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二種深信

  「二者深心」。「深心」と言うは、すなわちこれ深信の心なり。
  また二種あり。一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
  曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。
  二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、
  疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。

  (教行信証・信巻「観経疏」引用)


 二種深信は信心の内容です。救われないと知る智慧はわたしの中にはない。わたしの中にないのだから「回向」という。救われないと知ることが救われたことである。はっきりしている。わたしの本心はどこまでも「この心のままで」救われたい。それは無理だと二種深信が教えている。救われないのはわたしの心、救うのは仏の心。わたしの心は地獄行きと決まっている。わたしの心が成仏するのではない。仏の心が成仏する。ここがはっきりするのが二種深信。仏の心が成仏する。だから「必至滅度」という。仏が仏になるのだから間違いない。それゆえ「他力」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-28 06:17 | 教行信証のこころ | Comments(0)

何事は覚えずとも

  三一、何事は覚えずとも、かかるものを御助けの御慈悲、
  命終らば仏になることの嬉しやと云う味わい丈は、是非に覚えねばならぬ。

  (香樹院語録)

 「後生」とは死後の命ではない。死後という時間も場所もない。不思議なことに「今生」(わたし=闇)が見えたから「後生」(仏=光)である。今生を超えて今生を照らす悟りの光を「後生」という。今生ではないから後生という。わたしがあってわたしの死後があるという外道の話ではない。今に無我(仏)にならないから「命終らば」である。「かかるもの」と見えるのが「御助け」である。たまたまの命が永遠の命に出遇ったのである。「命終らば仏になる」現在を「嬉しや」と生かしていただくだけである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-27 07:17 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

根本の疑い

e0361146_23310248.jpg  九、疑いと云うものに、枝末と根本との二つあり。
  枝末の疑いと云うものは、親子夫婦兄弟などの中に、
  毎日毎日起りて、本に思わぬ事じゃ。
  根本の疑いというは、さっぱりとあかるうなりて、
  胸の中に、どうも虚言じゃと思われぬ様になられぬことじゃ。
  たとえば、其方の子は狐じゃほどに、油断をするなと人が云うたとき、
  どう思うても我が産み落して育てた子なれば、狐じゃとは思われぬ。
  これ人の言葉に転ぜられぬ也。

  (香樹院語録)


 たとえば、赤ちゃんは自分の境遇になんの疑いもない。境遇をありのままに受け入れてなんの疑いもない。そんな心の状態を「無我」という。境遇をありのままに受け入れる心は明るい。境遇にはもともとよいも悪いもない。あなたが好き嫌いを言うものだから境遇に善し悪しができてしまう。こんな境遇でいいのだろうかと境遇を疑う。疑う心は暗い。疑う心は境遇を受け入れない。境遇に問題があると思い込み、自分の心に問題があるとは思わない。これが人生を苦しくする。

 境遇は縁によって与えられてくるものでわれらは境遇を選ぶことはできない。境遇を変えることもできない。与えられた境遇に満足して喜んで生きられれば、これを「疑い」がないという。「どうして?」の疑いの根っこは執着である。執着するから暗い。仏のお心は執着がない。信心とは疑いのない明るい心、仏のお心をいただく。仏のお心をいただいた証拠には、心が明るくなる。与えられた境遇に満足する。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-26 22:19 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

願作仏心と度衆生心

  浄土の大菩提心は
  願作仏心をすすめしむ
  すなわち願作仏心を
  度衆生心となづけたり

  ※「願作仏心」の左訓
  他力の菩提心なり。
  極楽に生まれて仏とならんと願え、
  とすすめたまえるこころなり。

  弥陀の悲願を深く信じて仏にならんと願う心を
  菩提心と申すなり。

  (正像末和讃)

  願作仏の心はこれ 
  度衆生のこころなり 
  度衆生の心はこれ 
  利他真実の信心なり

  (高僧和讃)

 われらは心に湧いては消えるだけの感情や思いを自分だと思い込み、心に執着しては心にすっかり縛られ、心に牛馬の如く使役されてしまっているではないか。執着するものにわれらは必ず縛られる。心に執着した結果、心が見せる物があたかも外に実在するかのように思っては外なる物に完全に支配されてしまっている体たらくです。すべての人生苦はここから来る。人の一生は縁によって生きる姿は変わっても、どの人生も「わたし」という夢をみて終わるだけの一生です。仏教は「わたし」という悪夢から早く醒めよと教えている。

 執着がない「涅槃」とはどんな心境か、その心境をわずかに垣間見る体験を「信楽」といい、この体験のときに「願作仏心」をいただくので、仏になるのに間違いがない「不退転地」に入るといいます。和讃にいわく「すなわち願作仏心を度衆生心となづけたり」。願作仏心は(信楽体験によりいただいた)「利他真実の信心」であるから願作仏心はそのまま「度衆生心」となる。願力の自然で信心の人は必ず他に智慧を与える。利他は仏になる自利のお育てであるから、仏にならなければ利他できないということではない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-25 00:19 | 三帖和讃を味わう | Comments(2)

還相もまた"現在"にあり

  一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
  いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。

  (歎異抄・第五章)

  南無阿弥陀仏の回向の
  恩徳広大不思議にて
  往相回向の利益には
  還相回向に回入せり

  如来の回向に帰入して
  願作仏心をうるひとは
  自力の回向をすてはてて
  利益有情はきわもなし

  (正像末和讃)

  往相と還相と、往相は現在にあり、還相は未来にあるとー
  こういうふうにありまするけれども、そうしないと筋道がたたないものだから、
  還相を"未来"におくと、そういうのが『歎異抄』のお言葉でございます。
  けれども、『正像末和讃』をもって照らしてみるというと、
  還相もまた"現在"にありー如来の回向が本であります。
  如来の回向という方から見るというと、
  往相も還相もみな南無阿弥陀仏の中にあるのであって、
  そこに矛盾も撞着もないものであると、
  『正像末和讃』へ来まするとそういうふうに教えてある。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)


 教えがあっても救われた人がいなければ誰も救いを信じない。救われた人の喜ぶ姿にわれらは仏のお力を見るのである。救われて喜ぶことがわたしの「往相」であるなら、わたしの喜ぶ姿がそのまま誰かの「還相」となる。わたしが喜ぶのも、わたしが喜びを語りだすのも、いずれも仏の御はからいである。仏の御はからいだから往相も還相も"現在"である。弥陀仏は(現在を超えて)「現在」の仏だからである。わたしは(現在を超えて)「未来」の仏であるから、「この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」と言ったのである。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-24 06:12 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

清沢満之「わが信念」

  私の信念のなかには、いっさいのことについて
  私の自力が無効であると信じるという点がある。
  自力無効を信じるためには、私の知慧や思案を可能なかぎりを尽くして、
  頭のあげようがないまでになることが必要である。
  これははなはだ骨の折れる仕事であった。
  この極限に達するまえにも、しばしば、
  宗教的信念とはこんなものだといった決着をつけることができたのだが、
  それが後から後からうち壊されてしまったことが幾度もあった。
  論理や研究で宗教を建立しようとおもっている間は、この難点を免れない。
  何が善で何が悪なのか、何が真理で何が非真理なのか、
  何が幸福で何が不幸なのか、ひとつもわかるものではない。
  自分には何もわからないとなったところで、いっさいのことをあげて、
  ことごとくこれを如来に信じ頼ることになったのが、私の信心の大要点である。

  (今村仁司訳『清沢満之語録』より)


 わたしたちは「わたしは誰か」がわかりたい。「わたしらしく」などといって「わたし」を証明するために生きているといってもいい。生まれて死ぬだけなら「わたし」が生きたことにはならないからだ。肉体は「わたし」ではない。では、意識は「わたし」だろうか。もし、思いを起こすのが「わたし」なら、思いを起こすのも止めるのも自由にできなくてはならないが、実際には思いは自由にならない。このことから、思ったり考えたりしているのは「わたし」ではないとわかる。すなわち、思いはあるが思いを起こす「わたし」がない。

 さて、明治の真宗僧・清沢満之である。満之は自ら実験して「思いがわたしである」ことを証明しようとしたのでしょう。しかし、結果は「自分には何もわからない」というところへ追い込まれてしまった。その挙句、「わたしがある」ことを証明しようとして「わたしがない」ことを証明してしまった。「私の知慧や思案を可能なかぎりを尽くして」「極限に達する」とき「如来に信じ頼ることになった」と、自らの信心獲得の体験をありのままに語っている。

 「自分には何もわからない」となる「私の知慧や思案」の「極限に達する」瞬間に「如来に信じ頼る」信心へとひっくり返る。これが宗教体験の事実です。端的に言えば、仏法は「わたし」がないと知ることを「救い」と教えている。ない「わたし」に縛られて苦悩の人生を生きてきたからである。誰もが求めていた「わたし」がなければ、人生に求めるものはない。求めるものがなければ、そのまま安息するのである。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-23 07:31 | 清沢満之の文章 | Comments(0)

歎異抄・第四章の読み方

  一 慈悲に①聖道・②浄土のかわりめあり。
  ①聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。
  しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。
  ②浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、
  大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
  ①今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、
  存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
  ②しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々

  (歎異抄・第四章)

  よしあしの文字をもしらぬひとはみな
  まことのこころなりけるを
  善悪の字しりがおは
  おおそらごとのかたちなり

  是非しらず邪正もわかぬ
  このみなり
  小慈小悲もなけれども
  名利に人師をこのむなり

  (正像末和讃)


 教行信証の後序に「竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり」とある。今生に悟りを開いて衆生済度するという聖道の理想は立派でも、末法の世にあっては、聖道の教えで悟りを開く者がいない。教えがあっても行証がないから、聖道の慈悲は「始終なし」。対して、浄土の教えは今生に念仏して順次生に仏になる。今生にこそ利他はできないが、順次生に仏になれば「大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益する」。必ず仏になるので、念仏は「すえとおりたる」大慈悲心である、と。

 さて、以上が第四章の文意ですが、第四章、第五章、第六章はいずれも利他の徳について述べられています。とくに、第四章が教えようとしているのは、われらは「救う」側か「救われる」側か、どちらに立つのかということです。自力聖道門は指導エリートのための教えであるから最初から「救う」側に立っている。しかし、親鸞は「弟子一人ももたずそうろう」(第六章)と言って、徹底して「救われる」側に身を置いた。聖道門くらいの悟りなら親鸞にもある。しかし、悟りの智慧を自分のものとはせず、智慧に照らされて見える救われない煩悩を自分だとした。「名利に人師をこのむなり」と懺悔する親鸞は決して「救う」側、指導する立場には立たなかったのです。

 よって、第四章の冒頭、「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」の「かわりめ」とはなにかと言えば、聖道門は「救う」側の教え、浄土門は「救われる」側の教えだということです。そのことを親鸞はここではっきりさせた。それが第四章の趣旨です。正像末和讃の最後の二首を上に掲げましたが、救う側には決して立たない親鸞の気持ちがはっきり表れています。浄土門の勃興という歴史を背景に、念仏が聖道の教えから独立して庶民の信仰になっていく精神的な土壌を親鸞が提供しているのです。われらはどこまでも煩悩具足の凡夫、救われる側にあることを忘れてはならない。
 
 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-22 06:32 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

功徳は十方にみちたまう

  無慚無愧のこの身にて
  まことのこころはなけれども
  弥陀の回向の御名なれば
  功徳は十方にみちたまう

  (悲歎述懐和讃)

 「無慚無愧のこの身にて、まことのこころはなけれども」とは懺悔である。「弥陀の回向の御名なれば、功徳は十方にみちたまう」とは讃嘆である。心が見えることを智慧という。救われない身と知るから仏にすがる。すがる一念に救われるから、すがる心にして救うのが仏の御はからいである。わたしの手柄などなにもない。

 光あるところ影がある。影を見たら、それは光を見たのである。光を先に見るということはない。自分の心が見えたら、見せたまう大慈大悲を感じる。それが二種深信である。「如来回向」とは仏心がわたしの主体となって下さった。仏心と凡心が一体になった。浄土が凡夫の心の中に開かれてきた。「功徳は十方にみちたまう」とは信心の人の内面の事実である。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-21 06:08 | 三帖和讃を味わう | Comments(0)

信心を捏造する

  二七、或る時一蓮院師を招きて、酒杯を傾けながら、仰せに。
  凡そ誰れでも我が心中をこしらえる事にかかりて居る故、
  其の心中は我がこしらえもの也。
  教える人も唯理屈ばかり教えて、心中を造ることに骨を折る也。
  信心と云うことは、聞其名号信心歓喜の八字を我が腹とするばかりじゃが、
  そう思う人の少ないのは、甚だ残念なり。
  一蓮院師曰く。ただ仏の力お一つで、助けて下さると信ずる外には、
  聞其名号のいわれはない、と聞いて居ります。
  師曰く。それでよし、それでよし。

  (香樹院語録)

  しかるに『経』に「聞」と言うは、
  衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。
  これを「聞」と曰うなり。
  「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。
  「歓喜」と言うは、身心の悦予の貌を形すなり。

  (教行信証・信巻 )

 凡そ誰れでも我が心中をこしらえる事にかかりて居る。教える人も唯理屈ばかり教えて、心中を造ることに骨を折る也。真(まこと)の心が獲られないのだから誰も違うとは言えない。仏法聴聞といいながら、教える側も聞く側も信心を捏造することばかりにかかわり果てている。信心は「本願力回向」だから向こう側から来る。

 いただくばかりだから、信心をいただく器を空にして待たなくてはならないのに、理屈で心がいっぱいになっている。空にならないから信心がいただけない。聞き方が根本的に間違っている。心の器を空にするのが仏法聴聞です。信仰は理屈ではなく事実に立つ。嘘は嘘。嘘から「歓喜」は生じない。理屈は嘘だから理屈の勉強はやめて、ただひたすら自分の心を見る。心の現実を知るのに勉強はいらない。日常生活すべてがあなたの心の現実を教えている。

 「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。仏さまはとうにあなたの心の現実を知っている。あなたが仏さまが知っているようにあなたの心の現実を知れば、あなたにかけられた仏さまのお心が知れるというものだ。これが疑心なし。事実を事実と受け入れる謙虚さが信仰の基礎になる。信仰は事実に立たなくては疑心が晴れるとはならない。捏造された理屈の信心では疑心も晴れず「歓喜」も生じない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-20 06:10 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

仏との対話

e0361146_16295888.jpg  二三〇、仰せに。凡夫のこころは浄土参りの種にはならぬ。
  信決定の時凡夫の心を消して、如来さまの御心一つにして下される。

   (香樹院語録)

 人と生まれたことは苦悩である。あなただけでない、親も兄弟も、教師や仲間、親族、周りの者みな暗い心を内深くに隠して生きている。隠していることも知らずに苦悩している。だから、あなたの苦悩を最後まで聞きとげてくれる人はいない。聞けば聞いたことを利用するのが人である。あなたもそうするに違いない。この世の利害から自由な人などいないから、人ごとにあなたを利用する。あなたの苦悩を正しく受け入れ、最後まで聞きとげてくれるのは仏さまだけである。

 仏さまと一緒の生活が信仰である。仏さまはどこにおられるか。仏さまはあなたの心の奥底におられる。仏さまと心通じあい、対話できるように、あなたの心の奥底に降りていく。そのように信仰するのです。仏法聴聞に勉強は必要ない。知識もいらない。南無阿弥陀仏と称えて、自分の心を見せてくださいとお願いするのです。自分の心が見えたら、それが仏さまと心が通じたことです。仏さまと心が一つになった。悩みは人に聞いてもらうのではなく、仏さまに見ていただくのがよい。それが仏法聴聞、南無阿弥陀仏の生活です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-19 06:20 | 香樹院語録を読む | Comments(2)