カテゴリ:教行信証のこころ( 8 )

たとへば千歳の闇室に

  たとへば千歳の闇室に、
  光もししばらく至れば、
  すなはち明朗なるがごとし。
  闇、あに室にあること千歳にして
  去らじといふことを得んや。

  (教行信証・信巻 「浄土論註」引用)


 例えば、映画のスクリーン。スクリーンに映っている世界は映写機が映している。映写機という自分の心が映したものをわれらはスクリーンという外に見ている。スクリーンを見るうちにスクリーンの中の世界が外界に実在すると錯誤する。錯誤した上、自分の心が映したものに執着する。元々"ない"ものを見て"ある"と執着するから「迷う」という。外に見ているのは内にあるものの影でしかない。さて、「千歳の闇室」とは自分の心のこと、「光至れば」とは自分の心が見える。自分で自分の心を見ることはできない。仏の我を見る眼をいただく。だから、自分の心が見えたら、それが「千歳の闇室に、光もししばらく至れば」です。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-20 07:29 | 教行信証のこころ | Comments(0)

現生十種の益(続)

e0361146_07284065.jpg  五濁悪世の衆生の
  選択本願信ずれば
  不可称不可説不可思議の
  功徳は行者の身にみてり

  南無阿弥陀仏をとけるには
  衆善海水のごとくなり
  かの清浄の善身にえたり
  ひとしく衆生に回向せん

  (高僧和讃)

  金剛の真心を獲得すれば、
  横に五趣八難の道を超え、
  かならず現生に十種の益を獲。

  (教行信証・信巻)


 信心とは仏のお心をいただくことです。いただくとは仏のお心がわたしの内面に入って主体となってくださった。そのことを「功徳は行者の身にみてり」とも「かの清浄の善、身にえたり」ともいいます。この身に得た信心とはどのようなものか。その具体的な内容を親鸞は「十種の益を獲」と教えてくれている。これが「功徳」です。


 「五趣八難の道」とはわれらの現在の姿であり、現在を現在と知らせ、現在に安息して生きる道を開くのが現在を超えて現在を照らす光、すなわち「金剛の真心」です。現在を超越しているので「未来」といい、未来が現在を超えて現在しているのです。真宗は「二種回向」といいますが、「選択本願信ずれば」が往相で、「ひとしく衆生に回向せん」が還相です。仏のお育てで、わたしの手柄はありません。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-12 07:18 | 教行信証のこころ | Comments(0)

現生十種の益

  金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、
  かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。
  一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、
  四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、
  七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、
  十には正定聚に入る益なり。

  (教行信証・信巻)

 ①冥衆護持とは諸仏諸菩薩、天と地のすべての善神にいつも護られる。②至徳具足とは仏にそなわったこの上もなく尊い功徳がこの身にもそなわる。③転悪成善とは煩悩が悟りへと転ぜられる。④諸仏護念とはいつも諸仏に護られる。⑤諸仏称讃とは諸仏にほめたたえられる。⑥心光照護とはいつも智慧の光に照らされる。⑦心多歓喜とは心に喜びが多い。⑧知恩報徳とは如来のご恩を知りご恩に報いる。⑨常行大悲とは如来回向の智慧を人に伝える。⑩入正定聚とは仏になる身に定まる。

 真心とは真(まこと)の心。仏のお心のことです。仏のお心が凡夫の内面に入って主体となってくださる。それで仏のお徳が凡夫に具わる。それが「至徳具足」です。大きな心の中に自分があるのでいつも護られている感じがします。それが「冥衆護持」です。信心は智慧光ですから「心光常護」、いつも仏の方から自分が見えている。見えていることが救われるということです。

 中でも「転悪成善の益」がとくに大切です。煩悩が湧いても取り憑かずにいられるので煩悩がすぐ消えていきます。過去の業が無意識の底から黒く沸き上がってきて智慧の光に晒されて業が浄化されていく。この繰り返しが浄土の生活です。業が浄化されていくと心が軽く明るくなっていくので「心多歓喜」、仏のお心は利他の心ですから「常行大悲」の働きをします。仏へとお育ていただいているのだとわかります。それで最後にまとめとして「正定聚に入る益なり」といいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-11 06:12 | 教行信証のこころ | Comments(0)

念々称名常懺悔

  誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、
  愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、
  定聚の数に入ることを喜ばず、
  真証の証に近づくことを快しまざることを、
  恥ずべし、傷むべし、と。

  (教行信証・信巻 )

  念々に称名してつねに懺悔す
  人よく仏を念ずれば仏また憶したまふ
  凡聖あひ知り境あひ照らす
  すなはちこれ衆生増上縁なり

  (善導・般舟讃)


 善導大師の「般舟讃」に「念々称名常懺悔」という言葉がありますが、親鸞のこの述懐が「懺悔」です。真宗では「ざんげ」ではなく「さんげ」と読みます。懺悔(ざんげ)とは「キリスト教で、罪悪を自覚し、これを告白し悔い改めること」と広辞苑にありますが、一般的に懺悔とは、道徳規範に照らして自分の行為を反省することなのでしょう。しかし、念仏ではそうではなくて、"仏の眼"に映っている自分の心が全体として"見えている"ことを「懺悔」というのです。

 つまり、仏の側から見えるわたしの姿を見せていただくということです。わたしはわたしを見ることはできないが、不思議なことに、仏の眼をいただくことによって、仏から見えるわたしを見せていただくことができる。これを「智慧」といいます。ですから、「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して」とは、「愚禿鸞」の現実の、ありのままの姿が親鸞には見えたということです。よって、「悲しきかな」とは仏のお心であり、「恥ずべし、傷むべし」とは親鸞の心です。

 このように、仏のお心と親鸞の心はすでに一つになっていて、親鸞が自ら(機)を見るときは仏(法)の側にいて、仏(法)を仰ぐときは親鸞(機)の側にいるのです。これ「機法一体」といいます。仏のお心が親鸞の内面になった。主体が入れ替わった。だから、いつでも内面の仏と対話することができる。「人よく仏を念ずれば仏また憶したまふ」。これを「憶念」といいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-01 06:40 | 教行信証のこころ | Comments(0)

二種深信

  「二者深心」。「深心」と言うは、すなわちこれ深信の心なり。
  また二種あり。一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
  曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。
  二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、
  疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。

  (教行信証・信巻「観経疏」引用)


 二種深信は信心の内容です。救われないと知る智慧はわたしの中にはない。わたしの中にないのだから「回向」という。救われないと知ることが救われたことである。はっきりしている。わたしの本心はどこまでも「この心のままで」救われたい。それは無理だと二種深信が教えている。救われないのはわたしの心、救うのは仏の心。わたしの心は地獄行きと決まっている。わたしの心が成仏するのではない。仏の心が成仏する。ここがはっきりするのが二種深信。仏の心が成仏する。だから「必至滅度」という。仏が仏になるのだから間違いない。それゆえ「他力」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-28 06:17 | 教行信証のこころ | Comments(0)

普賢の徳に遵うなり

  天親菩薩、論を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる。
  修多羅に依って真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。
  広く本願力の回向に由って、群生を度せんがために、一心を彰す。

  ①功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲。
  ②蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証せしむと。
  ③煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す、といえり。

  (正信偈・天親章)

  ①しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、
  至徳の風静かに衆禍の波転ず。すなわち無明の闇を破し、
  ②速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、③普賢の徳に遵うなり。
  知るべし、と。

  (教行信証・行巻)


 ここに「本願力回向」の三つの働きが整理されている。すなわち、①功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲。これは「往生」です。②蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証せしむ。これは「成仏」です。③煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す。これは「利他教化地」です。①②は「往相回向」、③は「還相回向」とわかりやすい。真宗の教義では①は現生(わたしの生前)、②③は順次生(わたしの死後)とされている。煩悩の身で「②成仏」したとは言わないからです。しかし、それはあくまで「わたし」を基準にしている。

 わたしの身体は物質で出来ているから生死があるが、不生不滅の仏心に生死はない。本願力は永遠の働きであるから「わたし」の生き死になどまったく関係がない。よって、「③利他教化地」(還相回向)が「わたし」の生前であるか死後であるかなど(わたしにとっては)まったく無意味です。もし、わたしの称えた念仏を聞いて救われる人がいたら、それはわたしに念仏を称えさせた仏のお仕事であり、わたしの手柄などではないからです。「②速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、③普賢の徳に遵うなり」。こういうことはとても尊いことであるが、わたしの経験することではない。わたしは救われる身で救う身ではない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-13 06:08 | 教行信証のこころ | Comments(0)

「聞」と言うは

  しかるに『経』に「聞」と言うは、
  衆生、仏願の生起・本末をききて疑心あることなし。
  これを「聞」と日うなり。

  (教行信証・信巻)

  いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、
  御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。
  ただ、仏法は、聴聞にきわまることなりと云々

  (蓮如上人御一代記聞書193条)


 真宗には修行がないというが、在家の者は人生全体、生活すべてが修行である。愛欲と名利を動機に金とプライドを求めて他人と闘争する毎日だ。娑婆世界を超えて生きる往生の道は娑婆の生活の中で見つける。では、仏教をどう学ぶか。仏法は聴聞に尽きる。「仏願の生起本末をききて疑心あることなし」となるまで聞く。法座に通う、善知識を探す。なにをしていても仏のことが頭を離れない。それが聴聞で、納得できるまで聞く。考えることをやめない。考えることの限界まで考える。

 なぜ、わたしは生まれてきたのか。なぜ、わたしばかりが苦しみに会うのか。なぜ、法を聞いても聞いてもわからないのか。念仏しても仏のお心がわからない悲しみはどうすればいいのか…。心はいつも同じところをグルグル回っている。教材はどこまでも自分の心だ。自分の心をよくよく観察する。救われない心と救おうとする心はいつも一緒だから、自分の心を見ていれば必ず仏に遇う。眼で見る、耳で聞く、心で感じる。どんな形であれ、仏はあなたにつながろうとしている。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-31 07:57 | 教行信証のこころ | Comments(0)

二河白道

  また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、
  「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。
  すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。

  この人すでに此に遣わし彼に喚うを聞きて、
  すなわち自ら正しく身心に当たりて、
  決定して道を尋ねて直ちに進みて、
  疑怯退心を生ぜずして、
  あるいは行くこと一分二分するに、

  東の岸の群賊等喚うて言わく、
  「仁者回り来れ。この道嶮悪なり。
  過ぐることを得じ。必ず死せんこと疑わず。
  我等すべて悪心あってあい向うことなし」と。

  この人、喚う声を聞くといえどもまた回顧ず。
  一心に直ちに進みて道を念じて行けば、
  須臾にすなわち西の岸に到りて永く諸難を離る。

  (教行信証・信巻引用「二河白道」より)


 「二河白道」の一部を引用しました。「群賊悪獣」とはなにか。いわば、頭の中の妄念妄想(煩悩)を「群賊悪獣」というのでしょう。われらは頭の中の妄念妄想に執着して、妄念妄想の下僕に成り下がってしまって、自分がなにをしたいのか、どうしたいのかすらわからなくなっている。これを「迷い」といいます。だから、頭の中の妄念妄想(煩悩)を「妄念妄想でしかない」と気づくことが「救い」となる。そして、妄念妄想から自由になって相手をしないでいられるようになることを「正念に住する」というのです。

 仏教を学び始めてから、頭の中のことは「妄念妄想でしかない」と気づくのに十年がかかり、妄念妄想から離れていられるようになるのにさらにまた二十年がかかりました。正念に住する生活を「往生」といい、往生の生活の到達点が「成仏」です。妄念妄想の相手をせず、事実を事実として受け入れてとくに不満もない姿を「愚者になりて往生す」(末燈鈔)というのでしょう。「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と、竹内先生はいつもお弟子さんたちを励まされていたことを思い出します。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-27 21:18 | 教行信証のこころ | Comments(0)