する。不満はない。不満がないから求めない。求めないから迷わない。自信もなく自分を探して暗闇をさ迷い歩く不安と苦しみからようやくにして解放される。安心する。事実に落着する。わが身の事実を「罪悪生死の凡夫」という。

 救いがない身と教えてくれたのが如来回向ですから、救われないと知ったことが即ち救われたことです。罪悪生死の凡夫とはわが身の事実ですから、事実に行き着けば、そこが到着地です。事実を知らないから、あれこれと機の善悪に振り回される。親鸞いわく「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」(歎異抄・後序)と。善悪とは事実についての分別であり、解釈であり、事実から浮き上がった妄念妄想です。事実を知り、事実を受け入れた者には事実の解釈はもういらない。これを無分別とも一文不知ともいう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-19 09:30 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

事実に立つ

e0361146_20460997.jpg  浄土真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし
  虚仮不実のわが身にて
  清浄の心もさらになし

  (正像末和讃)


 文意をわずかに窺えば、「尊いことに、浄土真実の教えに遇えばこそ、この身のどこにも真実の心などないと教えていただきました。世間を生きる身ゆえにそれらしくはしていますが、心の中の生活は浅ましくも惨めなものです。もとより仏になるための清浄心もありませんので、如来よりいただいた真心で往生させていただくのです」。そのようなお気持ちかと思います。これは懺悔です。

 親鸞は清々しくも「わが身の事実」に立っている。卑下でも嘆きでも反省でもない。ただ、ありのままの自分を受け入れ、この身を(仏からいただいた)仏のお心をもって悲しんでいるのです。ゆえに、すでに親鸞の心はわが身、わが心を離れて仏の位、浄土に立っている。この身を捨ててこそこの身の事実を受け入れる智慧が生じる。妄念妄想を離れて事実に立つ。事実を解釈して賢そうにしたりしない。事実をありのままに受け入れて不平不満がない。これを無分別とも一文不知ともいう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-18 20:41 | 三帖和讃を味わう | Comments(0)