南無というは帰命なり

  一 仰せに、「南無というは帰命なり。
  帰命というは、弥陀を一念たのみまいらするこころなり。
  また、発願回向というは、たのむ機に、
  やがて大善・大功徳をあたえたまうなり。
  その体すなわち南無阿弥陀仏なり」と、仰せ候いき。

  (蓮如上人御一代記聞書2条)

 南無「自分の心」だった心が南無「阿弥陀仏」へと回心する。自分の心と一体だった心が仏にすがって一瞬、自分の心を離れる不思議体験を得る。これが「弥陀を一念たのみまいらする」という宗教的な決断の内容です。また、信の一念に「たのむ機に、やがて大善・大功徳をあたえたまうなり」。宗教的体験によって得られる「功徳」はどのようなものかというと「自分の心」から離れられた自由です。苦しみは自分の心への執着から出てきた。信の一念に、苦しみの原因である「自分の心」をまるごと離れて、自分の心から救われる。この功徳の味わいが一生を貫く。決して忘れないだけでなく、どこまでも深まっていく。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-08-15 06:00 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(2)

「不審」と「疑惑」

  一 「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、
  定聚のかずにいることをよろこばず、
  真証の証にちかづくことをたのしまず」(信巻)と、もうす沙汰に、
  不審のあつかいどもにて、「往生せんずるか」「すまじき」なんどと、
  たがいにもうしあいけるを、ものごしにきこしめされて、
  「愛欲も名利も、みな、煩悩なり。
  されば、機のあつかいをするは雑修なり」と、おおせそうろうなり。
  「ただ信ずるほかは別のことなし」と、仰せ候うなり。

  (蓮如上人御一代記聞書40条)

 信心を得た上で会通できないときに「不審」というが、ここでの弟子たちは蓮如上人から「機のあつかいをするは雑修なり」と叱られている。すなわち信心がない。だから「不審」ではなく「仏智疑惑」である。「機のあつかいをする」のは自分の心に執着して心をよくしたい「雑修」である。信心とは智慧をいただく。智慧をいただくと心が見える。「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」とは親鸞の懺悔(さんげ)である。懺悔は智慧を得た証しである。弟子たちにはそれがわからない。信心がないから「不審」ではなく「疑惑」である。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-08-06 21:05 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

衆生をしつらいたまう

  一 衆生をしつらいたまう。
  しつらうというは、衆生のこころを、そのままおきて、
  よきこころを御くわえそうらいて、よくめされなし候う。
  衆生のこころを、みなとりかえて、仏智ばかりにて、
  別に御したて候うことにては、なくそうろう。

  (蓮如上人御一代記聞書64条)

 人の心はそのままに、人の心の中に仏心を加えて、仏はわれらをよき人に仕立て上げてくださる。仏は智慧を与えて救う。智慧は鏡、自分の心が映る。鏡は映る心を選ばない。心に影響されない。だから、自分の心を正しく見せていただける。見えるから自覚という。見えるから自分の心のいいなりにはならない。そのことを自分の心から救われるという。蓮如上人は「衆生をしつらいたまう」と教えてくれたが、仏はわれらに智慧を与えて本当の人間に仕上げてくださる。ありがたい。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-08-04 19:45 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 「仏法には無我」と、仰せられ候う。
  「われ、と思うことは、いささかあるまじきことなり。
  われはわろし、とおもう人、なし。
  これ、聖人の御罰なり」と、御詞候う。
  他力の御すすめにて候う。
  ゆめゆめ、「われ」ということはあるまじく候う。
  「無我」と云うこと、前住上人(実如)も、
  度々、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書81条)

 「無我」とは「われ」がない。執着するような「われ」などない。これがわかることが仏法である。自分の心のことを「われ」と思う。これが根本無明で、自分の心を「われ」と思って執着する。だから「われはわろし、とおもう人、なし」。自分の心を生きる価値、生きる意味、生きる基準にしている。これが我執ということで、自分の心にしがみついている。

 自分の心のいいなりになって生きている。南無「阿弥陀仏」ではなく、南無「自分の心」だ。仏より自分の心が大切だ。「これ、聖人の御罰なり」。仏教徒とは言えない。本当の「われ」を阿弥陀仏という。本当の「われ」が煩悩の底から呼びかけて、本当の「われ」に今、目覚めた。本当の「われ」に目覚め、本当の「われ」を取り戻すから、これを往生成仏という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-08-02 15:50 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

理をまげて情をおるこそ

  一 「総別、人にはおとるまじき、と思う心あり。
  此の心にて、世間には、物もしならうなり。
  仏法には、無我にて候ううえは、人にまけて信をとるべきなり。
  理をまげて情をおるこそ、仏の御慈悲なり」と、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書160条)


 受け入れられない事実に直面すると「不条理だ!」と心が叫ぶ。事実が受け入れられないのは理屈や感情が事実より"上"にあって偉そうだからである。それを仏法では「邪見驕慢」といって嫌われる。仏のお慈悲は「理をまげて情をおる」。我慢の鼻っ柱をへし折る。こんなことは誰も望まないから、実に難信である。「人にはおとるまじき」と生存競争を生き抜いてきたが、おのれをよしとする我慢が基礎から崩壊するような事実に直面することがある。仏のお慈悲に心が向くかどうか、これもまた宿善である。縁のない人には縁がない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-08-01 17:53 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 実如上人、さいさい仰せられ候う。
  「仏法のこと、わがこころにまかせず、たしなめ」と、御掟なり。
  こころにまかせてはさてなり。
  すなわち、こころにまかせずたしなむ心は、他力なり。

  (蓮如上人御一代記聞書54条)


 実如上人は蓮如上人の五男。その実如上人が蓮如上人の教えだとして、たびたび仰せになった。「仏法というのは、自分の心の言いなりになるのではなく、自分の心を楽しむ位にならなくてはならない」と。自分の心の言いなりになっていてはならない。自分の心を自分だと思って執着するものだから、逆に、すっかり自分の心に縛られてしまっている。

 これを「我執」というが、我執を断ち切って自分の心から自由になる。自由になって、逆に、自分の心を楽しむ位になれたら、それは他力というに相応しい。自分の心を主(あるじ)とするのではなく、自分の心の主(あるじ)になれ、と教えるのが仏法です。(「たしなむ」という言葉の意味を取り違えている訳を見たので、老婆心ながら。)

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-30 19:34 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)