カテゴリ:香樹院語録を読む( 161 )

赤尾の道宗

  一四四、長崎の同行、
  はるばると越後まで来りて、御前え参りたる時、
  その顔に、六七十日もかかり、万里の遠路を凌ぎ来て、
  法を求むる道心者なりとの色見えたり。
  則ち師の仰せに曰く。
  赤尾の道宗は、唐天竺まで行きても、
  如何にしても法を求めんと云う志じゃったに、
  今やすやすと居ながら聞かるるとは、
  只事ではないと喜ばっしゃれ。

  (香樹院語録) 
 

 生まれれば死ぬ。始めから分かっていることだが、いざ死ぬとなると「初めて聞いた」みたいな顔をする。死に方は選べず、そもそも、どんな死も死は死、死の事実があるだけだ。一つの命からすれば死はすべての終わりだが、全体の命からすれば大河の一滴、死んだということすらない。そんな命がワイワイと無意味に騒いだ挙げ句、最後は、死んでいく先もわからず「死にたくない死にたくない」と死んでいく。死ぬまではみな死なないと思っているのである。真っ暗闇に頭を下にして堕ちていくだけなら、なんのための人生だったか。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-17 05:08 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

心の病としての孤独

  三六、伊勢進士妙念の話に、
  或る同行、私は御恩が知れませぬと申し上げたれば、
  五劫永劫五劫永劫と、独りごとに云うておれ。
  と、仰せられたりと云云。

  (香樹院語録)

 この宇宙に自分一人しかいないことを「孤独」という。仏のお心はこの宇宙に遍満しているが、仏のお心とともにないことが「孤独」である。仏のお心に出会うこと以外に孤独は癒えない。「五劫思惟の願」はわたし一人のためである。わたしのことをわたしの知らない遠い過去からずっと思いづめに思ってくださっていたお心がようやくわたしに届いたのである。わたしはずっと一人ではなかった。それが「信心歓喜」である。孤独という恐ろしい病が癒えた喜びである。心の深いところにみな孤独を隠している。自ら知らず、孤独を癒すために人の愛を求めているが、人の愛では孤独は癒されない。われらはみな一人で死んでいくからである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-15 06:23 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

邪見な心がやみませぬ

  一二、或る人、私は邪見な心が止みませぬ、
  と申し上げたれば、仰に。
  邪見な心が止められぬと思いつめて、
  かかる邪見な奴を御目当てに
  起してくだされた御本願と喜んでおれ。


  (香樹院語録)

 「私は邪見な心が止みませぬ」とは、自分の心が見えてきた。智慧が生じたのでしょう。信の一念の一歩手前です。「邪見な心が止められぬと思いつめて」「御本願と喜んでおれ」とは、自分の心をいじらずに、ただ眺めていなさいというご指導です。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-14 09:02 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

三種の慈悲

  一九一、慈悲に三種あり。
  小悲、中悲、大悲これ也。

  小悲と云うは凡夫の慈悲にして、
  親子、兄弟、六親眷属のものにはなさけをすれども、
  他人が如何ほど難儀しても救いやる心なき故、
  これを衆生縁の慈悲と云う。

  中悲と云うは、声聞、縁覚、菩薩の三乗の慈悲なり。
  これは我れに法の因縁あるものには慈悲をなせども、
  一切衆生のためになし給わぬ故、
  これを法縁の慈悲と云う。

  大悲と云うは仏の慈悲なり。
  怨、親、中の三を離れて一切衆生に慈悲を施し給う。

  (香樹院語録) 


 竹内先生から一番最初に教えていただいたのは「仏とは智慧を与えて救うという救いの働きです」という仏の定義でした。救うのは仏、われらは救われるだけの身です。だから、親鸞は「小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもふまじ」(正像末和讃)とはっきり教えてくださっています。では、なにから「救われる」かといえば「自分の心」から救われる。どんな状態を「救われる」というのかというと、自分の心を離れて、自分の心の影響を受けない。これを「救われる」という。

 救われなくては救われるということがどういうことかはわからない。つまり、救わんとした仏のお心がわからない。「仏とは智慧を与えて救うという救いの働きです」から、仏は自分の心が見えるように智慧を回向してくださいます。だから、自分の心が見えたら、それが仏に救っていただいたということです。われらはどこまでも「救われる身」であって、決して「救う身」ではない。これを親鸞は「小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもふまじ」(正像末和讃)とはっきり教えてくださったのです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-12 06:31 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  三五、五人七人の子を持ったる親が、
  その子がみな首の落ちるような悪事をしたを、
  並べて眺めている親の心はどう云うものであろう。
  ただ涙こぼして、見るより外はあるまい。
  在家も出家も、男子も女人も、
  彼尊の御膝元にならべて、天眼の御まなこより、
  御眺めあらせらるるのに、
  首一つ斬らるる位のことではない。

  無量劫の永の間、又再び人間に生れ出させて、
  爰までに育てるは、並大抵の御骨折ではない。
  それをば是れも無間の罪人じゃ、あれも無間の罪人じゃと、
  御眺めあらせらるる御慈悲の思召は、どのようであろう。
  それを思えば、我身は勿論のこと、我妻も子も、
  同じ御前に並ぶ彼尊の子じゃと思わば、
  たとい親は子にあやまり、夫は妻にあやまりてなりとも、
  この御法を聞かせ、御法義相続せねばならぬ。

  (香樹院語録)

 無量劫の過去よりの悪業の蓄積としてのこの身をいただいて、ここに、わたしの現在がある。わたしの親も、わたしの妻も、わたしの子らも、みな「無間の罪人」としての過去がある。この世で一時の縁を結んだがいずれ解ける縁である。親鸞は「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」(歎異抄・第5章)と言ったが、一切の有情は仏に救われるのであり、わが子であろうと、わが妻、わが親であろうと、今生ですれ違ったが、わたしが救うのではない。いずれも仏の救いを待つ身である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-09 06:42 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

解脱の耳をすまして聞く

  八四、聞くと云うに二あり。
  一には、無名無実に聞く。唯おおように聞く。名聞人並に聞く。
  二には、解脱の耳をすまして聞く。

  (香樹院語録)

 「聞く」とは自分の意見を持たない。心の器を空っぽにして、一言も聞きもらすまいぞと覚悟を決めて、言葉の奥にある善知識の本意に鋭く迫る。聞くうちに、やがて心が空っぽになる。なにを聞いているのか。なにが聞きたかったのか。なにもわからなくなる。空っぽになった心に仏心が入ってくださる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-08 06:25 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  一六九、江州湖北の某寺にて御法話の節、
  一人の老媼、一座をさし出でて高慢顔に自得のままを述ぶ。
  師きびしく呵して曰はく、顔見るも厭やじゃ、 と。
  老媼恐れ入りながらも渋き顔して退出せんとす。
  師再び呼び返して仰せらるるよう、
  汝よく聞け。己ればかりが嫌うでないぞ。
  十方の諸仏も菩薩も、皆な忌み嫌い給うが驕慢心じゃ。
  其のあらゆる仏菩薩に忌み捨てられたるものを殊に憐れと思召して、
  我慢の和ぐように照らして下さるのが、弥陀の光明じゃ程に、と。
  老媼、感涙して改悔せりと。

  (香樹院語録)  

 この法語には「光觸れんもの身心柔軟ならん」と題がついている。光とは智慧、智慧は自分の心が見える。浅ましくも醜い心、よくぞ、恥ずかしくもなくこんな心を隠して生きてきたものぞと驚き入る。自分を知らないから偉そうにしていられたが、ありのままの自分を見せていただいたら頭の上げようがない。驕慢の角を折って素直な心を与えようというのが「触光柔軟の願」です。


すなわち、智慧が生じて「思い」が見えれば、思いに縛られて「思い通り」にしたい貪欲が和らぐ。貪欲が和らげば「思い通り」にならない瞋恚(怒り)が和らぐ。怒りが心を固くするから怒りの少ない心は明るく軽く柔らかになる。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-07 06:22 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

ただ仰ぐばかりなり

  一二一、摂取して捨てぬとある大悲の実が聞こえて見れば、
  助かりたいがいらず、堕ちまいがいらず、
  なろうがいらず、仕あげることがいらず、
  ただ実言のはたらきを仰ぐばかり也。

  (香樹院語録)

 これは信心をいただいた心境を述べている。仏のお心の中に生まれてみれば、自分の心が見える。見えるとは離れている。離れるとは執着が切れている。自分の心に執着がないから自分の心がどんな状態であろうと構わない。心は色んなことを思いにしてわたしを動かそうとするが、仏にお任せした身は「助かりたいがいらず、堕ちまいがいらず、なろうがいらず、仕あげることがいらず」。心を相手にしない。放っておけば仏がよいようにしてくれる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-05 06:16 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

讃仰

  一〇二、百千倶胝の劫をえて、百千倶胝の舌をいだし、
  舌ごと無量の声をして、弥陀をほめんに猶つきじ。
  この『和讃』の御こころを仰せらるるときは、
  いつもいつも、身を揺り動かし、
  立ちあがるようにして、仰せられけると。

  (香樹院語録)

 仏は色も形もない。五感で認識するわれらは五感で捉えられないものは認識できない。 存在しないことになっている。仏を語る善知識は仏を知っているのである。色も形もない仏をどうやって知ったか。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-04 06:11 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

常照我身

  五三、此の弥陀が守って居る程に、疑うなよ疑うなよ、
  十方諸仏の御請け合、天が地になっても、
  念仏行者が浄土に参らぬと云うことなしとの仰せなり。

  (香樹院語録)

 この法語は「常照我身」と題がついている。「わが身を照らす」とは、わが身が見える。無量劫より積みし悪業の蓄積の結果としての「宿業」が見える。見えることが「智慧」です。煩悩の眼には見えない宿業を仏が見えるようにしてくださった。見えることが救い、見えるようにして救うのが仏のお慈悲です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-03 06:05 | 香樹院語録を読む | Comments(0)