カテゴリ:香樹院語録を読む( 161 )

親子の愛はひたひたする

  二〇四、とうとむ人より
  とうとがる人がとうといと法敬房のいわれたを、
  蓮如上人は面白きことを云うと仰せられた。
  まことの信を得ぬ人は、
  これが報謝じゃと云うて
  なにか極楽えまいらせくださるる御礼を、
  如来さまに進ぜ申すように思うて居る。
  そこでどうやらひたひたとせぬ。
  まことの信を得た人は、
  如来さまに助けられた身体じゃもの、
  大悲の心に納めとられた身体じゃものと思うて居る故に、
  何を云うても唱えてもひたひたとするは、
  親子の愛のあるしるしじゃ。

  (香樹院語録) 
 

 仏のお心と心通じ合うことを「感応道交」という。信心は仏のお心を経験することであるから理屈をいくら覚えても仏と心通じ合うことはない。仏は求める心に応じて現れてくださるからである。あなたが本当に救われたいと願えば必ず救ってくださる。だから、仏を経験した人の言葉からは仏のお心がちゃんと伝わってくる。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-10 06:56 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

一生造悪のものなり

  二四二、五善五常を守りたとて、善人となれるにはあらず、
  一生造悪のものなり。死ぬるまで貪瞋煩悩は絶えぬなり。
  この悪人を助けようの本願なり。
  少し身の嗜みが出来れば、はや善人になりた様な驕慢の起るは、
  まだ己が胸の明かならぬ也。

  (香樹院語録) 
 

 憎い人は心がつくる。問題は外にあるようだが問題をつくるのは心である。これが信仰の据わりである。外に求めれば諸行無常、終わりがない。内に求めれば涅槃がある。内なる無明を破れば苦悩の終わりがある。命の帰る場所がある。この身と心は久遠劫よりの宿業でできている。五十年、百年でどうなるものではない。「一生造悪」「死ぬるまで貪瞋煩悩は絶えぬなり」。貪瞋煩悩が生きる姿である。その醜さ、浅ましさに耐えなくてはならない。事実を事実と受け入れるのが正しい信仰の姿である。事実を受け入れると失うものがある。それがあなたが執着しているものだ。身への執着はいましばらく耐え、心への執着は今すぐ捨てられる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-09 10:43 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

返事

  一六〇、一字の竪横しらぬものを抑えて、
  そこもとは学者じゃと云われて返事が出来るか。
  喰いかねるような貧乏人を抑えて、
  そこもとは大福長者じゃといわれて返事がなるか。
  爾るに、真の仏弟子じゃ、正定聚の菩薩じゃと云われても、
  この私で御座りますと返事の出来るは、これ貰うた印也。
  よくよくの御慈悲と思うべき也。

  (香樹院語録)    

 信心は「いただく」という。持っていないから「いただく」という。持っていれば「いただく」必要がない。持ったことがないからどんなものかはわからない。食べたことがないのに「どんな味か」と聞かれても返事の仕様がない。答えたら嘘つきだ。信心のことはとにもかくにも「いただいた」上での話である。誰がくださるか。仏さまである。仏さまがくださるから「廻向」という。

 いただいたか、いただいてないか、これははっきりしている。いただいたのに「いただいてません」とは言えない。いただいてないのに「いただきました」と言えば嘘つきである。仏さまはなにをくださるかといえば「智慧」をくださる。われらは「智慧」をいただく。いただいたときに「くださったお方」のことがわかる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-05 21:01 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

掛橋

  四九、「掛橋や、いのちをからむ蔦かづら」。
  芭蕉が夜のあけぬうちに宿を起ち、
  眠り眠り木曾の掛橋をとほりかかった時、
  ほのぼのと暁近うなったから、谷をのぞいて見たれば、
  やれやれ恐ろしや、千丈もある山の腰の掛橋であった。
  ようも躓かなんだとの意。
  今も其の如く後生大事の明るみが出て方角が知れ、
  後生知らずに今日まで暮したことを思うて見れば、
  まことに千丈の谷の上で、目が醒めたような心地じゃ。

   (香樹院語録)

 智慧を光に喩えるは「見えないものが見える」ようになるから光という。眼がよくて見えるのではなく光があるから見える。智慧の光はなにを見えるようにするかといえば「自分の心が見える」ようにしてくださる。なぜ仏はわれらに智慧を与えてくださるのか。「見えるとは離れること」だからです。心の思い通りにしたい貪欲と、思い通りにならない瞋恚にボロボロになっているが、「心のいう通りにしなくていい」と教えるために仏は智慧を回向してくださるのです。あなたを苦しめている“自分の心”から自由になる。これにまさる喜びはない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-29 06:46 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  二五、たのむ謂れも知って居る。
  悪人じゃと云うをも知っている。
  後生大事も呑み込んでいる。
  頑是なきわけ知らぬ子には教えよい。
  なにもかも合点して、悪事やめぬには仕方がない。
  浄土真宗の門徒、多くは皆この通り。
  御化導も呑み込み切って居ながら、
  我が身の地獄を何とも思わぬは残念也。

  (香樹院語録)

 仏法は心を映す鏡である。智慧の鏡に曇りはない。法を聞いて心を見ない者は法を聞いていないのである。ただ言葉を覚えただけである。念仏の真似事をしただけである。心を見ないのは心を見るのが恐いのである。心が少しはましになったら鏡を覗いてみようと思っているが、死ぬまで心が見られない。浄土真宗の門徒、多くは皆この通り。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-28 19:54 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

不思議

  二九六、安政四年十二月二十七日、
  秀存師、師の病床をたづねられたれば。
  仰せに。誰れにも人に尋ねずに、唯だまって念仏を申しなされ。
  存曰く。左様ならば、ただ御不思議におまかせ申して、
  念仏を称える計りで御座りますか。
  師曰く。不思議と云えば、
  今まで命ながらえたのがはや不思議じゃ程に。

  (香樹院語録) 

 秀存師は香樹院師の直弟子。死の床にある師に対するに、師の亡き後、誰かを師にしなくてはならないかと尋ねた。まだ自分に自信がなかった。師は弟子に対するに「唯だまって念仏を申しなされ」と。すでにあなたは信心の人、智慧が涅槃へと導いてくれるのだから、なんで新しい師が必要かと。
 
 すると秀存師、「左様ならば、ただ御不思議におまかせ申して、念仏を称える計りで御座りますか」と、少しばかりくどい。香樹院師、聞き流して「今まで命ながらえたのがはや不思議じゃ程に」と。信心の智慧を与えて、ここまでお育てくだされた仏のお慈悲がありがたいと、死を前に仏恩報謝のお気持ちを述べられた。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-27 06:04 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

山が見える

  七四、船に乗って、向いの岸が近づけば、
  さあ、向いの山が見えたと云うことは、
  十が七八仕おおせたことじゃ。
  各も生死の大海はてのないのに、
  我が疑いさえ見えたら、
  もう仕おおせたものじゃ。
  もう一山ここで越さにやならぬ。

  (香樹院語録)    


 「船に乗って」とは信心をいただいた。「向いの岸」とは彼岸、涅槃の境地のことです。煩悩具足の凡夫は仏ではないが如来回向によって涅槃の一分を経験させていただくことができる。経験させていただいたからこそ涅槃の境地(彼岸)が分かり、そこを目指して修行ができる。信の一念にいただいた「向いの岸」に渡る船を「智慧」という。

 智慧は人間の知恵(はからい)を照らす光であるから人間の知恵を超越している。超越していなければ人間の知恵を照らす光にはならない。智慧を得てはからい分別(煩悩)を始めて見せていただいた体験を信の一念というが、信後も最初のうちは自力と他力の間を言ったり来たりする。何年もの間、智慧がまだまだ身につかない。どこか自信がないが、それが信心が深まって行くプロセスであるのは間違いはない。

 信心の深まりとともに「各も生死の大海はてのないのに、我が疑いさえ見えたら」と、智慧とはなにか、仏とはなにか、今一つ不審が晴れずにいたが、「我が疑い」が見えて、自力がなくなる。他力だけになる。仏を疑う訳ではなかったが、最後まで残っていた不審がようやく晴れる。そのことを香樹院師は「我が疑いさえ見えたら、もう仕おおせたものじゃ」と教えて下さっているのです。

 願力自然(智慧)の働きにより、智慧が自由に働いてくる自然法爾の境地に入ったのです。「もう一山ここで越さにやならぬ」の一山を越えたのです。それなので、師いわく「もう仕おおせたものじゃ」と。さて、「山が見える 」と題のあるこの法語は相手がない。これを聞かせた「各も」とは誰であったろうか。というのも、ここまで来る人は稀であろうから。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-26 14:55 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  二九五、安政四年十二月三日、
  了信、御枕許にて申し上ぐるよう。

  先年長浜にての御聞かせ、
  あら恐ろしや恐ろしやあら嬉しや嬉しやの思いの起らぬは、
  無宿善じゃとの御意で御座りましたが、
  今私もようよう其処えとどかせて頂きました。
  これは私が罪造りながら知らずにいることを、
  御知らせ下さるることで御座りますか。

  仰せに。そうじゃ。
  凡夫と云うものは生れ落ちるから死ぬるまで、
  三塗の業より外に仕事はせず、
  毛のさき程も身を知らずに居るが凡夫じゃ。

  申し上げて曰く。有難う御座ります。
  善知識様の御化導によりまして、
  火の坑の上の綱渡りは、
  私が日々の所作と思い知らせて頂き、あら恐ろしや、
  かかるありさま見込んでの御呼びかけとは、あら嬉しや、
  国に一人郡に一人の仕合せものと喜びまする。

  (香樹院語録)

 この法語は信心というものがどのようなものか、実にわかりやすい。了信という人、臨終の床にある師に対して、「これは私が罪造りながら知らずにいることを、御知らせ下さるることで御座りますか」と領解を述べれば、香樹院師、言下に「そうじゃ」と認可する。「凡夫と云うものは生れ落ちるから死ぬるまで、三塗の業より外に仕事はせず、毛のさき程も身を知らずに居るが凡夫じゃ」。人はみな自分が誰かがわからずに迷うのであると、まことに単刀直入、仏法の核心に斬り込む。

 自分が誰かを知らないから、欲望や煩悩に簡単に騙される。自分の心に騙されていることにも気づかず一生を終る。これは悲しくも、多くの命の、まぎれもない現実である。よくよく心して聞くがよい。さて、信心は必ず二種深信である。「私が日々の所作と思い知らせて頂き、あら恐ろしや」が機の深信、「かかるありさま見込んでの御呼びかけとは、あら嬉しや」は法の深信、まことにわかりやすいご化導である。信心の人は稀であるから「国に一人郡に一人の仕合せものと喜びまする」と了信は喜んだ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-22 06:26 | 香樹院語録を読む | Comments(3)

助からぬ心

  一七五、或る人、師に参りて、
  私の心は微塵も助かりそうな所は御座りませぬと申し上ぐ。
  師の仰せに。その心苦にするな、
  微塵も助からぬ心を、助けて下さるが誓願の不思議じゃ。
  それが他力の御不思議じゃ。

  (香樹院語録)  
  

 この人、名前は残っていないが、「私の心は微塵も助かりそうな所は御座りませぬ」と、よくぞここまで聞き遂げた。しかし、まだ仏のお心の中に生まれていない。だから、師いわく「その心苦にするな」と。自分の心に絶望しただけでは信心ではない。まだ仏のお心を知らない。未来に光がない。いつ信の一念が訪れてもよい。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-20 06:36 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

心は内に向かない

  四三、このたび我等が一大事の後生、
  助かるも己が心、助からぬも己が心。
  我が家を出で足を東へふりむけたと西へふりむけたとは、
  一足のふりむけようでも、大きに方角がちがう。
  地獄へふり向くも我が心なり、
  極楽へふり向くも我が心なり。
  その今迄地獄へふりむけておく心をば、
  此度はふり向けなおして、
  極楽へふり向け給う善知識の御化導。

  (香樹院語録)

 心が外に向けば「地獄」への道。心が内に向けば「極楽」への道。仏はわれらの心の中におられるのである。だから、内に向かうことが「極楽」への道である。しかし、心は内に向かない。心を見て心に絶望すれば生きていられないことを本能的に知っているからである。心より金とか仕事、家族や恋のことを考えた方がずっと楽しいと信じている。臨終の床で結論が待っている。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-18 06:15 | 香樹院語録を読む | Comments(0)