カテゴリ:香樹院語録を読む( 138 )

他力信心他力信心

  二四五、ある時の仰せに。
  他力信心他力信心と聞かせて頂けば誤りはない。
  此方は誤りばかりなれども、
  如来より御與えと思われるならば、
  我れしらず疑いは晴れる。

  またの仰せに。
  皆々は助けたまう御慈悲が、
  他力とまでは聞くけれども、
  信ずる信が他力とは思わぬ。
  それ故、ただ願いぶり、信じぶり、勤めぶりばかりに、
  心を引かれて難儀をするのじゃ。

  又曰く。
  信心を得ることばかり他力のように思う故、
  己が心をもり立てて、とかくの計いがやまぬ。

  (香樹院語録) 

 仏とは「無我」ですから「わたし」(我)がある限り他力(無我)にはならない。信仰とは「無我」(仏)を経験する、この一点です。「ただ願いぶり、信じぶり、勤めぶりばかりに、心を引かれて難儀をする」のは「わたし」に執着しているのです。「無我」とは「わたしがない」ことの確認で、「わたし」がないと知るから「仏」になるのです。

 「わたし」がないからあらゆる罪悪が洗い流される。ない「わたし」に執着するから「ただ願いぶり、信じぶり、勤めぶりばかりに、心を引かれて難儀をする」ので、「わたし」を離れて「わたし」を見る信心の智慧をいただけば、業だけがあって、そこに「わたし」なる主体はないと知る。これが「わたし」から救われるということです。「わたし」がなければ、すべてが「他力」(仏)です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-19 06:40 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

読書法

  二八二、師曰く。信心を得るには、
  あれこれと、種々の書をよまずともよい、
  懇ろに読むなら、『御文』一通でも必ず信は得られる程に。
  其時、秀存曰く。然らば、我は疫癘の『御文』にて信を得て、
  往生を遂げしめ給わんことを決択せん、と。

  (香樹院語録)

 信心とは仏のお心と心が通じ合うことだから(理屈ではなく)経験である。仏書はすべからく「仏とはどのようなお方か」「仏を経験するにはどうしたらいいか」が書かれている。書いた人が伝えたい仏のお心、この一点に集中して読むことが大切です。しかも、数千回読んだくらいでは足りない。同じ文章をそれこそ何万回何十万回と読むうちに感じることが出てくる。言葉を覚えてはいけない。書いた人が伝えたい仏のお心を感じるのです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-18 21:35 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

罪の沙汰無益なり

  二二二、往生の一段について、
  罪のありなしの沙汰は無益なり。
  御恩を喜ぶときは、罪深き身と思いしらば、
  いよいよ喜ばるべき仏恩なり。

  (香樹院語録)  

 人の心が見る世界を「世間」といい、仏のお心が見せてくださる世界を「浄土」という。「罪」とは人が人に与える(マイナス)評価で、世間で生きている限り(功罪の功も含め)評価から逃げることはできない。われらは人の評価に縛られて苦しみ、評価をして人を苦しめる。しかし、浄土には「人」がいないので評価(罪)がない。よって、「往生の一段について、罪のありなしの沙汰は無益なり」という。人がいない、よって評価のない浄土を知ってわれらは罪から救われる。それを「心の往生」という。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-17 06:50 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

心を師とせざれ

  九八、後生も知らず、地獄極楽も疑うて居る者が、
  我が心にだまされて居るのではない。
  後生を願えば願うにつけて、何処までも我が心にだまされて、
  法を聴聞すれば、早や我れよきものになり、
  少し善事をすれば、己れなればこそと思い、
  少し報謝を勤むれば、先づこれでよいと腰をすえる。
  これは皆な夢みるのじゃ。
  少しの隙にも慢心が出て、我れと我が身をだますのじゃ。

  (香樹院語録)

 この法語には「『涅槃経』に曰く「心を師とせざれ」と」と題がついている 。わたしたちは自分の心の下僕と成り果てているから、心が望み心が喜ぶことならなんでもしようと思っている。生まれたときから心にこきつかわれて、心のためにありとあらゆる悪業を為すが、それになんの疑問も持ったことがない。これを「我が心にだまされて居る」という。騙されていることに気づけば「わが心」から自由になる。わが心の下僕だった者がわが心の主(あるじ)になる。これが仏法の端的です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-16 08:46 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

聞かせに来たのか

  二四六、越後にてのことなり。
  ある時師の御法話終りし後、
  両三名の同行のうちつれて師の御前に出で、
  品々進上して有難い有難いと、各々領解を述ぶ。
  師は之を黙して聞き給いしが、
  みなみな退散の後傍の人を顧み給いて、
  今の人等は己れに聞かせに来たのか、なにしに参ったのじゃ。
  と仰せありきと。

 (香樹院語録) 
 

 ここで描かれている「両三名の同行」こそ多くの門徒の姿でしょう。「品々進上して有難い有難いと、各々領解を述ぶ」ることはしても、自らの内心を糺してもらおうとはしない。まことに「なにしに参ったのじゃ」。竹内先生は「仏法は自己保身させるためにあるのではない。自己保身を破るためにあるのだ」と教えられましたが、これがお弟子さんたちにはわからない。

 自分の心が一番大切で、自分の心が傷ついたり、鬱々してしまうと、さぁ大変だとなる。なんとか心が明るくなるようにしなくてはとあわてふためく。これを「自己保身」というのです。自分の心にすっかり縛られて、自分の心の奴隷に成り下がっているのは、あたかも、子を溺愛するあまり子に振り回され、かえって子をダメにする過保護の親の姿です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-15 06:27 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

弘誓の船

  二二六、弘誓の船は弥陀の成就したまう所なり。
  弘誓の船を知らずにいるもの。
  弘誓の船を見て乗る気のいまだ起らざるもの。
  乗りたいと思い種々に分別して乗り得ざる者。
  乗らずして乗ったと思うもの。
  喩の方でわかりてあれども、法の方ではまぎれている。
  乗りて歓喜するもの。

  (香樹院語録)
 
 「乗らずして乗ったと思うもの」がいるが念仏がない。念仏するフリはできるが智慧がないので懺悔と讃嘆がない。「乗りて歓喜するもの」は煩悩の闇黒を照らす智慧の光をいただく。光があるので煩悩がよく見える。見えることによって煩悩が浄化されていく。無量劫より蓄積された無量の業垢が果てしもなく出てくる。煩悩の闇黒を見せられる苦しみがあるが、仏のお心に護られているので、どこまでも煩悩の闇黒と闘うことができる。煩悩が浄化される中で罪の深さを何度も何度も知らされて、そのたびに新しく救われていく。それが念仏相続であり、懺悔と讃嘆の念仏です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-14 12:23 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

帰去来

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  一八〇、法然聖人は、
  死ぬのではない極楽へ生るるのじゃ、
  と仰せられき。

  (香樹院語録) 

 生まれてきたのなら死ぬということがある。生まれたようでいて生まれたということがなければ、死ぬようでいて死ぬということがない。生死のある虚仮の世界に暮らす人は生まれたということがあるから死ぬことがある。生まれるも死ぬもない真実の世界に暮らす人は死ぬということがないからから「往生」という。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-13 06:10 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

他力とは無我のこと也

  一六二、他力と云うは、
  蓮如上人は無我になることじゃと仰せらる。
  よくよく我慢が強ければこそ、
  まことに我が身のあさましさが思われぬ也。

  (香樹院語録) 
   

 われらは仏の御いのちである。見るもの聴くもの触れるもの、ことごとく仏の御いのちでないものはない。人がつくったものなどなにもない。そもそも人がいないから、すべては仏の御いのちである。人がいないから「無我」といい、人がいないからに苦しみがない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-12 06:03 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

平生聴聞

  六二、後生大事の心は、わが家にありての事。
  寺参りしてから、俄かに大事にはなられぬ也。
  助かるいわれは、参りて聴聞して疑いをはらす事。
  これは、我が分別では晴れぬ也。

  (香樹院語録)

 いま起きている事実を「自分にとって」都合のいい事実と都合の悪い事実に分けることを「分別」という。基準は自分にある。いま起きている事実は宇宙一体の命(仏)であるから「事実」を嫌うことは「仏」を嫌うことだと知らなくてはならない。「なんでこんな目に遭わなくてはならないのか」と運命を呪うのは仏を疑うことだ。だから、どんな事実も「仏の御いのち」と拝むことができたら、それを「疑いが晴れる」という。仏が基準になる。

 疑う心の底には暗く醜い「執着」がとぐろを巻いている。執着が好き嫌いを言う。だから「疑いが晴れる」とは執着が切れることをいう。ちなみに、この法語には「平生聴聞」と題がついている。「寺参り」はサークル活動ではない。「自分基準」(無明)から「仏基準」(智慧)に転換するには命がけで聴聞しなくてはならない。「自分基準」への執着と闘うのです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-11 08:29 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

畏聖人之言

  一九、『論語』に曰く、
  「君子有三畏、畏天命、畏大人、畏聖人之言」と。
  とかく、教の言葉をあなどりて、たかが、こう云う理屈ぞと、
  手前ですます料簡があるゆえ、ものを狎れ狎れしう思うて、
  大切なことを何とも思わず仕損ずる。
  それで当流にも、何のようも苦労もなく、
  助け給わんがためにとて、種々のご苦労をなさるるに、
  その御言葉を何とも思わず、大切にする心がない故に、
  いつも其のこととばかり思うて、
  身に引き受けて、心に味うことが少ない。
  よく聴聞して、信心を決定あらう。

  (香樹院語録)

 仏教に「生きる意味」(理屈)を教えてもらおうと考えている人はいくら聴聞しても「信心」がわからないだろう。始めから求め方が間違っている。事実はどこまでも厳密で、わたしがどう考えるかに関係なく起きている。信心がわかるためには、自分に都合がよかろうが悪かろうが「事実だけが真実だ」と決着しなくてはならない。しかし、信心がわからない人は「事実を事実として受け入れて生きる」ということがどういうことかがわからず「事実をどう解釈して生きたらいいか」とばかり考えている。

 すなわち、事実の手前、事実の解釈である「理屈」にとどまって、どうしても事実を受け入れる勇気がない者には信心が最後までわからない。「とかく、教の言葉をあなどりて、たかが、こう云う理屈ぞと、手前ですます料簡があるゆえ、ものを狎れ狎れしう思うて、大切なことを何とも思わず仕損ずる」とはそういうことです。仏教を「世渡りの知恵」「心構え」ぐらいに思っている人には耳が痛いだろう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-10 21:47 | 香樹院語録を読む | Comments(0)