カテゴリ:浄土三部経のこころ( 1 )

第十八願

  たとい我、仏を得んに、
  十方衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲うて、
  乃至十念せん。
  もし生れずは、正覚を取らじ。
  唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。

  (第十八願文)

  「至心信楽」というは、至心は、真実ともうすなり、
  真実ともうすは、如来の御ちかいの真実なるを至心ともうすなり。
  煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆえなり。
  信楽というは、如来の本願真実にましますを、
  ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。
  この至心信楽はすなはち十方の衆生をして
  わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかいの至心信楽なり。
  凡夫自力のこころにはあらず。
  「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、
  安楽浄土に生まれんとおもえとなり。

  (尊号真像銘文)


 本願とはなにか。なぜ十八願が本願なのか。なぜ十八願で救われるのか。救われるとはどういう事態をいうのか、今回はそういうことについて。われらはふだん意識野で暮らしている。それすら意識していない。意識していることがすべてだと無自覚に信じている。苦悩は意識野で起きている。苦悩はこの意識野の中の苦悩であるから意識野を超え出れば苦悩を超えることができる。意識野を超え出た処を不思議といい、仏はこの不思議の領域から「こちらに来い」と呼びかけておられる。この呼び声があるから、この呼び声に気づいて始めてわれらは意識野に暮らしていることを知る。だから、意識野に暮らしていると知ることがすなわち不思議を知ることです。

 意識は自分で意識を超えることはできない。だから仏は無始以来、ずっと呼び続けておられる。意識したらそこは意識野ですでに不思議ではない。意識は意識を超えることはできない、そう知ることが不思議に心が開くことです。これが信心です。意識を神とする傲慢が砕けて心が意識から救われる。事実はすべて不思議の領域で起きて意識野に入ってくる。不思議の領域で起きていることを意識野に暮らすわれらにはどうすることもできない。だから、いま起きている事実に随順して素直であることがわざわいを招かない正しい生き方です。小さな意識野から出て、わたしの心の中で暮らしなさいというのが仏さまのお心です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-01-07 08:21 | 浄土三部経のこころ | Comments(6)