カテゴリ:蓮如上人御一代記聞書を読む( 49 )

  一 人の、前々住上人へ申され候う。「一念の処、決定にて候う。
  ややもすれば、善知識の御ことを、おろそかに存じ候う」由、
  申され候えば、仰せられ候う。「最も、信のうえは、崇仰の心あるべきなり。
  さりながら、凡夫心にてはなきか。か様の心中のおこらん時は、
  勿体なき事と、おもいすつべし」と、仰せられしと云々

  (蓮如上人御一代記聞書109条)

 これもまた「信のうえ」のことです。信を得ると、得たことを誇る心が起きて「善知識の御ことを、おろそかに存じ候う」ことがある。師の信心を疑うのです。これもまた信を得た人が一度は通る道に違いない。親鸞は「自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々」(歎異抄・第6章)と、信が深まっていけば、自ずと師のお心と心通じ合うようになる、と教えている。親鸞も通った道に違いない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-01 06:33 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 仰せに、「ときどき懈怠することあるとも、
  往生すまじきか、とうたがいなげくことあるものあるべし。
  しかれども、はや、弥陀如来をひとたびたのみまいらせて、
  往生決定ののちなれば、懈怠おおうなることのあさましや。
  かかる、懈怠おおうなるものなれども、御たすけは治定なり。
  ありがたや、ありがたやと、よろこぶこころを、
  他力大行の催促なりともうす」と、おおせられそうろうなり。

  (蓮如上人御一代記聞書17条)

 「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろう」(歎異抄・第9章)とは、唯円が親鸞に告げた信の上の不審であったが、「親鸞もこの不審ありつるに」と、自分もかつて同じことがあったと、親鸞は弟子の唯円に率直に応じている。蓮如の「かかる、懈怠おおうなるものなれども、御たすけは治定なり」とは、親鸞の、「いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ」と、写したように同じ心である。

 信の上の「不審」であり、不信の「疑惑」ではない。一度は喜ばせていただいたが、数年もすれば喜びの感触も忘れがちになり、やがて、信の一念のことも、わかるようなわからないような状態になる。信心が本当に「自然法爾」になるために必ず通らなくてはならない道である。信を得たからこそ味わう信仰の危機である。「信を得たのは自分である」という傲慢ゆえに信がわからなくなるが「如来よりたまわりたる信心」であったと思い出せば、今に働いている智慧の働きがまた働きだす。「ありがたや、ありがたやと、よろこぶこころを、他力大行の催促なりともうす」とは、そういうことである。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-11-30 06:28 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

時節到来と云うこと

  一 「時節到来と云うこと。
  用心をもし、そのうえに事の出で来候うを、時節到来とは云うべし。
  無用心にて事の出で来候うを、時節到来とはいわぬ事なり。
  聴聞を心がけてのうえの、宿善・無宿善とも云う事なり。
  ただ、信心は、きくにきわまることなる」由、仰せの由に候う。

  (蓮如上人御一代記聞書106条)

 聴聞の目的は信心を取ることしかない。世間には芸事にすら命を懸ける人たちがいる。われらは聴聞するためだけに生きていることを忘れてはなるまい。求めずに得たなどということはない。信心を取るとは仏のお心を聞く。親の心、子知らず。親の心がわかれば子は子であって、もう子ではない。親の心とはすべてを入れる「無我」(大悲)であるから、聴聞とは「無我」(空)を経験することに尽きる。自我を捨てた信の一念、喜びが心を満たす。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-11-29 12:38 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

思案の頂上と申すべきは

  一 思案の頂上と申すべきは、
  弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることは、なし。
  此の御思案の道理に同心せば、仏になるべし。
  同心申すとて、別になし。機法一体の道理なりと云々

  (蓮如上人御一代記聞書244条)

 妄念妄想の滅するところを「涅槃」という。妄念妄想に良いも悪いもない、ともに滅する。過熱した頭が冷やされて妄念妄想が雲の如く消えてなくなる。「弥陀如来」とは思案の滅する涅槃から降りてきた涅槃の一段下だから「思案の頂上」である。よって「機」とは思案、「法」とは思案の滅する涅槃、これが二つでありながら一つである心の状態を「信心」という。「機」にも「法」にもなるから、いつでも仏に成る。いつでも仏に成るから「此の御思案の道理に同心せば、仏になるべし」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-11-27 06:41 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

冥加に叶うと云うは

  一 前々住上人、御病中に、
  兼誉・兼縁、御前に伺候して、ある時、尋ね申され候う。
  「冥加と云う事は、何としたることにて候う」と申せば、仰せられ候う。
  「冥加に叶うと云うは、弥陀をたのむ事なる」よし、仰せられ候うと云々

  (蓮如上人御一代記聞書206条)

 「事実」と事実の「解釈」は違う。当たり前のことだが、みな忘れている。身は事実を生きている。心は解釈した事実を生きている。解釈はどんな解釈であれ自由であるが、大切なことは、解釈は「自我の見解」であって事実そのものではないということだ。だから、解釈できない事実が起きると世界がひっくり返ったように「不条理だ!」と叫ぶ。

 「自我の見解」(我見)に執着して事実を受け入れることを拒否して苦しむのである。自業自得である。「弥陀」とは「涅槃」である。涅槃とは自我の見解が消えることである。だから、「弥陀をたのむ」と自我の見解が消えてなくなるのである。苦しい時は「弥陀をたのむ」のである。「自我の見解」から救われるので「冥加に叶うと云う」のである。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-11-26 06:37 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

物にあくことはあれども

  一 物にあくことはあれども、仏に成ることと、
  弥陀の御恩を、喜びあきたる事は、なし。
  焼くとも失せもせぬ重宝は、南無阿弥陀仏なり。
  しかれば、弥陀の広大の御慈悲、殊勝なり。
  信ある人をみるさえ、とうとし。
  能く能くの御慈悲なりと云々

  (蓮如上人御一代記聞書233条)

 最初は文学であり、ついで哲学、漢学で、最後は仏教であった。仏教の入口は曹洞禅の内山興正老師の著書で、やがて『歎異抄』を読むようになった。禅の厳しさより念仏の優しさがよかった。ついに、竹内先生に出会い、以来、聴聞しても、これでいいと思ったことはない。竹内先生も常に言われていたことだけれど、とくに求めることがなくても「次から次と新しいテーマが与えられてくる」からです。

 人に誇るようなこともなく、また、誇る気持ちもないが、引き寄せられるように聴聞が絶えることなく続いてきたことは、まことに仏のお育てとはこのようなことなのでしょう。加えて、この頃は、竹内先生にお会いできたことが何より尊いことに思われます。法を聞かせ、人に会わせ、命の終わりを静かに待つことができるようにしていただきました。恵まれた人生だったと喜んでいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-11-25 06:43 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 人は、そらごと申さじと、嗜むを、随分とこそ思え、
  心に偽りあらじと、嗜む人は、さのみ多くはなき者なり。
  また、よき事はならぬまでも、世間・仏法、ともに心にかけ、
  嗜みたき事なりと云々

  (蓮如上人御一代記聞書250条)

 世間の人は心に嘘があっても嘘をつかなければいいと思っている。道徳である。親鸞は言われた。「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚仮を懐きて、貪瞋邪偽奸詐百端にして悪性侵めがたし、事蛇蝎に同じ」(愚禿鈔)と。嘘と諂いで渡る世間である。親鸞は外の嘘は許した。しかし、わが内なる嘘が許せない。仏が見ておられるからである。信仰である。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-11-24 06:33 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

仏法は内心に深く蓄えよ

  一 「王法は額にあてよ。仏法は内心に深く蓄えよ」との仰せに候う。
  仁義と云う事も、端々あるべきことなるよしに候う。

  (蓮如上人御一代記聞書141条)

 親鸞は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(歎異抄・後序)と言った。「念仏」(信心の智慧)という「まこと」を見つけたから、人の心も人の世も「まこと」がないとわかった。「まこと」を見つけられた人生と、生存だけで終わる人生とでは比較にもならない。

 「王法は額にあてよ」とは世間を捨てる。法を聞くためだけの人生であるから、常識的に生きて世間とは争わない。外ではなく、内に向かう。「仏法は内心に深く蓄えよ」と。信仰の生活とは仏との一対一の対話だから、他人の介在する余地がない。仏を知らない不信の人は信仰が理屈にとどまる。理屈は賛同を求めるから必ず争いとなる。信心の人は他に賛同を求めない。内心深くに信仰を隠して一人楽しむ。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-11-20 06:20 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 「今生の事を心に入るるほど、仏法を心に入れたき事にて候う」と、人、申し候えば、
  「世間に対様して申す事は、大様なり。ただ、仏法をふかくよろこぶべし」と云々

  (蓮如上人御一代記聞書279条)

 聴聞の場で、ある人が「人生と同じくらい仏法も大切にしたい」と言った。それを聞いた蓮如上人が「生きるために仏法を学ぶのではない。仏法を学ぶために生きているのである」と言った。超意訳するとこんな感じでしょうか。ここのところがみなわからない。命が大事なのは命より大事な目的があるからです。念仏者は生存を楽しむために生きているのではない。

 ちなみに、親鸞は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(歎異抄・後序)と言った。歎異抄を読む人はこれを心に入れなくてはならない。人の心、この世には「まこと」はないと、はっきりと言い切っている。価値がないもののために大切な命を使っていいのかと容赦なく迫ってくる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-11-19 06:11 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 仏法には、万事、かなしきにも、かなわぬにつけても、
  何事に付けても、後生のたすかるべきことを思えよ。
  よろこびたきは、仏恩なりと云々

  (蓮如上人御一代記聞書300条)

 われらは受け入れられない事実に苦しむ。「かなしきにも、かなわぬにつけても」「何事に付けても」ありのままを受け入れて、なんの疑いもなければ「なぜ」の苦しみはないが、不都合な事実はなかなか受け入れられない。「前向き」な理由を見つけて受け入れようと努力するが、いつもいつも都合よく理由が見つかるわけではない。

 生老病死を「四苦」という。思い通りにならない事実を拒否して自ら苦しむから「苦」という。あなたは思い通りにしたい「我」を捨てられない。回りの人もあなた同様、思い通りにしたい「我」を捨てられない。あなたは自分の「我」に苦しみ、回りの「我」との闘争をやめられない。自分を諦め、人生を諦め、人の世を諦めるを「後生のたすかる」というが、あなたはきっと死んでも諦めない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-11-17 06:03 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)