安心決定

  一 聖教をよくおぼえたりとも、
  他力の安心をしかと決定なくは、いたずらごとなり。
  弥陀をたのむところにて往生決定と信じて、
  ふたごころなく臨終までとおりそうらわば、往生すべきなり。

  (蓮如上人御一代記聞書11条)

 なぜ信を得たら、必ず仏になるといえるのか。「いま、ここ、このまま」が涅槃であると知っているからです。ありのままの事実を涅槃という。われらは事実を生きていながら、生の事実ではなく、解釈された事実を生きている。頭が自動的に事実を自分に都合よく解釈する。それを煩悩という。煩悩の隙間から一瞬だけ生の事実を垣間見ることがある。一度でも涅槃を見れば、われらは涅槃から一度も出たことはなかったと知る。だから、信の一念に仏になる身に定まる。いつでも仏になれる。これを「安心決定」という。死後の話ではない。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-22 06:23 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 「一念の信心をえてのちの相続というは、さらに別にあらず、
  はじめに発起するところの安心に相続せられて、
  とうとくなる一念のこころのとおるを、
  「憶念の心つねに」とも、「仏恩報謝」ともいうなり。
  いよいよ、帰命の一念、発起すること肝要なり」と、おおせそうろうなり。

  (蓮如上人御一代記聞書30条)


 心が心を離れて心を見る。これが信体験の内容です。信の一念に、心が見る心と見られる心に分れる。見る心を仏心、見られる心は凡心。一つの心が二つに分れ、二つのままに一つ。一つであるがはっきり二つに分かれている。仏心に立てば仏であり、凡心に立てば凡夫であるが、凡夫に立つのが往生の道です。一念の信心は一度でも経験すれば二度と忘れない。

 行住坐臥、なにをしていても、「憶念の心つねに」して、いつも仏心とともにあるから、生涯にわたり、煩悩に巻き込まれては離れ、離れては巻き込まれてを繰り返す。繰り返すままに、段々、煩悩から離れていられるようになる。煩悩は体の機能であるから、体ある限り煩悩は働き続ける。煩悩に巻き込まれて悪をなさないように仏心が守ってくれる。これが仏のお育てで、お育てを喜ぶから「仏恩報謝」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-21 06:31 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

空善に御掟なり

  一 四月九日に、仰せられ候う。
  「安心をとりて、ものをいわば、よし。
  用ないところをば、いうまじきなり。
  一心のところをば、よく、ひとにもいえ」と、
  空善に御掟なり。

  (蓮如上人御一代記聞書20条)

 信心は如来回向である。あちらから与えられてくる。こちらで考えついたことではない。「安心をとりて、ものをいわば、よし」。与えられたことのない人にはわからない。「用ないところをば、いうまじきなり」。信心に関係のないことは言うな。これ以上に厳しいご指示はない。日付の記録が空善の覚悟を物語っている。「一心のところをば、よく、ひとにもいえ」。経験するも容易ではないが、それを人にも経験させる。これはさらに困難である。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-20 06:40 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

仏智の心をうるゆえに

  一 人の身には、眼・耳・鼻・舌・身・意の六賊ありて、善心を奪う。
  これは諸行のことなり。念仏はしからず。
  仏智の心をうるゆえに、貪・瞋・痴の煩悩をば、仏の方より、刹那にけしたまうなり。
  故に、「貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」(散善義)と、いえり。
  『正信偈』には、「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」と、いえり。

  (蓮如上人御一代記聞書136条)

 蓮如上人はここで信心のお徳を述べている。自力の人は自分の心をよくして仏になろうとするから「六賊ありて、善心を奪う」と、心が汚れることを気にする。自分の心に執着するから自分の心に縛られる。自分の心に縛られて、自分の心が造る六道を引摺り回されて、ありとあらゆる苦しみを受ける。自力の人はこのことがわからない。

 「念仏はしからず」。他力は自分の心を捨てる。自分では捨てられない。信の一念に自分の心が見える。見えたことが自分の心を離れた証拠です。この信心獲得の体験の核心を蓮如上人は「仏智の心をうるゆえに、貪・瞋・痴の煩悩をば、仏の方より、刹那にけしたまうなり」と述べている。きっと、ご自身の信体験でもあったに違いない。

 「貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」とは仏心が花開いたことを現し、「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」というは智慧の光の中にいる信心の人の(闇きこと無き)心境を示している。仏に煩悩はないが、宿業の身には煩悩は生命力です。煩悩はなくならないが仏のお心の中にいるので煩悩に巻き込まれずにいられる。これが信心のお徳です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-19 06:27 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

久遠劫より久しき仏

  一 久遠劫より久しき仏は、阿弥陀仏なり。
  かりに、果後の方便によりて、誓願を儲けたまうことなり。

  (蓮如上人御一代記聞書100条)

 竹内先生から「仏とは智慧を与えて救う働きである」と教えていただいた。智慧とは「光」である。物理的な光線ではなく「見える」ことを光という。闇の中では見えないが光の下なら見える。だから、見えたことを「光」という。なにが見えたか。心を縛っている煩悩が見えた。煩悩に縛られていることがわかった。わかったことが煩悩から離れたことである。心が心から離れて心が自由になる。これを「救われる」という。見えるようにしてくださったのは「久遠劫より久しき仏」である。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-17 06:10 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

むなしく流転しけるなり

  一 「他力の願行をひさしく身にたもちながら、
  よしなき自力の執心にほだされて、むなしく流転しけるなり」
  (安心決定鈔)とそうろうを、
  え存ぜずそうろうよし、もうしあげ候うところに、
  仰せに、「ききわけて、え信ぜぬもののことなり」と、
  仰せそうらいき。

  (蓮如上人御一代記聞書8条)

 「自力の執心」とは自分の心に愛着して、心が願うことならなんでもしようと決めてかかること。その姿は好きな恋人のためなら命懸けになっている恋狂いのようなもの。みな、人生の目的は幸せになることだと主張している。幸せとは心の満足でしょうが、そう思うことが心の奴隷状態と言っていい。

 「むなしく流転しけるなり」とは心は縁に催されて意味もなくコロコロ転がる。命だから予想などできない。映画の画面が変わるように心境も転変する。生きた心地のしない地獄から精神的な高みにある天上まで、心の生活を六種に分けて「六道」という。自分の心への執着が切れると六道を離れる。このことを「出離生死」といい、この経験を得させたくて「仏道」がある。

 「むなしく流転しけるなり」とはどういうことですかと聞かれて、蓮如上人は「ききわけて、え信ぜぬもののことなり」と答えられた。長いこと聴聞に励んでも理屈を覚えるばかりで、一向に自分の心を捨てる気配がない。そういう人のことだと、お答えになったと。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-16 22:45 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

一心というなり

  一 一心とは、弥陀をたのめば、
  如来の仏心と一つになしたまうが故に、
  一心というなり。

  (蓮如上人御一代記聞書161条)

 「たのむ」心にならない。「弥陀」を外において、自分のためになにかをしてくれると思えば、それは「たのむ」ではない。自分を残すための交渉事である。なにを、どうたのむか。どうぞ、この惨めな心の生活から救ってくださいと、身を捨てて謝る。すぐに、仏のお心の中に引き入れて、惨めな心の生活から救い出してくださる。そういうお約束である。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-01 06:26 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

信治定の人

  一 信治定の人は、誰によらず、まず、みれば、
  すなわち、とうとくなり候う。
  是、その人のとうときにあらず。
  仏智をえらるるがゆえなれば、
  いよいよ、仏智のありがたきほどを存ずべきことなりと云々

  (蓮如上人御一代記聞書210条)

 わたしは人目につかないように竹内先生を拝んでいたことがあります。竹内先生を竹内先生にしている仏智を拝んでいたのです。陽光のまぶしい春先のころ、ある日の講義の中、あまりのありがたさに思わず先生に手を合わせてしまったことがあり、それを先生に見られてしまいました。先生と目が合ったのでわかります。仏はわたしの前に先生の姿で現れてくださるのだと思っていたのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-09-28 06:19 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

覚如様御歌

  一 今日ばかり おもうこころを わするなよ 
  さなきはいとど のぞみおおきに 覚如様御歌

  (蓮如上人御一代記聞書68条)

 今日一日を生きるのに必要なものがあれば、それで満足である。あなたもわたしも、どれもみな死ぬ命である。一日長く生き延びたからといって、それがなんだろう。仏法を聞くために生まれて来たのである。仏法を聞いたら、あとはいつ死んでも同じである。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-09-27 06:42 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

ききうるひと、まれなり

  一 「御一流の義を、うけたまわりわけたるひとは、あれども、
  ききうるひと、まれなり」といえり。
  信をうる機、まれなり、と、いえるこころなり。

  (蓮如上人御一代記聞書55条)

 死ぬほどのことだってやろうと思えばできる。しかし、信心ばかりは命と引き換えにしても得られない。仏からいただくものだからだ。どうやっていただくか。心が空っぽになる。心が空っぽになれば空っぽになった心に仏さまが入ってきてくださる。心が空っぽになることを「聞く」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-09-26 20:01 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)