そこに在す

  「私が仏さまを信ずる」というより、
  「仏さまに信ぜられている」ということが仏さまを信じるということである。
  仏さまに信ぜられておると、
  こういうことを感ずるのがそれが本当に仏さまを信ずるということ、
  それを信心という。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)


 小学二三年の頃、山の中で、わたしを呼ぶ声を聞いた。ハッとして遠くを見上げた。母のような声だったが母の声ではないことはすぐわかった。なにも音のしない孤独の中で、わたしを呼んでいた。悲しまなくてよい、お前のことを見ているぞ。その声はそう言っているように聞こえた。一人ではないと思った。その後、そのことは長く忘れていたが、二十歳を過ぎた頃か、あるいはもっと後かは思い出せないが、その光景を絵のように思い出した。

 寂しくなると、わたしは一人ではないと思い出す。いつもわたしを見ているなにかを感じる。わたしは一人ではないと思う。小学生の頃のこの体験がわたしの信仰の原風景だと思っている。それは疑いようのない臨在感であり、わたしを超えて、わたしの世界である。あえて仏とは呼ばないが、そこに在す。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-11-30 07:30 | 曽我量深師の言葉 | Comments(2)

信の一念に正念に住する

  信の一念に正念に住する。
  専修念仏の第一の徳はこの正念に住することである。
  信の一念に平常心に住する。
  平常心に住すれば仏に等しい。
  善導大師の仰せを頂くと深く正念に住する。
  専修の人は雑縁に動乱されることがない。

   真宗念仏ききえつつ
   一念無疑なるをこそ
   希有最勝人とほめ
   正念をうとはさだめたれ

   本願相応せざるゆえ
   雑縁きたりみだるなり
   信心乱失するをこそ
   正念うすとはのべたまえ

  (先生微かな御声で善導和讃を口ずさまれた。)

  (昭46.3.23 京都第一日赤病院病室にて)

 (曽我量深著「親鸞との対話」彌生書房 1982年)


 「専修念仏の第一の徳はこの正念に住することである」という言葉に注目してほしい。信心をいただくとどうなるのか。信心の人の心の生活、往生の生活とはどのようなものかを端的に示している。これを覚えておいてほしい。すなわち、信の一念に「正念」に住する。正念とは「平常心」である。平常心に住するゆえに信心の人は「仏に等しい」という。

 しかし、「正念」についての具体的な説明はないので、これだけではなぜ「仏に等しい」のかがわからない。つまり、心を離れて心が見える体験を「信の一念」といい、仏の方から自分の心が見えるので、心が見えることを「智慧」といいます。「見える」とは離れていることで、心に巻き込まれずにいるので、心が心に対して平静でいられるから「正念」というのです。

 さらさらと目の前を思いが流れて行くが、怒りとか気になる思いが流れてくるとつい取り付いてしまう。取り付いたら、あぁと気づいて念仏する。するとまた心から離れられる。これを十年、二十年、生涯続く如実修行を「往生の生活」というのです。どんな心に対しても平等で、平常心が保たれているので「仏に等しい」といいます。これが「信の一念」に開けてくるさとりの境地です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-11-26 07:40 | 曽我量深師の言葉 | Comments(2)

世間や他人の評価

  しかれば本願を信ぜんには、
  他の善も要にあらず、
  念仏にまさるべき善なきがゆえに。
  悪をもおそるべからず、
  弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえに。


  (歎異抄・第一章)


 わたしたちは生まれた時から親や他人の評価にさらされて生きてきた。だから、大人になった今も、周りの評価にビクビクしながら生きている。世間や他人の評価から自由になれないのです。一方、「しかれば本願を信ぜんには」、正しい信仰を持った人は世間の評価を気にしない。「悪をもおそるべからず」の「悪」とは、世間から受ける「悪い評価」のことです。

 軽蔑、無視、非難、ときに糾弾、懲罰。犯罪者として裁かれることもあるかも知れない。しかし、親鸞は、世間から悪い評価を受けても気にならないと言っている。なぜなら、「弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえに」。世間の評価より仏のお慈悲が嬉しいのです。世間の「よい評価」で、誰もが欲しがる金や地位や名誉もいらない。「念仏にまさるべき善なきがゆえに」。

 信仰とはこういうことなのでしょう。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(後序)と親鸞は言いましたが、世間と人の心にまったく価値を置いていないことがわかります。仏のお心を知ってしまったからです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-11-24 08:24 | 歎異抄の読み方 | Comments(2)

自然法爾章

  自然というは、もとよりしからしむるということばなり。
  弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、
  南無阿弥陀仏とたのませたまいて、
  むかえんとはからわせたまいたるによりて、
  行者のよからんともあしからんともおもわぬを、
  自然とはもうすぞとききてそうろう。

  ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。

  無上仏ともうすは、かたちもなくまします。
  かたちもましませぬゆえに、自然とはもうすなり。
  かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。

  かたちもましまさぬやうをしらせんとて、
  はじめに弥陀仏ともうすとぞききならひてそうろう。
  弥陀仏は、自然のようをしらせんりょうなり。

  (自然法爾章)


 正嘉二(1258)年十二月十四日、親鸞八十六歳のときの文書で「自然法爾章」と呼ばれています。関東から上京した弟子の顕智が三条富小路の坊にて、いくつかの疑問点について尋ね、それに答えた親鸞の言葉を顕智が聞き書きしたものです。自然法爾章には「仏とはなにか」が書いてある。すなわち、「南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたる」(仏のお心の中に生まれさせて、無上仏へと育て上げる)自然の働き、それを「弥陀仏」と呼ぶのだというのです。

 凡夫を仏にする働きは「かたちもましませぬゆえに」目に見えないが、働きを経験し救われた経験を持つ信心の人には、それがどんな働きなのかがわかる。その働きを経験したお釈迦さまは救いの働きを人類に示して「弥陀仏」と呼ばれたのです。救いの働きは、それと知らなくてもみなに平等に働いていて、その働きを信じて乗託すれば、働きが働き出す。それが必然だから「しからしむる」という。よって、弥陀仏はただの観念ではなく、経験可能な働きだと明らかにしているのが「自然法爾章」なのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-11-23 08:12 | 三帖和讃を味わう | Comments(2)

信仰の根底にあるもの

  無碍光如来の名号と
  かの光明智相とは
  無明長夜の闇を破し
  衆生の志願をみてたまう

  (高僧和讃)


 わたしたちの心の根っこ、命の根っこにある「衆生の志願」とは、突き詰めれば「死にたくない」ということなのでしょう。金や地位や名誉、家族が欲しいのは命に執着しているのです。命はみな、もっと生きていたい。死にたくないと願っている。わたしたちは、普段は死を考えないようにしているが、心の根っこにはいつも死があり、いざ、死が目前の現実ともなれば誰もが命にしがみつく。死を恐れる。死にたくない。もっと生きたい。

 よって、「衆生の志願」が満たされるというのは「不死」(永遠の命)を得るということです。どのように「不死」を得るかといえば、仏(無我)を経験して「不死」を得る。仏への疑いが晴れると、生まれたり死んだりする「わたし」がないと知る。これを「不死」(永遠の命)を得るというのです。「わたし」がなければ、すべてが仏。無我を経験すればみな仏(永遠の命)となる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-11-21 21:39 | 三帖和讃を味わう | Comments(0)

仏の心に出会うまで

  弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
  往生をばとぐるなりと信じて
  念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
  すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

  (歎異抄・第一章)


 ある時、竹内先生に失礼をも顧みず、こんなことをお聞きました。「先生の宗教体験とはどんなものだったですか」と。一瞬、びっくりしたような表情をされましたが、すぐに「仏に背中から抱かれたような感じを経験した」という答えが返ってきました。「あたりにいい香りもした」とも言いました。竹内先生がご会座で自らの宗教体験を語ることはなかったと思いますが、そもそも、このようなことは人にも聞かれないし、聞かれないから人にも話さないということなのでしょう。

 しかし、当時のわたしは、自分が経験したことがなんだったのか、誰かに説明してほしいと思い続けていました。わたし自身の宗教体験については「仏の心と出会う」という文章にまとめたことがあります。興味のある方は読んでください。


  仏教ブログ〈聞其名号信心歓喜乃至一念〉
  仏の心に出会うまで

 この体験から“仏前”でのわたしの聞法が始まりました。いつも、この宗教体験に立ち返り、信心を確かめながら、仏典も読み、文章も書いています。さて、歎異抄の第一章は親鸞の言葉ですが、真宗では宗教体験の事実を「摂取不捨」と教えています。仏のお心の中に生まれて、仏の方から自分の心が見えるようになります。この「摂取不捨」の体験を得させたくて善知識はご苦労されるのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-11-19 19:37 | このブログのこと | Comments(2)

未来は明るいか

  死の事実というのは、自分自身の最も根源の事実であって、
  体験も出来なければ、経験することも出来ない。
  「私は死んだ」という言葉は決してどんな人間にも吐けない事実なのです。
  しかし、その死の事実においては、偽り諂いということは一切通らないのです。
  自分を弁護することも、自分を正当化することも、
  自分の言い訳や粉飾も一切成り立たない。そういう事実がある。
  これが根源にある事実なのです。

  (平成元年九月三日・第一例会の法話より)


 竹内先生はお弟子たちに「死の事実に立て」とよく言われた。高齢者を前にしても「死」という言葉を使うことに躊躇はない。「人は必ず死ぬから」などという軽い言葉ではない。死の事実から目をそむけるなというのです。あなたが生きる支えにしているもの、それがたとえなんであれ、すべてを無意味にするのが「死の事実」です。

 現に、死を前にした人に慰めの言葉はない。未来がないからです。未来がないから「死」という。だから、竹内先生は「未来は明るいか」ともよく言われた。未来が確かでないから、あなたの現在は暗い。暗いけれども闇の中にいるから、闇の中とも気づかない。闇とも気づかないから闇というと、これも竹内先生が教えてくれたことです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-11-18 19:51 | 竹内維茂先生の言葉 | Comments(2)

e0361146_19580210.jpg われわれの信心の生活、仏法の生活、ほんとうの喜びの生活、明るい生活、それを往生という。だから、ここからどかへ行くというようなものではないんでしょう。常に身は娑婆世界に居るけれども、心は娑婆世界を超越しておる。往とは超越をあらわす。「死んで浄土に往生する」というてみても、そんな証拠はどこにもない。生きているうちに証拠がなければ、死んでからの証拠など、どこにもありません。証拠は自分の生活そのものにある。自分の生活そのものが証明するのである。

 信心決定した生活は、心が浄土に居るという生活。身は娑婆世界におるんだけれども、心は娑婆世界に縛られておらん、と思います。自由である。自由であって、心は常に平和である。証大涅槃ということはできないけれども、涅槃に近づいておる。そうでしょう。それを近門という。だから、わたくしは、往生は現生にある、成仏は未来にある、という。往生の終着点が成仏である。それを往生即成仏という。

 (曽我量深著「正信念仏偈聴記」より)


 真宗教義のほとんどを量深師の著書から学んだ。真宗教学の権威が伝統教学を克服して「心の往生」を説いていたからです。わたしの信体験を裏付けてもらったと確信したものです。「心の往生」とは、上に引用した通りのことで、なにも難しいことではない。信の一念に開けてくる悟りの世界を「浄土」というのだと言っているのです。信仰は頭でわかっても意味がない。まずは身命を賭して信の一念に立ってほしい。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-11-17 08:26 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

誰もが必ず挫折する

  罪業もとよりかたちなし
  妄想顛倒のなせるなり
  心性もとよりきよけれど
  この世はまことのひとぞなき

  (正像末和讃)


 誰もが必ず「挫折」する。挑戦しなければ失敗もしないが、自分を誇れるものが欲しいばかりに、だれもが気に入った現実を求めてフラフラと亡霊のように漂っている。気に入った現実を求めているうちに頭の中の出来事が世界のすべてになってしまう。「意識」という心の病だ。小さな頭の中に猛烈な嵐が起きている。意識の猛毒が体を蝕む。

 現実を頭の中の理想に合わせようとする努力がそもそも間違っている。大小が逆転しているから必ず挫折、転倒する。仮に思い通りになったと錯覚しても、最後に決定的な挫折が待っている。あなたにとっての都合のよい現実ばかりか、あなたがきれいさっぱり消えてなくなる。生きることに夢中になっているうちは気づかなかったことを死の床で気づかされるのだ。

 さて、上に掲げた和讃ですが、「頭の中のことは現実ではない」ということを教えている。仏教では頭の中の出来事を「妄想」という。妄想は現実ではない。妄想を現実であるかのように思い込むから「妄想顛倒」という。頭の中の出来事が「妄想」とわかれば、それが「悟り」ということです。簡単なようだが難しい。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-11-16 14:36 | 三帖和讃を味わう | Comments(0)

  仏教ブログ〈聞其名号信心歓喜乃至一念〉
  2010年9月24日付けの記事「濁川改め全休です」よりの再録です

 濁川(だくせん)という名前で、2004年4月に《濁川の仏教&人生論ノート》というサイトを始め、日記のように原稿を書いていました。その間、読者も多く出来て、読者のメールを読むのが楽しみのひとつとなっていたものです。六年続いたサイトでしたが先月でやめて、9月8日からこの仏教ブログを始めたという次第です。名前も濁川(だくせん)から全休(ぜんきゅう)に改めました。なぜかと理由を聞かれますが、過去に書いたものに縛られる不自由さを感じてきていたからです。仏典があるので、わたしの書いたものなどクズに変わりませんので、すべて捨てました。

 二十代から仏教を学んできましたが、若い頃は、生きる理由がまったくわからなかった。訳もわからず家族をもってしまったが、きっと金儲けと子育てだけの人生には耐えられなかっただろうと思う。それでも苦闘の末、ようやく三十六で宗教体験を得て、ますます仏教一本になって、五十になった頃、ようやくなにかが書けると思って《濁川の仏教&人生論ノート》を始めたということです。一休道歌に「本来の面目坊が立ち姿 一目見しより恋とこそなれ」とありますが、まさにそんな感じです。

  (往生礼讃)また云わく、
  仏世はなはだ値い難し、人信慧あること難し。
  たまたま希有の法を聞くこと、これまた最も難しとす。
  自ら信じ人を教えて信ぜしむ、難きが中に転た更難し。
  大悲、弘く普く化する、真に仏恩を報ずるに成る、と。

  (教行信証・信巻)

 親鸞の著書『教行信証』に引用された善導の文章です。仏の教えの残っている時代に生まれあわせたことは、とても幸運なことですが、ひるがえってこの世を見るに、信心の智慧を感得した人は実に稀で、求めても、智慧の人に会うことなど、まず出来ない。このようだから、この世で唯一の真実である仏法を聞こうなどという人もまずいない。しかし、たまたま信心の智慧を得るという幸甚にあったのだから、困難を乗り越えて、智慧を伝えていこうと思う。それが仏さまのご恩に報いることになろうから。・・・そんな感じです。

 この仏教ブログを始めた理由は、信心を得る人を出すためです。濁川(だくせん)の頃も、わたしの文章を読んで僧籍に入った人がおられましたし、智慧を得たのだなと思える人も二人ほどおられました。それこそ試行錯誤、苦悶の修行をしておられる人はたくさんおられます。生活しながら法を聞くというのは大変なことですが、よほど人生に大きな疑問を抱く契機がなければ法を聞き続けるというのも難しいものです。

 仏教は世渡りの方便でもなければ、地獄に落ちないための保険でもない。心のケアをするためのものですらない。むしろ、精神的な病を抱えたまま修行するのはとても危険です。仏教に出会う縁はさまざまですが、仏法とは、仏法を学ぶために仏法を学ぶのであり、仏法はなにかの手段、方法にはなりえないものだと知ってほしい。むしろ、仏法を学ぶためにこそ生まれてきたと考え、仏法を学ぶために生活し、悟りを得るという本懐を遂げてほしい。生を受けた喜びの中に生きていけるでしょう。

 さて、今回は、濁川から全休に変わった経緯を報告させていただきました。濁川の頃からの読者のみなさん、これからもお便りください。このブログで全休を知った方、真剣に仏教を学びたいと考えている方からのメールを楽しみにしています。これからもみなさんにご示唆をいただきながら聞法の生活を続けてまいります。 

 濁川改め全休

 南無阿弥陀仏 

 仏教ブログ〈聞其名号信心歓喜乃至一念〉

 2010年9月24日「濁川改め全休です」


by zenkyu3 | 2016-11-15 09:27 | このブログのこと | Comments(2)