カテゴリ:御消息集を読む( 3 )

愚者になりて往生す

  故法然聖人は、
  「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、
  たしかにうけたまわり候いしうえに、
  ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、
  往生必定すべしとてえませたまいしをみまいらせ候いき。
  ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、
  往生はいかがあらんずらんと、たしかにうけたまわりき。

  (末燈鈔・第六通)

 文応元(1260)年、弟子の乗信に宛てた親鸞八十八歳の手紙です。「ふみざたして、さかさかしきひと」に言い惑わされてはいけないとの手紙の主旨です。学者や学僧は物知りだが信心がない。われらは知識が欲しいのではない。救いが欲しい。救いを必要としたことのない物知りの話をいくら聞いても救いはない。物知りになって救われるわけではないからだ。仏のお心と心通じ合うこと、これだけがすべてである。信をいただけば、あとは仏のお育て、後生のためにすることはなにもない。ただ、ありがたい、ありがたいで往生する。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-09-18 06:18 | 御消息集を読む | Comments(0)

他力には義なきを義とす

  それ、浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。
  このことすでに天竺の論家・浄土の祖師のおおせられたることなり。

  まず、自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがいて、
  余の仏号を称念し、余の善根を修行して、
  わがみをたのみ、わがはからいのこころをもって、
  身・口・意のみだれごころをつくろい、めでとうしなして、
  浄土へ往生せんとおもうを、自力と申すなり。

  また、他力と申すことは、弥陀如来の御ちかいの中に、
  選択摂取したまえる第十八の念仏往生の本願を信楽するを、他力と申すなり。
  如来の御ちかいなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人のおおせごとにてありき。
  義ということは、はからうことばなり。
  行者のはからいは自力なれば、義というなり。
  他力は、本願を信楽して往生必定なるゆえに、さらに義なしとなり。

  しかれば、わがみのわるければいかでか如来むかえたまわんとおもうべからず。
  凡夫はもとより煩悩具足したるゆえに、わるきものとおもうべし。
  また、わがこころよければ往生すべしとおもうべからず。
  自力の御はからいにては真実の報土へうまるべからざるなり。

  (親鸞聖人血脈文集・第一通)

 「他力には義なきを義とす」という法語は歎異抄・第十章や正像末和讃、御消息にもたびたび出てまいります。この手紙は建長七(1255)年、親鸞八十三歳のときのもので、年表には「笠間の念仏者の疑問に答え、自力他力について教示」とあります。親鸞が法然の教えとして大切にし、唯円が親鸞の言葉として歎異抄に記録した法語「他力には義なきを義とす」の解説が含まれ、自力他力についてもわかりやすく整理されています。一部抜粋して参考に供しようと思います。ぜひ、原典を当たってみてください。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-09-10 06:39 | 御消息集を読む | Comments(0)

信心の人は如来とひとし

  光明寺の和尚の『般舟讃』には、
  「信心の人はその心すでに浄土に居す」と釈し給えり。
  居すというは、浄土に、信心の人のこころ、
  つねにいたりというこころなり。
  これは弥勒とおなじくということを申すなり。
  これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、
  信心の人は如来とひとしと申すこころなり。

  (御消息集・善性本・第五通)

 「六道」は人の心が造る。だから、六道を離れる「出離生死」とは(仏の心に摂取されて)人の心を離れることをいう。「浄土」は仏の心で出来ているので「仏の心に摂取される」ことを「往生」というのです。さとりの智慧のある人を「仏」というが、煩悩の身を持っているので「仏」から一段下がって「如来とひとし」という。正嘉元(1257)年、八十五歳の親鸞が弟子の性信に宛てた手紙の一部です。智慧の光が強いほど懺悔は深く深刻なので「あなたは如来とひとしいのだよ」と励ましてくださるような内容です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-09-07 06:00 | 御消息集を読む | Comments(0)