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「聞」と言うは

  しかるに『経』に「聞」と言うは、
  衆生、仏願の生起・本末をききて疑心あることなし。
  これを「聞」と日うなり。

  (教行信証・信巻)

  いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、
  御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。
  ただ、仏法は、聴聞にきわまることなりと云々

  (蓮如上人御一代記聞書193条)


 真宗には修行がないというが、在家の者は人生全体、生活すべてが修行である。愛欲と名利を動機に金とプライドを求めて他人と闘争する毎日だ。娑婆世界を超えて生きる往生の道は娑婆の生活の中で見つける。では、仏教をどう学ぶか。仏法は聴聞に尽きる。「仏願の生起本末をききて疑心あることなし」となるまで聞く。法座に通う、善知識を探す。なにをしていても仏のことが頭を離れない。それが聴聞で、納得できるまで聞く。考えることをやめない。考えることの限界まで考える。

 なぜ、わたしは生まれてきたのか。なぜ、わたしばかりが苦しみに会うのか。なぜ、法を聞いても聞いてもわからないのか。念仏しても仏のお心がわからない悲しみはどうすればいいのか…。心はいつも同じところをグルグル回っている。教材はどこまでも自分の心だ。自分の心をよくよく観察する。救われない心と救おうとする心はいつも一緒だから、自分の心を見ていれば必ず仏に遇う。眼で見る、耳で聞く、心で感じる。どんな形であれ、仏はあなたにつながろうとしている。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-31 07:57 | 教行信証のこころ | Comments(0)

前念命終・後念即生

  本願を信受するは、前念命終なり。
   「すなわち正定聚の数に入る」(論註)。
  即得往生は、後念即生なり。

  (愚禿鈔)

  普通“信の一念”“信の一念”というのは、前念命終である。
  つまり信の一念によって、私どもは、自分の一生涯の一大事を決定した。
  信の一念によって私どもは、わがすべきことは一切完了した。
  いくら生きておっても差し支えないが、
  しかし、信の一念をもって終っても、なんの後悔もない。
  満足して死ぬことができる。満足して死ねる一念である。
  後念即生ということは、信の一念と続いて、
  必然的に連続して後念即生である。
  信心決定したその時に後念即生である。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)


 「信の一念」とは信心を獲る一瞬の体験のことです。本当に一瞬のことですが、体験すれば誰にでもそれがそうだとわかる。わかるが、一瞬なのでその体験の微妙さを何度も何度も反芻して確かなものにしていかなくてはならない。それが信後の念仏です。信の一念は二度は起きないからです。針の先ほどの、お線香の明かり程度の、見たか見ないかも微妙なほどの光を思い返し思い返し念仏する信後の念仏です。先生の指導も受け、親鸞の書いたものを読みながら、信がより確かなものに、より深いものになっていくように念仏するのです。

 信を獲たときは「これで終わった」(前念命終)と感激するのであるが、数か月して興奮状態が収まると、「本当の聴聞が始まっただけだ」(後念即生)とわかる。ただ、信前と違うのは、お線香ほどの光でも光は光、光を見たという事実(確信)があることです。進むべき方向ははっきりしている。信の一念の内容は、心が見えたということ、心を離れるコツがわかったということ、わたしを見る仏のお心が伝わったということ、このような智慧を獲て、あらたな念仏の生活が始まったのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-29 00:03 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

愚者になりて往生す

  よしあしの文字をもしらぬひとはみな
  まことのこころなりけるを
  善悪の字しりがおは
  おおそらごとのかたちなり

  (正像末和讃)

  故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候いしことを、
  たしかにうけたまわり候いしうえに、
  ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、
  往生必定すべしとてえ(笑)ませたまいしをみまいらせ候いき。

  (末燈鈔)


 われらは生まれた時にすでに与えられた過去を持って生まれてくる。選ぶことはできない。過去の延長に現在があるが、不思議といって、なぜ、現在の境遇が与えられているのかはわからないようになっている。ただ現在という事実に投げ出されて生きているだけだ。すべては宿業である。与えられてくる境遇はわれらの力ではなんともできないもので、なんとかなったように思うこともあるが、なんとかなるようになっていただけのことだ。ほとんどのことはなんともならない。そもそも思い通りにならないならないと騒ぐのは思い通りにしたい善悪の思いだけであり、騒ぎたてる思い以外はなにも問題がない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-28 12:31 | 御消息集を読む | Comments(0)

義なきを義とす

  e0361146_09541322.jpg聖道門のひとはみな
  自力の心をむねとして
  他力不思議にいりぬれば
  義なきを義とすと信知せり

  (正像末和讃)

  法爾というは、如来の御ちかいなるがゆえに、
  しからしむるを法爾という。
  この法爾は、御ちかいなりけるゆえに、
  すべて行者のはからいなきをもちて、
  このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべきなり。

  (自然法爾章)


 義とは、はからい。はからいとは煩悩の心が煩悩の心をよくしようと努力すること、自力という。泥水で泥の手を洗うようなもの。コップ(頭)に入れた泥水(煩悩)をかき回すようなことをする。そんなことをせず放っておけば泥水は自然と真水になる。放っておくことがはからいなし。真水になるのは法爾自然、仏の御はからい。こんな簡単なことが一番難しいのは、頭に湧いては消えるだけの煩悩を自分だと思い込み、煩悩を実践することこそが生きることだと信じているから。無明という。煩悩に執着する心が煩悩を手放すことは煩悩の死。なかなか死ねない。

 煩悩を煩悩と知らないから無明という。信の一念に無明が破れても命ある限り煩悩は次から次と湧いてくる。湧いてくるが、無明と知れば湧いてくる煩悩を消えていくままにしておくことができる。湧いた煩悩はそのまま消えるままにするのがはからいなし。凡夫のはからいがないから仏の御はからいという。これゆえ、信心の人は如来に等しいという。竹内先生の喩えだが、溺れまいともがくから溺れる。もがくのを止めれば浮力で浮く。浮かす力が仏の御はからい。浮く体験が信の一念。浮かす他力を知れば、どこまでも自力で泳いでいける。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-28 09:27 | 三帖和讃を味わう | Comments(0)

二河白道

  また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、
  「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。
  すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。

  この人すでに此に遣わし彼に喚うを聞きて、
  すなわち自ら正しく身心に当たりて、
  決定して道を尋ねて直ちに進みて、
  疑怯退心を生ぜずして、
  あるいは行くこと一分二分するに、

  東の岸の群賊等喚うて言わく、
  「仁者回り来れ。この道嶮悪なり。
  過ぐることを得じ。必ず死せんこと疑わず。
  我等すべて悪心あってあい向うことなし」と。

  この人、喚う声を聞くといえどもまた回顧ず。
  一心に直ちに進みて道を念じて行けば、
  須臾にすなわち西の岸に到りて永く諸難を離る。

  (教行信証・信巻引用「二河白道」より)


 「二河白道」の一部を引用しました。「群賊悪獣」とはなにか。いわば、頭の中の妄念妄想(煩悩)を「群賊悪獣」というのでしょう。われらは頭の中の妄念妄想に執着して、妄念妄想の下僕に成り下がってしまって、自分がなにをしたいのか、どうしたいのかすらわからなくなっている。これを「迷い」といいます。だから、頭の中の妄念妄想(煩悩)を「妄念妄想でしかない」と気づくことが「救い」となる。そして、妄念妄想から自由になって相手をしないでいられるようになることを「正念に住する」というのです。

 仏教を学び始めてから、頭の中のことは「妄念妄想でしかない」と気づくのに十年がかかり、妄念妄想から離れていられるようになるのにさらにまた二十年がかかりました。正念に住する生活を「往生」といい、往生の生活の到達点が「成仏」です。妄念妄想の相手をせず、事実を事実として受け入れてとくに不満もない姿を「愚者になりて往生す」(末燈鈔)というのでしょう。「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と、竹内先生はいつもお弟子さんたちを励まされていたことを思い出します。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-27 21:18 | 教行信証のこころ | Comments(0)

竹内先生の思い出

  はじめまして、****と申します。
  現在、定年退職して、九州の***に在る「**寺」というお寺で、
  寺男の一人として生活している者です。
  ことの始まりは、貴殿のウエブサイト「ZENKYU」を拝見したことに始まります。

  この国の基をつくられた聖徳太子の言葉「世間虚仮 唯仏是真」について勉強している時に、
  貴殿のサイトに出会いました。

  その中で、貴殿が師と仰がれている方が、
  竹内維茂先生、浄土真宗 崇信教会 東松山市とあったからです。
  実は、私は五十四年前、崇信教会に高等学校、大学を通して学生7人で数年間お世話になり、
  竹内維茂先生からはいろいろ教えを頂きました。
  思い出深い学生生活でした。

   (中略)

  貴殿のことは、竹内定ご住職の話で、
  二十年以上前、*****出版社勤務されている時に、
  編集の仕事に悩んで、突然、崇信教会に来られたと聞きました。
  その貴殿が、一人でも多くの方がお念佛を申されるようにとの願いを以って、
  一角を照らす者として、御活動されていることに、大変、共鳴いたしました。
  大変ありがとうございました。

   **** 合掌

   平成二十六年八月十七日


 人が悩むというのは“問い”をもつことだろうと思う。どのような問いか。それは「わたしはなぜ生まれてきたのか」という根本的な問いです。このような問いは生きるための技術しか知らない世間の人にはとうてい答えられない問いで、仏法だけが答えられるものです。

 このような問いをもった者に対して真摯に向き合える人は世間に多くはいない。自ら問いをもったことのない者は言うに及ばず、問いをもっていても自らがまだ闇の中にいては他に光明を示すことができないからです。同じ問いをもった者として真摯な態度で向き合ってくれた人、それが竹内先生でした。ただ一人の人です。

 南無阿弥陀仏

  
  仏教ブログ〈聞其名号信心歓喜乃至一念〉
  2014年10月1日付けの記事「竹内維茂先生のこと」よりの再録です。
  竹内先生を知っている方からお便りをいただいのはこの方だけです。
  大切なお便りですので、ここに再録しました。


by zenkyu3 | 2016-12-27 20:17 | このブログのこと | Comments(0)

念仏の歴史

  教えというものは、やはり目覚めた人を通して、この世の中に生きてくる。
  そうして、目覚めた人があって、
  その目覚めた方が「自分はこうやって目覚めた」とおっしゃることによって、
  我々も、自分自身の身の事実を知らされ、
  そして「真実はなにか」ということに目覚めていくことができるんだ。

  (竹内維茂著「称名念仏の大悲」より)


 わたしは善知識となれる方を探していた。やがて、遇うべくして竹内先生にお遇いした。念仏は現代にも脈々と生きており、本の中だけでしか知らなかった念仏だが、生きた仏として先生が目の前で説法されていた。自然と手が合わさる。わたしにとって竹内先生は生きてそこにおられる仏だった。一方で、最近、とくにそう思うようになったが、竹内先生もまた、わたしを待っていただろうと。先生はすぐにわたしに気づいた。気づくだろか、いつ気づくだろかと思っていたが、すぐに気づいてくださった。初めて先生のご自宅を訪ねたのは三十六になったばかりの十月だった。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-26 08:32 | 竹内維茂先生の言葉 | Comments(0)

無義をもって義とす

  念仏には無義をもって義とす。
  不可称不可説不可思議のゆえにとおおせそうらいき。

  (歎異抄・第10章)  

  義とは、はからいである。
  上の義は人間のはからい、凡夫のはからい。
  下の方の義は、字は同じであるが、
  これは仏智、如来の御はからいである。

  (曽我量深著「歎異抄聴記」より)

  本当の信心は、自分がどのような不幸になっても、
  仏様のおたすけ、仏様のおまもりを疑わない。
  仏の本願の不思議を信じる。仏智不思議、仏法不思議を信じる。
  不思議は計らいを捨てること。
  本願の不思議を南無阿弥陀仏と申す。
  如来の御計らいを南無阿弥陀仏という。
  一切の自分の計らいを捨てて、
  一切を如来の本願の計らいにおまかせする。
  未来のことも現生のこともすべて如来の本願に一任する。
  自分は一切お祈りすることをしない。
  本当のぎりぎりの信仰は、
  一切の計らいを如来の御はからいにおまかせする。
  これが公明正大なる南無阿弥陀仏ということである。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)


 歎異抄の九章までをまとめる言葉が「無義為義」です。竹内先生は「はからいがない」ということを水練に喩えてこう説明された。溺れまいとするから溺れる。なにもしなければかえって体は水に浮く。浮くコツがわかると、あとは、どこまでも泳いでいける、と。仏の御はからいで“浮く”一度の体験を「信の一念」という。この体験を忘れないようにするために念仏する。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-25 22:46 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

死の不安

e0361146_20375696.jpg  おのおの十余か国のさかいをこえて、
  身命をかえりみずして、
  たずねきたらしめたまう御こころざし、
  ひとえに往生極楽のみちを問いきかんがためなり。

  (歎異抄・第2章)

 わたしたちが本当に知りたいこと、心の底から本当に知りたいと願っているのは「なぜ、生まれてきたのか」ということです。人間だけがこの問いを持つ。六道輪廻して、ようやく人間に生まれたのも前世に宿題を残していたからです。このたびの生で再びこの問いに答えがなかったら、死に臨んで、やるべきことをし残したと、取り返しのつかない後悔を残す。この後悔が成仏を妨げる。わたしたちが死に臨んで死を恐れるのは、やるべきことをやらなかった人生だったことを思い出すからです。身命にかえても聞きとげなくてはならないことがある。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-24 07:33 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

e0361146_09505421.jpg  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとえに親鸞一人がためなりけり。
  されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
  たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。

  (歎異抄・後序)

  この一句でご開山聖人は永遠に生きていられる。
  ご開山聖人の面影はこの一句でつきる。それほどに感銘深いものである。
  この一句を伝えているだけでも『歎異抄』は不滅のものであるといえる。

  (曽我量深著「歎異抄聴記」より)


 信仰とは何か。仏さまとの一対一の関係に入ることが信仰です。難しくはない。仏さまに見つけていただいた時から、いつも仏さまと一緒に暮らしている。仏さまといつも心と心が通じ合っている。仏さまのお心の中だから、仏さまの方からわたしが見える。仏さまの眼でわたしを見せていただける。見えることが救いです。見えるようにしていただいたお心は、もう二度と迷うなよの親心、迷わせないとのお慈悲です。守っていただいているのです。

 わたしを見る仏さまと見られるわたしは別々ですが、別々であっていつも一緒に暮らしている。いつも仏さまのお心を抱いて眠り、仏さまのお心の中で目が覚める。いつも仏さまの眼の先にわたしがいる。わたしは仏さまの一人っ子で、転ぶかな、転ぶなよの親心がヨチヨチ歩きの赤子の如きわたしを眺めている。親さまに見ていただいている安心があるから一人で立ち、一人でも生きていかれる。だから、一人でいてもいつも二人、二人だから寂しくない。孤独ではない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-21 15:56 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)